(試作)夜霧の祠

柚緒駆

夜霧の祠

 私はレイプされていた。


 いつもはヒョロガリどもめと内心嘲笑していた男子部員たちだったが、さすがに興奮した五人の高校生男子に押さえつけられては身動き一つとれない。


 五匹の獣は夢中で私の脚をさすり続け、下着を脱がし、ブラの下に指を這わせた。その不快感に私が声を漏らすと、部屋の外の廊下から女子部員三人の嬌声が聞こえる。


 許さない。こいつら八人は何があっても許さない。皆殺しにしてやる。


 あ、あと一人いたような……構わない、とにかく手当たり次第皆殺しだ。



 何の知名度もない小さな田舎町の田舎の高校。その中でも特に極めて知名度に欠ける、同じ高校の生徒にすら都市伝説として扱われる同校図書部。


 図書部の夏の恒例行事と言えば、男女混合で行われる、山の上の廃校を利用した夏合宿。


 果たしてこれが恒例行事と呼べるものだろうか。どちらかと言えば学校と市役所の方にいささか闇を感じるところ。高校生を生き餌に撒き宿泊場所を用意しているとかなんとか。


 もちろんこれはヤバい空想だ。空想など当たらないものと相場が決まっているというのに。そうなめ切った私の腕を、谷瀬と小林という小柄な二人が後ろに引いて教室の中にひきずりこんだ。


 私を引きずり込んだ部屋の中では、畳まれた白いマットレスがゆっくりと広がっていく。私をここまで連れてきて、勝利者の余裕で告げるのは部長の木田。その顔を見ればわかる。彼はすべてを理解していた。その上でただちに実行してみようと。


 ジャガイモ頭の副部長、串本は苛立たしげに――こいつらも全部知っていたに違いない。


「早くヤロウぜ、もう我慢できねえよ」


「わかったよ。じゃあ女子は退室してくれ」


 部長の木田の声に、女子部員のリーダーとも言うべき白井小夜子が鼻にかかった声で返事をした。


「わかったー」


 そしてその切れ長の眼で私を見下ろし、真っ白く細い手を振りながら部屋の外に出て行った。ばいばいとでも言いたげに。そう、これが本当にばいばいとなったのだ。



 廃教室には狂嵐が吹き荒れた。腰の振り方すら知らない男子生徒の醜い咆吼、荒い息づかいと狂った笑い声、そして何より私の怒りと悲しみの絶叫。


「おまえらなんか殺してやる、殺してやる、一人残らず殺してやるぞ!」


 何度目の絶叫だったろうか。本当に死んだ。私の股間に顔を埋めていた谷瀬の身体が急に空中に持ち上げられ、次の瞬間刃物のようなもの――私にはそう見えた――によってでいいだろう、全身が寸断されたのだ。壁にへばりつく肉片と飛び散る血潮。


 音が止まった。世界が沈黙した。異常の発生に外の女子生徒たちも気付いたのだろう、ただ立ち尽くす気配がしている。


 この状態は私にとっても大きな異変だったのだが、何故か感じるところもなく、ただただ明鏡止水の思いがあっただけで、白く長い尻尾が男子を打ち、刻み、なぶり者にするのを当然のこととして受け止め、心の奥の快楽を他人事のように眺めていた。


 やがて男子生徒の声は聞こえなくなった、たった五人など僅かな数だ。三人の女子生徒ともなれば尚のこと。山奥の廃校舎はたちまち沈黙し、そこに動く気配はわたしのそれ一つとなった。


 いや。まだ一人残っている。


 廃校舎の草むした外周。足下を白いヴェールが漂っている。霧か。ヴェールの波は音もなく、まるで湖面を滑るように周囲に広がって行く。その波紋の行き先に古びたベンチがひとつ。古い本を五冊ほど隣りに詰んで手元の本に没頭している少年には見覚えがあった。



 数日前の転校生。今回の合宿の最後の参加者。名前は確か……霧下祠きりしたほこら。今回のレイプ事件に関与してはいないのだろうが、ここまで来てしまった以上何らかの罰は受けてもらわねばなるまい。


