夏の花は二度咲く

下村ケイ

第1話

 新世紀初頭に実用化された量子コンピューターが民族の理想的な遺伝子プールを維持するために配偶者の選定を代行し、その影響力が行政権を上回った未来において、恋愛と呼ばれる現象は何度も繰り返し可能な虚構でのみ語られる精神病の類いと解釈されていた。恋心に罹患した人間は過度に理想化された対象に一方的に入れ込むあまり、国家に対する忠誠を見誤るケースも散見されたが、隣人の火事に巻き込まれないかと気を揉む文化は既に数百年前に終わったのだ——不条理な感情に拘るあまり現実を見失ってしまった人間は秘密警察によって速やかに処分されてしまうのだから。


 駅で私を拾った彼女は愉快そうに微笑みながらマニュアル車を発進させる。決して新しいとは言えない車体に搭載されたエンジンは密かに特別製で、時折老人のように咳き込みながらも順調に加速を続ける。そのスピードに押し流されつつも尽きることなく車窓をスクロールするのは地平線の向こうまで続いているのではないかと錯覚される広大な向日葵畑。彼女の口からそれと聞いたことはなかったが、恥じることもなくそびえ立ち、飽きることもなく太陽を見上げ続ける向日葵はきっと彼女の好む花に違いない。なぜならその有り様から真っ先に連想するのが彼女だったからだ。旧式のカーステレオから流れてくる音楽には現実味なんてものはなかったが、漂ってから消える間際に目眩にも似たデジャビュを残していった。

 彼女は何の脈絡もなく車を路肩に停車させ、エンジンを切ってから言った。

「煙草が吸いたい」


 喫煙を緩慢な自殺と表現したどこかの阿呆は極めつけの寸足らずには違いないが、人生の残り時間に執着を見せる人間が喫煙の習慣を手放すケースもそう珍しい話ではない。それでも我々は喫煙の習慣を愛していた。愛おしむような手つきで一本の白い自殺の先端に火を灯し、肺一杯に煙を吸い込んだ後、力なく吐き出す。彼女が何者なのか。いやそもそも自分は何者なのか。確かな答えなど望めないこの時間の中で唯一確かなことは、互いが喫煙者であるという事実だけ——そして、その事実だけで意外と人は満たされるものらしい。


 茹だるような夏の青空は気が遠くなるほどに遠く、目映いくらいに光り輝く白い雲と噎せ返るほど鮮やかな植物の緑が作り出すコントラストは、何もかもが色褪せた故郷から遠く離れたことを否応なく連想させた——つまりはこれが、夏なのだ。


 夏の熱量は直視に堪えないほどの輝きを伴いながら、息苦しさを感じさせるほど濃密に周囲に充満している。気を抜くと頬を伝った汗の滴が顎の先から地面に落下していく。冷房に比べればどこまでも垢抜けないそよ風が時折煙草の煙を揺らす程度。どこか遠くで輪唱のようなセミの鳴き声が聞こえた。彼女が煙を吐き出す静かな音が妙に近くで聞こえた。周囲のそれと比較して異様に成長した一本の向日葵の瞳が天を見詰めている。その様子が何だか面白くて、それを彼女に伝えようとしたが、言葉は私の喉の奥で絡み合ったケーブルのように不格好に躓き、結局私は物足りない煙を吐き出すだけに終わった。

 私は喉が渇いていた。

 だが、周囲に自販機なんて気の利いた物体は見当たらない。この程度の不便は、彼女のドライブに同行すると決めた以上は黙って受け入れるしかない。


 二十分ほど車に揺られた後に訪れた喫茶店はいかにも清潔な感じのする冷気で空調されていた。遠慮も配慮も置き忘れたみたいな夏の日差しですっかり熱を帯びた皮膚が心地よく冷やされていくのを感じながら、私は何度目かも分からない喫茶店の内装を記憶と確かめるように観察する。天井に等間隔で並ぶ暖色の照明は太陽光と比較すればTNT火薬と蝋燭の灯りみたいに開きがあって、よく磨き抜かれたテーブルの木目は洗練されたマーブル模様も遠く及ばない。落ち着き払ったワインレッドみたいな色のクッションが敷き詰められたソファは座り心地がよく、貧相な劇場に並んだ武骨な椅子に見習わせたいくらいだった。

