昭和27年①
― 1 ―
暦の上では秋とは言え、まだそれなりに暑さの残る午前6時。
人っ気の無い山道を、二人の男が、ザットコザットコと進んでゆく。
そのうち一人は年の頃五十くらい、名を
荒れた道にも関わらず、自然に歩んでいく様は、どこか達人といった風格を
感じさせる。
もう一人は十代の後半と言ったところだろうか。
足取りは若々しいが、前を行く作兵衛について行くのがやっとの様子である。
彼は、作兵衛の孫、
本来であれば、この日、道を行くのは二人ではなく三人であったかもしれない。
だが、息子であり父親でもある男は、戦地から帰って来なかった。
― 2 ―
今日は、勝蔵が銃を持って本格的に猟に加わる初めての日である。
猟師の初舞台としては、決して早いものではない。
むしろ、遅いくらいである。
それは別に、勝蔵の力量が劣っていたわけではない。
そもそも、銃が手に入らなかったのだ。
ほんのひと昔前は、寺の鐘までもが金属資源として供出された時代である。
ましてや銃は真っ先に徴発の対象となり、その多くが戻ってくることはなかった。
時は昭和27年、先の大戦が終結して10年が経ち、世の中もだいぶ落ち着きを
取り戻した。
だんだんと物資が市場に出回るようになり、ようやく先日、勝蔵が使う分の銃を
手に入れることができたという次第であった。
― 3 ―
かれこれ2時間ほど歩いただろうか。
辺りは、妙に静まり返っており、人っ子ひとり目にしない。
この道は、それなりに手入れがされている。
だから、この季節であれば、茸目当ての近所の婆様だの、それこそ同業者である
猟師とすれ違っても不思議ではないはずなのだが……
勝蔵は思った。
(そりゃあ「アンシンサマ」の日じゃあ、俺たちの他に人はいねえだろうなぁ)と。
猟師というものは大体、その山々に応じたシキタリを守っている。
例えば、ある地域の猟師は、毎月17日には決して山に入らない。
また、別の地域では、「山に赤い色をした物を持ち込んではいけない」という
決まり事があったりする。
ここら一帯の猟師にも、もちろんそういったシキタリがある。
その中でも、最大の禁忌が「アンシンサマ」の日に入山することである。
元来、この山系では修験道が盛んであり、今でも、修験者の一団が厳しい修行をしている。
山で仕事をする者たちは、彼らに敬意を払い、食べ物やお金を捧げたりする。
その返礼として修験者たちは、毎年、旧正月になると暦表(カレンダー)を
配り歩く。
修験者の暦表には、山に於ける吉凶を判定するための独自の注が付いている
(今のカレンダーにも時々記載されている「六曜」、つまりは「大安」とか「先勝」
とか、そういったものを思い浮かべてみると分かりやすいかもしれない)。
例えば「スケノリサマ」は縁起のいい日で、狩りをしたり旅をしたりするのに
ふさわしいとされているし、「スケヨシサマ」の日は、得るものも大きいが、注意
を怠ると大きな失敗をする日とされている。
そういった中で異彩を放っているのが、「アンシンサマ」である。
そもそも、この注が顔を出すことは滅多に無い。
数年のうちでも1日あるかないか程度である。
その指し示す内容はただ一つ。
「アンシンサマがお出でになるので、決して山に入ってはならない」
「アンシンサマ」は山神の一柱らしいのだが、来歴は一切不明である。
とある郷土史家は、地元に伝わる隠れキリシタンの伝説に基づき、キリスト教に
おける「安息日」の概念を神格化したものではないかと推測している。
また、あるオカルトライターは、英語の「UNSEEN(不可視のもの)」がルーツであるとしているが、どうにも根拠に乏しい。
― 4 ―
作兵衛の猟師としての腕前は、この地域において無双であること疑いない。
それ故、彼は傲慢で、独りでの狩りにこだわった。
彼は常々、こんなことを言っていたという。
「弓だァ槍だァ使っていた時代ならともかく、銃さえあれば独りで狩れる。
どうして他人をアテにする必要があろうか」
戦争で息子を亡くしてから、その偏屈はさらに強くなった。
一昨日、ちょうどこの辺りを台風が通り過ぎた。
作兵衛は経験から、台風一過で気温が上がったその次の日こそが、猪狩りの
絶好機であることを知っていた。
だが、あろうことか、その日が数年に一度の「アンシンサマ」の日に当たって
しまったのだ
常人であれば、どんなに旨い話があっても、「アンシンサマ」の日に山に入ったりはしない。
だが、作兵衛は違った。
(アンシンサマ?それがどうした!)
彼はもう、神も仏も信じてはいなかった。
ただ、そんな作兵衛も、孫だけには惜しみなく愛情を注いでいた。
孫の方もまた、祖父を心から尊敬し、人生の手本とした。
それだからこそ勝蔵は、記念すべき人生初の狩りの日が「アンシンサマ」であっても、粛々と作兵衛に従ったのである。
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