「霧下くん」


 私が声をかけると霧下は顔を上げ、静かに周囲を見回すと、「なるほど」とつぶやいた。そして意外にも私を見つめ、「大ケガはなかったようだね。よかった」


 カチンと来た。この男、一体何を知っているのだろう。私の声は少し震えた。


「あなた……どこまで知ってるの。何が良かったの、どう良かったの、答えなさい! 」


 最後は涙声で震えた私の絶叫を微笑みで受け止め、「そうだねえ」と首をかしげた。


「総合的に君が酷い目に遭ったのは事実だけど、結果的にレイプはされなかった。その点は良かったんじゃないかな」


「レイプされなかった……?」


 頭が混乱した。何を言っているのだ、この男は。気でも狂っているのか。私はレイプされた、いまさっき確かに。


「どういうこと? あなた何を言ってるの。私はさっきレイプされたわ、口にもしたくないけど。それとも私が嘘をついているとでも言いたいの?」


 これに対し霧下祠は、少しの困惑を口元に浮かべた。


「まあ普通に考えて、自分がレイプされたことを言いふらしたい女の子がいるとは思えない。でも部長たちが嘘をついた訳でも君を騙した訳でもないんだ」


「嘘よ! それこそ嘘! アイツらは私を騙して計画を立てレイプしたんだわ。そんな下手な嘘に騙されるはずがないでしょう!」


 私は頭に血が上ったが、霧下祠はやれやれといった表情を浮かべて静かにこちらを見つめている。


「それがそうじゃないんだ。どうしても信じられないなら、いますぐ山を降りて病院に駆け込みなさい。その綺麗な服のままでね」


 綺麗な服? アイツらはマットレスの上で私を押さえつけて、服も下着もグチャグチャにして……でも夕陽の照らすベンチの前に立つ私の着る服には大きな皺すらなくて。


「何で……こんなのどうして……あり得ない」


「誰かが嘘をついている」


 気付けば霧下祠が遠い目を私の後ろに向けていた。


「誰も嘘をつかなければ、誰も騙されなければ、こんな状況にはなり得なかった」


 足下の霧はどんどん濃くなってくる。


「本来その嘘は言葉にはされず、理性の外から人間を動かす。僕が人間同士の関係に口を出すつもりがないように、あなたも人間と神の関係にしゃしゃり出るつもりも毛頭なかった。だが今回はどうしても見過ごせない。彼女の一生に関わる大事だし、彼女の家系とかつて契りを交わした生真面目な水神よ。……誰にそそのかされた?」


 ズルリ、という気配の動きに背後の霧の中を見つめれば、巨大な白い闇が一本立っている。それが赤い眼の大蛇だと気付くのにさほど時間はかからなかった。


「ひっ」


 思わず逃げそうになる私を苦笑交じりに押し留める霧下祠。


「それはいけないよ。曲がりなりにも君の家系を代々厄災から護ってきてくれたんだ。後足で砂かけて逃げ出すのはあまりにも失敬というものだろう」


「で、でもっ」


「いいよ。構わないさ。続けてくれ」


 重く太い声でそう言うと、白蛇は長大な壁画にダイナミックな全身像を頼むとでも言いたいのか、己の輝く肉体で見事な太長く白く輝く蛇身の立像を結い上げた。


 それはどこか仏陀の像を思わせる、いささか宗教的には破廉恥な像だったが、その辺りは何か言いたいことがあるのやも知れない。


「君に問うことがないのなら、僕の方が質問しよう」


 白蛇神がどこからか、(本当にどこから出したのだろう)メモ用紙を手に取り(どこに手があったのか)話を始めた。


「君はどうしてこの廃校での虐殺を選んだのかな」


「私が……選んだ?」


「そうだよ、君は選んだんだ。僕はあくまで契り神だからね、君に力を貸すことはできても君以外の人間に一方的に暴力を振るうことはできない」


 私の顔から血の気が引く。


「私は……何も選んでなんか」


「じゃあなんで合宿に参加した? 君ほど聡明な女の子ならこの廃校の悪い噂は知っていただろうし、味方も仲間も連れずに単身飛び込むなんて無謀なことをする意味がない」


 それは、単に部員以外の参加は禁止と言われたから……いや、抜け穴はあったか。抜け穴を探す気すら起きなかった。つまり、つまりは。


 舐めていたのだ。


 自分より頭の回るヤツなどこんなところにいるはずがない。自分より悪辣な考え方ができる者などそうそう出くわすはずもない。そうたかをくくって舐めきっていた。その油断がすべての始まり。いや待てよ。もしそうなら、そんなことなら。