 そういった馴染み深い店内の佇まいの中で一際異彩を放っていながら、それと同時にまるで有史以前からそこにあったみたいに調和していたのは、一台のグランドピアノだった。巨大なリクガメの年齢を人間が正確に読み取れないように、古いんだか新しいんだかまるで分かりはしないが、周囲の柔らかな光をねじ曲げるようにその黒い表面に集めながら、薄手のドレスを身につけた一人の女性に弾かれるがままになっている。演奏されている曲は、確かショパンの幻想ポロネーズ。音の善し悪しまでは分かりかねたが、あの巨体の中にしまわれた几帳面な大腸の如き231本の弦が寄り合いながら奏でるその音色は、喫茶店の内部に漂う穏やかさや、或いは静謐さと呼ばれるものに余人の与り知れない深度で寄り添っていた。ピアノの表面はよく手入れがされていて、凪いだ湖面に映る月を思わせる光沢がそこらじゅうに浮かんでいる。


 やがて店員がやってきて、我々はアイスコーヒーを注文した。店員が去ってから、彼女は今し方注文したコーヒー豆の特徴を楽しそうに説明する。コーヒーなんてものは苦ければ苦いだけ良いとしか考えていなかった私には何回聞いてもそれが心地よかった。


 会話が途切れて、私が手持ち無沙汰に周囲を見回していると、彼女はその瞼や唇の端に微かな笑みの形を浮かべながら、私の方を眺め始める。私が誰彼構わず人間を憎んでしまう性質の人間であるのに対し、彼女は誰彼構わず人間を愛そうとする性質の人間だった。

 だから私のような人間にも平等に微笑んでくれるのだ。

 だけど、まるでこの世界に一つきりしかないみたいな眼差しを正面からじっと見詰めていると、本当の意味でその微笑みに気付いているのは世界に自分だけだと言う錯覚がする。自惚れには違いない。だけど、決して居心地の悪い自惚れではない。だから、この世界で彼女の微笑みとその真意に気が付いているのは自分だけ。

 そう信じることができた回数だけ、この夏は続くのだ。

 なぜなら彼女は自由な人間だからだ。

 彼女はささやかな誤解からも、卑怯な打算からも、独りよがりな錯覚からも、まるで空を飛ぶ小鳥のように自由だった。それが私には、夏の太陽よりも眩しく思えることがあった。

 彼女は再び口を開くと、まるで思い出したみたいに、人間の内面に関する混沌をいかに愛するべきかを語り始めた。蜂蜜にも似たテクスチャで緩やかに流れていくこの時間が愛おしかった。だけど私はどこか他人事にも似た精度でその時間を楽しんでいた。他人事なればこそ、正体も、その源泉も不確かながら止め処なくあぶくのように浮かんでは過る感情をもてあそぶ余裕があったのかもしれない。でなければ、飽きもせず懲りもせずここに居続ける自分を説明できない。


 そう、これは束の間の他人事――詰まるところ借り物の夢なのだ。

 戦闘機が永遠に飛び続けられないように、

 ページを捲り続ければどれだけ分厚い本もいずれ終わってしまうように、

 この時間はいずれ終わらざるを得ず、そこからは唾棄すべき現実が待っている。

 でも、もしも終わってしまう夢に寂しさを覚えるのなら……そのときはまたここにくれば良い。人は何度でも夢を見られるし、彼女は何度だって私を待ってくれるはずなのだから。


 やがてアイスコーヒーが運ばれてくる。

 爽やかな酸味とフルーティな香り——苦いだけのコーヒーしか知らない私は、束の間その味わいを想像する。きっと、夏に良く似合う褐色があるとすれば、それはきっとこんな具合なのだろう。

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