昭和27年②

  ― 5 ―


 作兵衛は辺りの気配を伺い、誰もいないのを確認すると、山道を外れ、雑木林に分け入った。


 しばらく進むと、視界が開けた。


 辺り一面に泥濘が広がっている。




 猪は、体に取り付いた寄生虫を落とすため、定期的に泥浴びをする。

 その場所を、ヌタ場と言う。

 猟師にとって、ヌタ場をどれだけ知っているかということは、大変に重要なことであった。


 なにせ、猟果に即結するからだ。


 そして、今たどり着いたこの場所こそが、作兵衛しか知らない秘密のヌタ場、

彼はこれまで、ここに来て獲物に巡り合えなかったことは一度も無かったのである。




 ところが、今日に限って何もいない。

 獣の臭いも気配もない。


 作兵衛は唖然としたが、すぐに勝蔵の視線を意識し、別のヌタ場に向かうことにした。




  ― 6 ―


 それから二人は、合わせて3つのヌタ場を巡り歩いた。


 どれも作兵衛御自慢の狩場であったが、まるで申し合わせたかのように猪たちは

不在であった。




 いつの間にか、太陽が頭の真上まで登っている。


 作兵衛は、横目で勝蔵の様子を観察した。

 勝蔵は何も言わないが、目が休息を訴えている。


(獲物がないまま弁当を喰うのは不本意だが、しかたがあるまい…)




 二人は、適当に地面に腰掛け、弁当を食べ始めた。


 クッチャクッチャと、勝蔵の咀嚼音が辺りに響き渡る。


 作兵衛は顔をしかめた。

(狩り手がそんなに音を立てるようでは大成しねえぞ、

 後でちゃんと言って聞かせねえと…)




 そこまで考えて、作兵衛はふと気づいた。


 違う。


 勝蔵が騒がしくしているのではなく、辺りが静かすぎるのだと。


 山は静かだというが、この時期であれば、鳥だの虫だのの声がそれなりに聞こえるはずだ。


 それが無い。全く無い。




 作兵衛は、急に寒気を感じた。




  ― 7 ―


 勝蔵は、自分の弁当をサッサと食い終わったところで、作兵衛の食事が

進んでいないことに気が付いた。


(なんじゃ、爺ちゃん、食欲が無いようじゃな)


 彼は食べ盛りである。


「爺ちゃん、メシ食わんのか?食わんのだったら俺におくれよ」


 作兵衛は、あきれたように孫を見やる。


 その時、作兵衛の聴覚が反応した。


 自分と勝蔵以外に、動いて音を立てているモノがいる。




 それは、予想以上に作兵衛の近くにいた。


 蠅である。


 丸々と太った蠅が一匹、弁当の匂いにつられ、作兵衛の周りを飛び回って

いたのだ。


 軽く手で払うと、そいつはすぐ近くの地面に止まった。


 作兵衛は、これをなんとはなしに見つめていた。


 蠅は、逃げる様子もなく前脚を擦りあわせていたが、刹那、煙のように

消え失せた。




  ― 8 ―


 作兵衛が驚いて辺りを見回すと、木陰に蝦蟇がいた。


 まるで大関のような貫禄のある蝦蟇であった。


 その口から、蠅の片方の羽だけがはみ出していたが、間もなくペロリと

飲み込まれた。




(ふむ、見事なものじゃ。狩り手はこうでなくてはいかん) 


 作兵衛は、自分の握り飯を狙う勝蔵の手をぴしりと叩きながらそう思った。


「なんじゃあ、爺ちゃん、食うんなら早く食ってくれ。気になって仕方ない」


「アホウ、獲物も無いのに食うことばかり考えるな!」


 叱られ、口を尖らせる勝蔵を見て、作兵衛は溜息を吐く。




(まったく、ちょっとは蝦蟇どのを見習え…)


 そう思って、何気なく蝦蟇を見やると、それは、もう、そこにはいなかった。


 代わりに、腹をビール瓶ほどに膨らませた青大将が、チロロチロロと舌を

出しながら、悠然と作兵衛のことを見据えていた。




 山で、蛙が蛇に呑まれた。

 ただ、それだけのことである。

 それだけのことでありながら、作兵衛は猛烈な違和感を感じた。




 彼の直感がはじき出した結論は、


(今日は、もう狩りを切り上げた方がいい)


 であった。だが、しかし、


(勝蔵の初めての狩りを、獲物無しで終わらせるわけには…)


 との思いが、作兵衛の決断を鈍らせていた。




  ― 9 ―


 突然、大きな黒い塊が、猛烈な勢いで作兵衛の前を駆け抜けた。


 作兵衛は反射的に後退り、相手を確認する。 


 それは、大きな猪であった。


 見たところ、肩高は4尺(1.2m)ほどもあろうか。

 これだけ見事な猪を、作兵衛は見たことが無かった。




 猪は、先程の青大将を地面に押さえつけ、腹からガツガツと噛み砕いている。


 作兵衛の経験は、身体を半自動的に動かした。

 片膝を付き、銃を構える。


 猪は食事に夢中で、作兵衛に目をくれようともしない。


 距離良し。狙い良し。




 その時、ふっと作兵衛は考えた。


(蠅は蛙に食われ、蛙は蛇に呑まれ、

 その蛇は今、猪にその身を貪られている。

 やれやれ、俺がこの猪を撃ったら、俺はいったいどうなることやら…)


 そして、右手の人差し指に力を込め、引き金を…




 火薬の炸裂音が鳴り響いた。


 猪は体をよじらせ、それからドウと倒れ、動かなくなった。




































 作兵衛は、半ば呆然としながら銃声のした方を向いた。


「爺ちゃん!やったぞ!俺が仕留めたんだ!」


 勝蔵が、まだ煙を上げる銃を抱えながら、猪の元に駆け寄るのが見えた。




 その時、作兵衛のすぐ耳元で、ささやくような声が聞こえた。




「じ ぃ ち ゃ ん  う た な い で  よ か っ た ね 


                           よ か っ た ね」




 次の瞬間、作兵衛の影の中から、得体の知れない巨大な生き物がヌルリと這い出してきた。


 それは、人のように四肢を備えていたが、蛆虫のように全身真っ白でブヨブヨしていた。


 顔に当たる部分には目も鼻も無かったが、真っ赤な分厚い唇だけが付いていた。




 化物は、作兵衛の顔を見下ろすと、口だけの顔でニヤリと笑った。


 そして、浮かれる勝蔵に飛び掛かり、ひっつかみ、空気が振動するほどの雄叫びをあげると、そのまま山の奥へと駆け抜けていった。








 虫たちが、鳥たちが、一斉に歌い始めた。


 山はいつもの騒がしさを取り戻した。


 勝蔵だけが、もうどこにもいない。

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アンシンサマ 吉田 晶 @yoshida-akira

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