「もしかして、死んだはずの八人も生きてる、なんて可能性はない?」


 希望を託した精一杯の笑顔で見つめる私に、白い大蛇は視線をそらせながら少し呆れたようにこう答えた。


「残念ながら」


「え、でも」


「あらゆるフィルターから解き放たれたいま、この夢と現の狭間の世界で事実・現実と呼べるのは、あなたの願い起こした行動だけです。あなたの感じた欲望も苛立ちも、理想的正義と共に霧の中にかき消え、、実際に起こした行為だけが残りました。あなたが八人を殺したのは事実です。たとえ私の能力を用いたとはいえね」


 白蛇の声がどこか遠くに去って行く。もう終わりだ。私はただの人殺しだ。事実は事実として動かない。すべては終わった。


「それってずるくないのか、水神様」


 あまり興味もなさそうな声が、暗い夜霧にポツンと浮かんだ。


「ずるい、とはどういう意味でしょう。こちらも曲がりなりにも神の名を拝領するもの。あまりいい加減なことを言うなら天罰も覚悟なさい」


 そんな白蛇の言葉などまるで気にならないのか、霧下祠は頭の中を整理しながら言葉をつなげた。


「ここで八人が死んだのは事実だ、それはもう動かしようがない。現実だとしか言い様がないんだろうさ」


「ええ、その通りですね」


「その力の源泉があんた水神であり、それを直接用いたのはここにいる彼女だ。経過的にはそれ以外考えられない。そうだよな?」


「ええ、だからそうだと言ってるでしょう。神を小馬鹿にするのは恐れ多いことなのですよ、わかりませんか!」


「それっておかしくないか?」


 この一言に、場は凍り付いた。


 誰もが常識とし大前提としていた一つの事実を、霧下祠は否定して見せたのだ。


 白蛇の顔は明らかに引きつっている。


「な、な、何が。どこにおかしな点があるのです」


「おまえは水神、契り神のはずだ。つまり一族郎党の守護神だ。なのに何故ずっとここにいる。彼女の一族は彼女以外、死に絶えたのか?」


「それ、は、たまたま事件に遭遇したので、それで」


 もはや原型を留めないとまで言っていいだろうほどにヘロヘロに衰弱した白蛇は、眼も虚ろとなっている。そこに遠慮なくたたみかける霧下祠。


「例え話をしよう」


 しかし疲れ切った白蛇、そして私にはもう耳をそらすことなどできはしない・


「ある人間の家系と契りの契約を交わした水神がいた。この時代、まだ全体の稲作面積も狭く、その契りは水神側にもメリットが多いものだった。退屈を過小評価できるのならば、ではあったのだが」


 と、ここで水神は不思議な男に出会った。ただ雨を口に含んである行動を行えば、この世のありとあらゆるストレスから解放される。これだけで身体に起きている様々な事々が一瞬で跡形もなく霧消するのだ。


 現代人なら「ああまたカルトか」と麻薬を疑われるところだが、面白げなことに飢え気味だった水神は容易に話に乗ってしまった。


 それから人間の世界では二千年が経過したものの、水神の周囲では適度に祭も神技も行われていたため、この話題は忘れられていた。


 だがその平和な状況は突然消えた。


 あの男が現れたのだ。


 二千年ぶりのあの男は変わらぬ笑顔で水神に話しかけた。


「お元気のようで何よりです。面白い話があるのですが、少し時間がありますでしょうか」


「……当て推量だ……証拠などない」


 いつ血を吐いて倒れてもおかしくないほどになりながら、白蛇は頑なに最後の一線は越えない。一方の霧下祠は表情こそ変わらないものの、少し飽きてきたのか持っている文庫本のカバーを見つめて、小さくため息をついた。


「お互い、証拠なんかが意味を持つ世界に生きてはいないでしょうに」


 そう言われた瞬間の白蛇の恐怖に凍り付いた顔よ。


「ま、待ってくれ。それは」


 しかしそんな懇願にもいつもの調子を崩さずに、霧下祠はのんびりとこう言い切った。


「あなたに厄介な力を与えた存在、イヤ違いますね。その存在に力を分け与えたより上位の者について、あなた自身は誰だと考えてるんですか、水神様」


 水神は恐怖に口をパクパクさせ、「ひゃ……」と一言漏らしただけ。霧に埋もれてもう見えなくなっているベンチにそっと文庫本を置くと、霧下祠は小さくうなずいた。


「水神とはいえ神々の末席を汚す者、それが恐れ怯えて返答もままならない。一体何者だろう。さすがに神に連なる者だろうとは思うけれど、それにしても一体、どんな……『まほうつかい』なんだろう」


