第4話
太陽は既に西の空に傾き始めていて、大気は淡い茜色。彼女は屋敷の庭先に置かれたキャンプチェアに腰掛け、煙草の灰が崩れて服にかかるのもいとわず、ぼんやりと宙を見つめていた。私はその横顔を、まるで初めて見るみたいな気持ちで眺めていた。どれだけ離れても消えてなくならない縁があるように、どれだけ近づいても触れられない縁がある。時間がじりじりと言う音を立てながら這うような速度で進んでいる。やがて太陽が地平線の彼方へと吸い寄せられていく。彼女の黒い瞳が得体の知れない感情を映しながら微かに揺れている。私は訳も分からず泣いてしまいたい気持ちになる。
繰り返される一日を謂れもなく見詰める眼差しを、
欺瞞よりも尚不確かな真実と呼べるものの輪郭の儚さを、
それでもわかり合おうとする愚かさを、
一体誰が終わらせられると言うのだろう。
夕日で空が燃え上がっていた。行き交う雲はその残照を浴びて血溜まりみたいな色に染まっていた。まるで地平線の向こうの街で戦争が始まったみたいな光景だった。戦禍は直に我々がいる場所にまで及ぶことだろう。周囲に漂う静謐な終わりの予感は、私が心の内に思い描いた世界の終わりに不思議なほどよく似通っていた。
こここそが、私が夢見た終末の風景なのかもしれない。
だけど世界は終わらない。
彼女となら、世界がいくら続いたって構わない……。
私の胸中で、美しくも恐ろしい夕空と儚い彼女の横顔が、あたかも化学反応を起こしたみたいに、なぜ自分が散々世界の終わりを夢見てきたのか、その答えが次第に具体的な輪郭を伴って浮かび上がるのを感じた。
それはくそったれや世界に対する憎しみであり、
それと同時に、
そんなくそったれな世界で生きるしかない自分に対する憎しみだった。
私はずっと昔から死んでしまいたいと願っていたのだ。
世界を道連れに、全てを終わらせることを望んでいたのかもしれない。
もしも私が根からの現実主義者であったなら、そんなくそったれな現実を変えるために世界に立ち向かおうとする道を選ぶか、テロリストになるか、さもなくば手っ取り早く首を吊っていたであろう。しかしそうでない私は早々に現実に見切りを付けておきながら、もしかしたら現実が変わるかもしれないと言う幻想に見切りをつけることができないでいたのだ。
その結果として、私は世界を滅ぼす妄想で日々をやり過ごしていたのだろう。
すっかり日が沈んでしまった後、彼女は水の入ったバケツを片手にぶら下げて、もう片方の手にビニル袋で包装された花火の束を持って、再び庭に現れた。その表情は永遠に続く夏休みのまっただ中で楽しげに漂流している少年みたいな笑みが浮かべられていた。
私たちは花火を楽しんだ。
世界の終わりに比べれば、それはささやかすぎる火花だった。その規模も、決して膨大な空を満たすことのできない小さなものだったし、すぐに火薬を燃焼し尽くして周囲に蟠る夏の闇を否応なく思い出させる。
だけど彼女がもどかしげにライターの石を鳴らすたび、何度でもそこに夏の花が開く。一瞬たりとも同じ形を留めずに、だけど何より眩しく煌めきながら、裏表のない子供みたいな光を指先から飛び散らせる。
夏も花火もあまりに短すぎた。しかしそのためにどんな物体よりも鮮烈な印象を見る者の心に残した。そしてその煌めきは後世になっても容易には掻き消えない。そんな生き方もあるのだ。
何処か遠くで虫が鳴いている。
その鳴き声に引っ張られるみたいにして、
世界が少しずつ暗くなっていく。
やがて世界は完全な闇に包まれ、
エンドロールが浮かび上がることもなく、
映画は終わりを迎えた。
劇場内に照明が灯る。
違法なフィルムを上映する劇場は厳しい取り締まりの対象になっている。この劇場に居合わせた人間たちは往事の芸術を偲ぶ同志であると共に、明るみになればまとめてしょっぴかれる共犯者でもある。そんなところでのんびり余韻に耽るような悠長さは時に命取りになる。そんなことは誰しもが百も承知のようで、劇場が明るくなると観客達はこそこそした様子で足早に立ち去り始める。私もその群れに紛れるようにして出口へと急ぐ。
