第2話
窮屈な路地から大通りに抜けると、行き交う自動車の騒音がどんなに下手な楽団よりも騒々しく鳴っていた。褪せた葉は風に揺れて枯れた潮騒のような音を立てる。骨張った枝の向こうに広がる空には厚ぼったい雲が伸びていて、太陽の行方は杳として知れない。明けているんだか暮れているんだかも判然としない空には現実味も乏しく、そんな空にのしかかられた街もまた絵空事に思える。全く、気が滅入る事この上ない。
配給所の周囲には例によって陰鬱な空気が漂っていた。活気なんて概念はきっと旧時代に置き忘れてしまったのだろう。そして忘れたことすら忘れてしまったのだ——誰も彼もが同じ衣服に同じ髪型、そして重苦しく押し黙った表情まで同じとくれば、その顔形まで同じなのではないかと思えてくる。しかし、それも無理からぬ話なのかもしれない。この街で暮らす多くの人間は画一的な規格品であることを厳格に求められている。なぜかって、工場に並ぶロボットアームの部品がてんでばらばらだったら全体の生産効率は落ちる一方だからだ。
小一時間、気が滅入る待ち時間を過ごしてから私は一週間分の合成弁当を受け取ることができた。ありとあらゆる化学的手法によって栄養満点に引き上げられたこの弁当は、代わりにまともな味や食感と呼べるものを切り捨ててしまった訳だし、そもそも常温で一週間の保存が利く弁当なんて聞いたことがない。だが、この合成弁当の評判自体はそう悪くはないのだそうで、嬉々としてこれを食べる家庭のほうが主流らしい。
みんな狂っているのか。
さもなくば、私だけが狂っているかのか。
闇市で手に入れた密造酒はひとたび飲み込めば翌朝まで喉を焼き払い続けるナパーム弾のような代物だったが、人はパンのみにて生きるにあらずと言う言葉を私はどこまでも都合の良い形で曲解している。栄養失調によって体が死ぬことと、平凡な退屈によって精神が死ぬこと。どちらが苦しいかはまだ分からないが、どちらがより悲劇的かはナパーム弾の炎を見るより明らかだからだ。
音楽が聞きたかった。だが生憎私の部屋にはプレーヤーなんて高級品はなかったし、そもそもレコードは禁制品に指定されている。代わりに私は不確かな幻聴か何かのようにその旋律を思い出そうとする。思考の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。エタノールと共に離陸した心は領空を節操なく飛び回る。腫れぼったい不感症の層が窓の外の夜を少しだけ遠ざけて、耳の奥で脈を打つ音楽が心の奥底に濡れる誰も知らない何かを引き上げようとする。
人間がよそよそしく行き交う交差点の傍らで、
夢を諦めるそのただ中で、
わかり合えない人間とわかり合えたふりをする間で、
私は散々、この世界が滅ぶ妄想をした。現実とか言う領域も、そこに無遠慮に群がる人間も憎んでいた私と言う人間は、世界に辟易するリアリストとして振る舞うことで大きすぎる憎しみのバランスをとろうとしたのかもしれない。しかし、もしも私が徹頭徹尾リアリストであったなら、世界を滅ぼす妄想に耽るなんてまどろこしいことはせず、テロリストとして生きる道を選んだはずだ。
できもしない空想を飽きもせず繰り返すこと――私という存在の薄皮を、擬態するその表皮を一枚剥ぐと、そこには夢見がちなロマンチストが呼吸をしていた。なぜこんなちぐはぐな人間になってしまったのだろうか。
「擬態しなければ生きていけないにせよ、擬態するだけでは生きている意味がないと、君は内心で気付いていたんだよ」
そうなのかもしれないし、
そうではないのかもしれない。
答えなんてどこにもないのだし、肝心なのは答えを求めることに疲れたり飽きたりしないことなのだ。
「いいや、違うね」
彼女は私の自己弁護めいた言葉遊びをきっぱりと否定した。
「君は単に内心と向き合うのを恐れているんだ」
「僕の内心だって?」
私は酒臭いため息を吐き出した。
「そんなものはとうの昔に死んだよ」
「いいえ、死んでなんかいない」
「根拠は」
「こうして私と会話を交わしている」
私は鼻で笑って見せたが、いくらか自嘲的なニュアンスがこもってしまった。
「ならば君の内心とやらを僕に教えてくれ。僕はずっとそれが知りたかったんだ」
「願ったら叶うだけの人間なんてつまらないでしょう」
ささやかながらも切実な追求から彼女はひらりと身をかわす。私はグラスに残されたナパーム弾を一気に煽り、喉が爛れそうになるのを強引に飲み込んだ。そうして私は考えた。幸い、孤独な夜は嫌になるほど長いと相場が決まっていた。
彼女は自由な人間だった。
ささやかな誤解からも、卑怯な打算からも、独りよがりな錯覚からも、いやそれだけではない、この世界のあらゆるしがらみから自由だった。それが私にはたまらなく羨ましい。なぜなら私はしがらみの内側でしか生きるやり方を知らないくせに、そのしがらみを忌み嫌ってやまない卑怯な人間だからだ。生まれ持って自由な人間は得だなと、持ち前の湿った嫉妬心が鎌首をもたげる。彼女の微笑みに惹かれるのはそれがためだと自分に言い聞かせる。
果たして本当にそうなのだろうか。
悪酔いの兆候であるかのように充血した眼球が、何かの発作のように周囲を見回す。その視線は密造酒の注がれた瓶に吸い寄せられる。酒によって起こった症状を鎮めるには酒を切り上げるしかない。そんな単純な理屈にすら目を背け、私は安物のグラスに酒を注ぐ。
夢を見るのに、この現実は窮屈すぎる。いっそ死んでしまった方が楽だと思った夜も一度や二度ではない。もしも私の中の現実主義的な私がもう少しだけ虚無主義的であったなら、私は数センチメートル分の葛藤を儀礼的にこなした上で、自ら命を捨てていただろう。そうしなかったのは、皮肉にも私をそう思わせたキッカケである、夢見がちな自分がいたからだ。
だから、今にして思うと……恋心と言う不条理な精神病めいた心理的現象にある種の救いを見いだしてしまったのは、必然だったのかもしれない。つまりはそれが、私が願い、夢見ることを許された、ひとつの自由だったのである。
そして幸か不幸か、彼女は自由を体現していた。私は歪んだロマンチストであるが故に、この世界ではもはや困難になってしまった自由を体現するその姿や生き方に、惹かれてしまったのだ。
「随分とご大層な買い被りね」
彼女は笑った。
「君のことを買い被りすぎているのだろうか」
「いいえ」
煙草の煙が視界を横切ったような気がした。
「自由を買い被っているのよ」
鈍い私でも、彼女の言わんとしていることは伝わったような気がした。
生まれ持って自由な人間なんていない。そんなのはただの異常者か人格破綻者であり、少なくとも彼女はそのどちらでもない。生まれもって自由な人間がいないのは、私が散々思い知ったことではないか。
自由であろうとしているから、自由なのだ。
そして実際に自由であるかどうかは、私が実際にどれだけリアリストとして振る舞っているのか、ロマンチストとして振る舞えているかと同じくらいどうでもよいことなのだ。
「なぜ君はそんなに楽しそうなんだ」
彼女はなんでもないことのように答えた。
「あなたが楽しそうだから」
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