第3話

 駅で私を拾った彼女は愉快そうに微笑みながらマニュアル車を発進させる。決して新しいとは言えない車体に搭載されたエンジンは密かに特別製で、時折老人のように咳き込みながらも順調に加速を続ける。旧式のカーステレオから流れてくる音楽は明るい曲調のポップスで、吐き出した煙草の煙のようにふわふわと漂いながら車内の空気をゆるやかに攪拌する。

 やがて彼女は向日葵畑のただ中で車を停車させると、エンジンを切ってから言った。

「煙草が吸いたい」


 茹だるような夏の青空は気が遠くなるほどに遠く、目映いくらいに光り輝く白い雲と噎せ返るほど鮮やかな植物の緑が作り出すコントラストは、何もかもが色褪せた故郷から遠く離れたことを否応なく連想させた——つまりはこれが、夏なのだ。どこか遠くで輪唱のようなセミの鳴き声が聞こえた。彼女が煙を吐き出す静かな音が妙に近くで聞こえた。それから彼女は煙草を手に持ったまま、どこか遠い眼差しで宙の曖昧な一点を見詰め始める。物思いに耽っているのかもしれないし、案外ただぼんやりしているだけなのかもしれない。煙草の先端から揺らぎもせず立ち上る一筋の白い煙が、まるで彼女の墓に供えられた線香のように見えなくもなかった。


 夏が、光り輝いていた。

 全ての生命が存在を謳歌しているみたいだった。

 そんな目映い世界の中心で、我々は二人きりだった。

 それが私には、何物にも代えがたいほど嬉しかった。


 二十分ほど車に揺られた後に訪れた喫茶店はいかにも清潔な感じのする冷気で空調されていた。私は何度目かも分からない喫茶店の内装を記憶と確かめるように観察する。天井に等間隔で並ぶ暖色の照明、よく磨き抜かれたテーブルの木目、落ち着き払ったワインレッドのソファ——そして一段高くなった床の上に設置されたグランドピアノと世界の縁からひたひたと滴るように聞こえる幻想ポロネーズ。ピアノの表面はよく手入れがされていて、凪いだ湖面に映る月を思わせる光沢がそこらじゅうに浮かんでいる。


 やがて店員がやってきて、我々はアイスコーヒーを注文した。店員が去ってから、彼女は今し方注文したコーヒー豆の特徴を楽しそうに説明する。コーヒーなんてものは苦ければ苦いだけ良いとしか考えていなかった私には何回聞いてもそれが心地よかった。


 会話が途切れて、私が手持ち無沙汰に周囲を見回していると、彼女はその瞼や唇の端に微かな笑みの形を浮かべながら、静かに私の方を眺め始める。それはきっと、自由であろうとしている者だけが浮かべることのできる微笑みなのだ。満たされない世界で、何かを満たそうとし続けることには、きっと苦しみだって伴うのだろう。報われない日々もあったことだろう。時に諦めだって強いられたかもしれない。日の光に当たっている部分に浮かび上がった大きな煌めきの影に隠れながらも、確かに混ぜ合わされたであろう苦痛や忍耐の色、一つまみの諦観、それがかくも美しい表情をそこに映すのだ。彼女の明るくも底の見えない微笑みに、私は確かに憧れにも似た感情を抱いた。今までの逢瀬が飯事に見えるくらいの深さで、私は彼女に惹かれていた。その実感に、私はとても満たされた気持ちになった。


 彼女は思い出したみたいに口を開くと、人間の内面に関する混沌をいかに愛するべきかを語り始めた。時間は相も変わらず蜂蜜にも似たテクスチャで緩やかに流れていくが、そのひとしずくに至るまで私はもはや他人事には思えなくなっていた。だからこそ、正体もその源泉も不確かながら止め処なくあぶくのように浮かんでは過る感情を正面から受け止め咀嚼し飲み込まねばならなかった。

 だけど、そんな不条理も君となら悪くない。

 私は永遠に空を飛び回る戦闘機を思い描く。

 決して終わらない物語を待ち望む。

 この時間がいずれ終わってしまうことを免れないのだとしても、それでも「終わらないように」と願うこの気持ちだけは、きっと真実と呼べるものなのだ。


 やがてアイスコーヒーが運ばれてくる。

 爽やかな酸味とフルーティな香り——苦いだけのコーヒーしか知らない私は、束の間その味わいを想像する。きっと、夏に良く似合う褐色があるとすれば、それはきっとこんな具合なのだろう。




 数日後、私の家の郵便ポストに青紙が届いた。青紙と言う名前は無論俗称で、本来は役所仕事の例に漏れずまどろっこしくなるほど長い名前が付けられているのだが、そんなものを正確に覚えている人間なんてほとんどいない。早い話が青紙とは量子コンピューターによって私の結婚相手が決定されたことを告げる手紙であり、晴れて私の人生はつがいを作ると言う次のプロセスに進んだと言う訳だ。


 国富とは突き詰めると民族の力の総和であり、その発展には理想的な遺伝子プールの維持が必要不可欠である。そのために必要なのは個々人の自由主義や主観的な愛情と呼ばれる生理現象などでは決してなく、客観的なデータに基づく厳密な演算によって算出された男女のつがいが子供をもうけること。そして、その家庭が所属する階級やコミュニティによってあらかじめ指定されたカリキュラムに沿って適切な教育を施すこと。この国が慢性的な衰退から脱するために縋った方法がそれだった。人々は自らものを考える権利とその責任を諸手を挙げて捨て去ってしまったのだ。


 後日、私は青紙によって告げられた相手と面会する機会が与えられたが、その時間は全くと言っていいほど退屈なものだった。


 音楽が聞きたかった。とびきりメロウな音楽が、どうしても聞きたかった。私にも好きと呼べるだけ音楽があったのだ。だが生憎私の部屋にはプレーヤーなんて高級品はなかったし、そもそもレコードは禁制品に指定されている。そればかりではない。旧世紀の優れた文学作品や往事の輝きを現像したフィルムの類い、また現行政権に不都合な思想が封入されたあらゆる媒体に至るまでもが禁制品に指定されている。役所への届け出なしにそれらを所有するのは量子コンピューターが作ろうとしている豊かなユートピアへの看過できない反逆行為と見なされ厳罰に処されるし、そもそも律儀に役所に届け出たところで秘密警察による盗聴や盗撮を含めた厳しい監視が始まるばかりである。


 人が未来を諦める時間の中で、

 欺瞞を欺瞞と言えない群衆のただ中で、

 愛する音楽にさえ届かない部屋の中で、

 私は散々、この世界が滅ぶ妄想をした。

 私はグラスを手に取り、妙に黒ずんだ色合いの密造酒を一口だけ含んでから、飲み込んだ。喉を伝っていく荒々しい熱量が却って私の心を目覚めさせるようだった。

「そう悲観することもないじゃない。あなたは伴侶を見つけられたのだから」

「僕が見つけたんじゃない。見繕われただけだ」

「いないよりはマシでしょう」

「僕には……」

 再びグラスを手に取り、半ばヤケのように傾け、味を確かめる間もなく飲み込んでから、吐き出すように言った。

「君がいる」

 彼女は心底楽しそうに笑った。

「何が面白いんだ」

「私はこの世界に存在しない」

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