そのときだった。
「ねぇあんた」
背後から聞こえた声が私に向かっていたことは、なんとなく雰囲気で分かってしまった。この劇場で仮に知人を見かけたとしてもこの場で声をかけないのは今更語るまでもない不文律だし、そもそも私に旧情を温めるような友人なんていやしない。そんなことを持ち出すまでもなく面倒はごめんだ。私はそのまま聞こえないふりを押し通してその場から離れようとした。だが、人目もはばからず声を上げるような図々しい神経の持ち主がそんなことを許す訳もなく、
「あんたってば」
声の主が逃亡を阻むように私の肩を無遠慮な力加減で掴んだ。芋虫のように太く肥えて、おまけに毛深い指だった。私は内心で溜め息を吐き、聞こえないふりをしてそのまま立ち去る方針から、手っ取り早くあしらう方針に切り替えた。
「なんなんですか一体
振り返ると、年の頃は四十を下らないであろう男が薄ら笑いを浮かべながら立っていた。
「よっぽど好きなんだねえ。前回の上映日にもいたろ」
「知らない人間と馴れ合う趣味はありません」
「もうお互い顔を見ちまったじゃないか」
そう言って男は歯を見せるように笑う。私はその言葉の真意を測りかねた。この劇場に居合わせた人間は密かな同志であると同時に共犯者であり、そして「この場に居た」という弱みを握り合う潜在的な敵でもあるのだ。私は敢えて精一杯の敵意を眼差しにこめながら言った。
「脅しているつもりですか」
対する男は私の言葉の真意を嫌味なほど正確に見抜いたらしい。まるで愚直な敵意をいなすように肩をすくめながら事もなげに答える。
「彼女のファンに悪いヤツはいない。俺は嬉しいだけだよ」
「残念ながら友達を作る予定もありまけん」
「仲良しは増やしておいて損はないぞ、こう見えて俺は模範的な市民なんだ。ただ、ここで話し込むのも確かにリスキーだな。場所を変えよう」
「だから私は、」
「本物の豆で淹れたコーヒーを飲みたくないか?」
我ながら単純すぎる気もしたが、
「……あなたの奢りなら」
男に案内されたのは猥雑な感じのする場末の食堂といった場所で、フィルムで何度も目にした居心地の良さそうなあの喫茶店とは比べようもなかったが、雑多な食品の匂いに混じって微かにコーヒーの香りが漂っていた。男の話によると、この店の店主はとある筋から手に入るコーヒー豆を趣味として常連に振る舞っているらしい。
「言ったろ、仲良しは増やしておいて損はしないって」
まだ警戒している私をよそに、男はどこか楽しそうに言った。
やがて「仲良し」なんて言葉からは到底想像できないほど無愛想で仏頂面な店主と思しき男が現れ、私たちの前に薄汚れたマグカップを置くと、そのまま店の奥へと消えていった。その間、彼は一言も言葉を発さなかった。
マグカップに注がれた褐色の液体から立ち上る香りは、確かに模造品にはない複雑で甘美なものだった。私はその香りを前によほどふ抜けた表情をしていたらしい。男はマグカップを手に取りながら、どこかからかうような口調で言う。
「あの映画を見ると、コーヒーが飲みたくなるよな」
男はあくまでコーヒーと、傍目には珍妙な組み合わせに映るであろう面会の時間を単純に楽しんでいるようにも見えた。悪党にそれと聞いて自分は悪党だと答えるような間抜けもいないだろうが、
「本当に、他意はないんですか」
案の定、男はほんの少し困惑したような表情を浮かべる。
「他意ってなんだよ」
「僕の知っている人間ってやつは、何の打算もなしにこんなことをするはずがないので」
それを聞いて男は私の言葉の裏側を納得したような様子だった。芋虫のような親指をピンと立てながら再び笑みを見せる。
「言ったろ、彼女のファンに悪いヤツはいないって」