 途端、水神の頭が花弁のように四つに開いた。白い身体は青銅色に染まって行き、腐敗臭を放つ。ゆっくりと立ち上がった霧下祠は驚いたのか僅かに瞳を丸めた。


「これはこれは、意外なところにパスワードがあったものだ。しかし少し面倒か」


 大きな鎌首をもたげて腐敗臭を放つ元白蛇は不気味な声を上げる。次の一撃までは速い。だが茶色く丸い炎が盾のように立ちはだかった。


「とりあえず『まほうつかい』は神代の言葉じゃない。人間が独自に作り出した言葉だ。人間の世界にはありふれているし触れる機会も多いだろう。その数の中に紛れられる可能性は高い。何か対策を考えないと」


 腐った白蛇は身体を大きく二つに割り。一方を地平面すれすれの霧の中、もう一方を空高く跳ね上げた。これが同時に襲いかかる。


 霧下祠の額近くに浮き出した黒い炎が鋼鉄の黒い盾となり、向こうずね辺りに湧いた白い炎は背の丈ほどもある鏡の盾となった。


 そして二つの盾は、まさに神通力と言わんばかりの旋風をまき散らす強大な風を起こしながら、霧を振り払い壁を叩いて、静かな夏の夜を迎えた。



 物理感のある静寂。すべては終わったのだろうか。私はもう動いてもいいのだろうか。誰もいない。何もいない。膝を抱えていた両腕をほどき、私はうっすら光の見える方向に進んだ。けどすぐに壁に行き当たってしまう。


