第5話
彼女はどんな人間にも平等に微笑むだろう。私はずっと彼女をスクリーンで観察してきたからそれが分かってしまった。そこに理念や純潔といった要素のあるとなしとに関わらず、彼女はきっと誰もを等しく愛する。ある種の好奇心を伴う博愛主義的な心で――
そして、その博愛はあの男とて例外ではないのだ。
それが、私には狂ってしまいそうになるほど腹立たしく、
そして既に狂っているのではないかと疑うほど悲しかった。
「もう酒はない。飲み尽くしてしまったんだ」
私が心の裏側で誰か一人の心を占有したいと言う欲求を抱いていることに気付いたのはそう遠い昔のことではない。私はその欲求を私なりに恥じていた。なぜならそれは裏切りを恐れる臆病さの裏返しであり、自分が傷付かないための卑怯な予防線であり、つまりとても幼児的な願望だと思ったからだ。
しかし、私はそれを求めずにはいられなかった。他者を恐れるあまりその心の占有を求める一方で、本当の意味で一人きりのまま死ぬまで生きていくなんてことは到底不可能なことのように思えたからだ。私は誰かに嘘偽りのない共感がしたかった。それによって、自分にもまだ真っ当な心が残っていることを証明したかった。私は誰かに嘘偽りのない共感がされたかった。それによって、自分と言う存在にもまだ誰かに必要とされるだけの意味があることを確かめたかった。それらを他者を恐れる私が叶えるためには、誰かの心を占有するより他に方法がないと本気で思っていた。
それが、私の「恋心」の正確な正体だったのだ。
「全く、大した道化だよ」
私は誰に語りかけるでもなく呟いた。
あの日、私は彼女に出会った。
フィルムにはそもそも裏切りなんて筋書きは焼き付けられていないし、秘密警察の監視をくぐり抜けられさえすれば何度でも彼女に会いに行くことができる。自分を信じられない人間に他人を信じることなんてできるはずもないが、何度会いに行っても変わらぬ微笑みで迎えてくれる彼女を私は唯一信じることができた。いや、より正確に言うなら、彼女を信じている間はあの微笑みをあたかもその正当な権利を持っている者の如く真っ直ぐに受け止めることができたのだ。
「もう冬の足音が聞こえる。じき辛抱ならないくらい寒くなる」
だから私はあのフィルムに映る彼女を誰よりも理解する存在でありたかったし、そういう存在であれば、彼女の微笑みの本当の意味を受信し理解できる人間は私ひとりということになる。これによって、私は彼女という存在を占有することができた。私が彼女を愛することで、彼女もまた私を愛してくれたのだ。
だが、彼女はあの男さえも愛すだろう。
なぜなら、私も同様のロジックで愛されていたからである。
彼女の博愛主義を前に、動機や目的の貴賤は存在しないのだ。
と言うことは……
あのフィルムがこの世界に存在する限り、あの男のように彼女を表面的にしか捉えないままに消費するような人種は未来永劫生まれ続けるだろう。そればかりか、より軽薄で悪辣な輩さえ出現するかもしれない。その全てによって彼女は消費され続ける。そして、彼女はその全てに等しく微笑みを見せる。
「この悲劇になんて名前を付ければ良いと思う?」
彼女の声は、一向に聞こえてこなかった。こらえきれなくなった私は吐き出すように叫んだ。
「なぜいつもみたいに話しかけてくれないんだ」
幻聴でも構わなかった。いや、幻聴でしかあり得えない声だったのだ。
——私の内心とやらが死んだせいなのか?
答えなど分かりはしない。私は孤独だったからだ。
そうして、ようやく気が付いた。
私は単に夢を見ていただけなのだ。
彼女と言う夢を、
決して終わらない夏と言う夢を。
そこに咲いた花は、なんてことはない。
自分の弱さや醜さを美化しただけの虚飾と欺瞞に過ぎなかったのだ。
だとしたら――
「そんな世界、滅んじゃえばいい」
大切な物をぶち壊しにしたかった。俗っぽく分析すれば精神的な自傷行為とでも言えばいいのだろう。私は自分が大切に思う全てのものを台無しにしてしまいたかった。そうすることでしか拗れ切った感情の糸が許してくれない気がした。絡み合った理屈が快方に向かわない気がした。気が晴れない気がした。
「そうか……」
幸か不幸か私は気付く。
彼女を取り巻く世界のすべてを滅ぼせるのは私だけだと。その考えは熱を帯びながら空転する思考によってあっさりと心地よい他責的な使命感にすげ変わる。
――私が滅ぼさねばならないのだ
そして、私だけが生き残ってやる。
それが終わらない夏なんて嘘っぱちを喧伝する世界や、軽薄に生きることを疑問にも思わないあの男や、それら全てを生み出した彼女に対する私だけの復讐なのだ。
私は受話器を手に取り秘密警察の窓口をダイヤルした。胸の奥がこめかみの温度に反して、不自然にすーっと冷たくなるのを感じた。表面的な理性が馬鹿げたことをやめろと騒いでいたが、水面下の氷山にも例えられる膨大な本能が濁流のように理性や理屈の類を押し流そうとしていた。程なくして受話器の向こうでゾッとするほど冷静そうな男の声が聞こえた。私はあの劇場に関して私が知っている情報を全てぶちまけた。指が震えた。力を入れていないと受話器を取り落としてしまいそうになった。
後日、私は秘密警察によって逮捕された。彼らの捜査が手を抜いた甘いものであるはずがなく、劇場に居合わせた人間に対する尋問から芋づる式で私にまで秘密警察の手が及んだというだけの話だった。
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