その言葉を、私は努めて好意的に解釈することにした。恐る恐るマグカップを手に取り、そっと口をつける。——美味しい。というより、ちゃんと味がする。我ながら貧相な感想だとは思ったが、真っ先に思ったのがそれだったのだから仕方がない。私は再び口をつける。コーヒーなんて苦ければ苦いだけ良いとしか考えていなかったが、本物の、おまけに想像の産物でないコーヒーを味わうと、彼女が豆の特徴について嬉々として語るのがなんとなく理解できたような気がして私は少しだけ嬉しくなった。
そして私の様子を対面で眺めていた男もまたどこか嬉しそうな表情を浮かべる。気の抜けない野生動物が何かの拍子に警戒心を緩めた瞬間に、人はそんな顔をするのかもしれない。身を乗り出しながら、男は尋ねる。
「見たところまだ若く見えるけど、青紙をもう届いたのかい?」
「えぇ、一応」
「その様子だと、気が進まないみたいだな」
そもそもこの話題自体が気が進まない訳ではあるが、
「こんな制度を歓迎しているのは一部の恵まれた上流階級と、数値の改善を歓ぶ政府関係者だけでしょう」
「その通り。全く、へんてこりんな世界になっちまったよな」
私はこの男に対して好意めいたものを抱いた訳では決してないが、少なくともその裏表のなさに関しては、多少信じてみる気になっていたのかもしれない。今度は私から話題を振ってみることにした。
「あなた、子供は?」
「そりゃ作ったさ」
「あなたはどうやって相手を愛することができたんですか」
それは、彼女のファンを自認する男がいかに現実と折り合いをつけているのかを知りたいと言う純粋な好奇心だった。だが、
「愛だって?」
男は大袈裟に落胆するような素振りを見せた。
「そんなものは現実世界から絶滅しちまったんだよ」
「でも、現にあなたは子供を、」
「そりゃ俺にだって肉欲はあるからな。そいつを発散させたオマケみたいなもんさ。我ながら滑稽な光景だったよ」
男はたちの悪い冗談を噛みつぶしているみたいな苦笑を浮かべた。
「その点、あの映画はまったく以て秀逸だよ」
その点って、
「どの点?」
「そそるってことだよ」
「そそる?」
「全編がほぼ一人称視点で構成されてるから、彼女と過ごす夏をまるで自分の身に起こっているみたいに追体験できる。そんな映画はそうそうない。あれで濡れ場でもあれば完璧なんだけどな」
男が浮かべた笑みを、しかし私はもう先程までのようには見ることができなかった。
私は分かってしまったからだ。
この男は、スクリーンに映る彼女を肉欲を発散させるための代償行動として消費している。
「あなたにとって彼女は情欲の対象でしかないんですか」
「それ以外になにがあんだよ、あんな映画の」
私は、ひどく不愉快な気持ちになった。
それから男は得意気にあの映画のどこが優れているかだとか、どのシーンの彼女がどう魅力的なのかだとかを語り始めたが、その内容は正直あまり記憶にない。コーヒーが冷めるのも待たずに必死に残りを飲み込み続けて、挨拶もそこそこに足早にその場から離れた。せっかくの本物を味わう余裕なんてなかった。
帰り道の最中、まるで乗り物酔いしたみたいな胸のむかつきを感じた。
帰宅した私は、もどかしげに外套のボタンを外すと椅子に向かってそれを思い切り投げつけた。ひどく腹が立っていた。
何に対して?
それは、彼女や彼女の映るフィルムを下らない欲望を発散させるためのポルノか何かと同列に見なしている行為に対してだ。
――そんな男に、彼女は相応しくない
そう思えた内は、まだ救いがあったのかもしれない。単純な怒りに身を任せて、喉元を過ぎればやがて長い日常の倦怠に紛れてもしかしたら忘れることだって叶ったかもしれない。
だが、ことはそう単純にはいかなかった。
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