 メチャクチャ狭すぎる。という印象ではないが、ゆったり感はさすがに求めすぎか。いったい何なんだここは、意味不明にも限度があるだろう。


「いや、まあ申し訳ないなとも思うんだけどね」


 突然、光の向こう側から声がした。


「誰? その声は霧下くん? どこにいるの、ここから早く出して!」


「そうしたいのもやまやまなんだけど、なかなか簡単には行かなくてね」


「どうして! もうすべては終わったんでしょ」


「そう、終わった。全部終わった。水神の後始末から人間界に与えた影響のクリーニングまで、みんな」


 最後の言葉がどうにも引っかかる。


「ねえ、私はどうなるの」


「とりあえず死刑ってことはない」


「当たり前でしょ! 私は騙されてここに」


「厳密には騙された訳じゃない。欲望や願望をコントロールされてここに来たんだ」


「な」


「それでも本人の意思が行動に介在していないのは事実」


「そ、そうよ、私はこんなところに来たかった訳じゃない!」


「ただし人を八人殺したのもまた事実。意思に対する罰と行動に対する罰はまた違う次元で考えるべきものらしい。神界ではね」


 とても理解できない。頭の中が大波のように揺れ動く。


「そんなの……酷い、理不尽にすぎるじゃない!」


「理不尽は不正解という意味ではないけど」


「うるさい黙れ!」


 思わず怒鳴ってしまったが、罪があるのは霧下にではない。落ち着け。


「ごめん、私が今いるここってどこなの? 牢屋なのかな」


「粗大ゴミ、何てことはないんだ。粗大は持って行ってくれないからね」


「ゴミの話はいいから、私のいるここは何なの。待機室なのか祈りの間なのか」


「君にとって不快な場所でないといいけど」


「ええ、ギリギリ何とか」


「祠ってわかるかな」 


 知識として知らない訳ではない。神社仏閣に向かう参道に行けば、いくらでも並んでいる小さな神様の家。。だがそれがいったい……


「君が今いるのが、君専用の祠だ。」


「……はい?」


「その中にいる限り、なまじっかな神やそれに連なる能力者は誰も君に手が出せない。その祠の中にいる間、君は永遠不滅の不老不死、不死身の超人となる」


 将来一部の神が暴走する可能性にも目を配った良い采配であるが、残念ながらいまそれを心配しているのは、家に帰れるかどうかを全力で気に病んでいる女子高生だけだ。


「ねえ、どうすればここから出られるの」


「この辺りを統括する支配神の気分が変われば恩赦、というのはありがち。それって大抵は元号変わったときに神界が神気に満ちたことに由来するから」


 それじゃダメだ、あまりにも長すぎる。事実上、私が死んだのと変わらない。私が薄暗い闇の中で頭をかかえていると、突然祠が揺れた。


「え、何が起こったの」


「君の祠の置き場所が決まったようだよ。いまから設置にいく」


「えぇっ、そんな乱暴な! だったらせめて住所だけでも教えて。それくらいはいいでしょう」


 霧下祠の一瞬の沈黙は同情心を覚えてのことなのだろうか。それとも。


「新しい設置場所と言っても、人が暮らす訳じゃないから住所は発生しないし、まあ歴史的建造物なら別だけど、祠から手紙を出すこともメールを出すことも不可能。ネットに接続すること自体が無理だから、スマホ自体がまったく無意味な道具。まして住所なんて聞いても時間と労力の無駄」


「あんた……他人事だと思って!」


「実際、他人事だからね。まあ、要するに僕の霧に浸った時点でこうなるのはほぼ決定していたのさ。それ以降はどう効率的に話をまとめるかを考えていて。パスワードらしきものが拾えたのは僥倖だったかな」


 これに祠の中は大反発、狂ったように抗議の声を上げ始めた。


「人殺しーっ! 誘拐犯ーっ! 変態ーっ! 私を帰せーっ! 私をさっさと家に戻せーっ! 馬鹿野郎ーっ!」


 ただし、祠の内側の声はこちらには漏れてこないし、祠も揺れることすらない。


「それでは、永久不変の眠れる時間の旅へ、行ってらっしゃい」


 霧下祠の声が会話の終了を告げると、トラックなのかバンなのか、車の後部貨物席のドアが閉まる音がした。もう二度と会うこともないだろう。それは死別とどう違うのか。


「どうでもいい。他人に関わるのは面倒臭いし」


 そう答えて文庫本を開くのがあの男のルーティンなのだろう。まったく神代の世界の住人にもイロイロある。確かに面倒臭いが、いちいち他人の人間性や性格を記憶して把握。次に用いる際はそのまま冷凍処理されたような記憶を再び祠から呼び出して。いささか人道的とは言い難いしな。


 そんなことを考えているうちに彼女は眠気に抗えなくなくなっていた」



「次は点姫町つきひめちょう、終点一つ前でございます。お降りの方は忘れ物のないようご注意ください」 


 霧下祠はゆったりとローカルバスの客席最後尾に座っている。他には客らしき成人男女が五人、霧下祠を取り囲んでいた。


「言いたいことはわかっているはずだ」


 ギラギラと眼に復讐の炎を燃やす四十代らしき大柄の男は、凶暴に荒れ狂い人間性を忘れたくないのか、拳を握りしめて荒い息をついている。


 これに霧下祠は、いささか不思議そうに答えた。


「僕の回答として皆さんが予測している言葉をここで放つという意味なら、僕は皆さんの言いたいことをほぼ完璧に理解しています。でもそのとき皆さんはこう思うでしょう。挑発された、馬鹿にされた、わかっているのなら何故助けてくれなかったのか。これを説明するには長い長い時間がかかります。そして……皆さんはきっと理解されません」


 六十代らしき農夫姿の男が震える声で怒鳴った。


「ワシらをサルだとでも言いたいんかい!」


 しかし霧下祠は表情一つ変えず、静かにこう答えた。


「他人を理解するにはその人を許すスペースが心に必要です。しかしいまのあなた方にはそれがない。ゴキブリを許すことは可能でも、私だけは無理なのです」


 最初に語った男が言う。


「もうしょうがないんだな」


 霧下祠も無表情に文庫本を鞄に詰めた。


「他に選択肢が存在しないという意味ではその通りです」


 ゆっくりと走っていたバスが停車した。ボスッと空気の漏れる音がして、バスの中は白い霧で埋め尽くされた。


 後の警察による簡易鑑識によれば以下のような言葉が見える。


――人間の乗った形跡のまるでないバスが生活道路中央に立ち止まり

――近隣に行方不明等の捜索依頼はなく



(了)

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(試作)夜霧の祠 柚緒駆 @yuzuo

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