第6話

 ひとつの恋愛が終わってしまったカップルにも当然続きの人生があって、つらい経験をしたからといって人間的に成長したのかは不明だけれど、どんな精神状態であろうとも前に進まなければならない。


 そのまま二人は大学で顔を合わせることはなくて、サークルにも行かず講義でも会うことはなく、一言も話さぬまま大学を卒業する。


 みさきちゃんは誰もが一度は耳にしたことがある大手の広告代理店に入社して、タカヤは親の期待を余所よそに、カフェの店員になった。


 アルバイトではなく社員として。


 勉強もそこそこ出来たし、タカヤのコミュニケーションスキルならどこの会社でもやっていけたはずで、親の期待の先は大学院か大手の企業だったみたいだけど、タカヤは迷わずカフェ店員を選んだ。「自分の将来を真剣に考えろ」と苛立ちを隠さなかったお父さんに対して「カフェ店員を見下してるってこと?」と挑戦的な態度で返したタカヤにお父さんは手を出しそうになったけど必死にこらえて「……俺が言いたいのがそういうことじゃないってことくらいわかってんだろうが」と吐き捨ててタカヤの部屋を出ていった。タカヤのお母さんも「ほんとに後悔してない?」と何度もしつこくタカヤに問い質していたけど「別に」と素っ気ないタカヤ。「本当の理由はなんなの? なんでカフェなの?」と尚も食い下がるお母さんに「……楽そうだから」と言って会話を終わらせたタカヤは、四月から都内に数店舗、関西にも数店舗ある多少は知られているチェーンのカフェでの勤務が始まる。


 素人目から見て、タカヤに接客業は向いていると思うし、タカヤもそれなりに楽しそうに仕事をしていて私はホッとする。


 春が過ぎて梅雨も明けようとしている7月の中頃に、嘘みたいな偶然が起きる。


 タカヤの勤め先にみさきちゃんが職場の人達と訪れたのだ。


 お互いに一瞬で相手のことに気付いたけど、気付かぬ振りをして客と店員を演じていた。


 ドラマとか漫画なら、ここからまた恋愛が始まることが多いけど、現実はそのどちらでもなく、現実は現実でしかなくて、非現実的なことなんて起こらなくて、二人は一言も交わさぬまま、恐らく人生で最後の邂逅かいこうを終える。


 タカヤはその日、家に帰ると電気を点けずにリビングのテーブルにドカンと缶ビールを三本置いて、二本目まではほぼ一気に飲むけれど、三本目は一口目で吹き出してしまう。相変わらずお酒に弱いタカヤは初めてのやけ酒を経験していて、そばで見ている私はとても心配だったけど、大人がよく口にする「飲まなきゃやってられない」っていうのはまさにこういう時なんだろうなとか、一滴もお酒を飲むことなく人生を終えた私は他人事みたいに思っていた。


「なんなんだよ……なんで今更……」


 ほんとになんなんだよって私も思う。もしも神様が演出した再会なのであれば、私は神様の書いた原稿をビリビリに破いて投げつけてやりたい。面白くないだけじゃなくて、タカヤをいたずらに傷つけるだけの展開が面白いわけがない。


 早くも酔いが回っている様子のタカヤは、ゆっくり立ち上がってキッチンの戸棚からお酒を持ち出す。


 それはタカヤのお父さんがとっておきにしていたお酒で、もう何年もそこに飾られていた。


 この日、両親は二人共留守にしていて、それが幸なのか不幸なのか、タカヤの醜態は私以外の目に触れることはなさそうだ。


「……くそ」


 マッカランとかいう高そうなウイスキーを何かで割ることもなくストレートでガボガボ飲みだす。


 アルコール度数なんて分からないけど、ウイスキーなんて絶対強いお酒だろうし、急性アルコール中毒にでもなったら嫌だからそろそろやめてって心の中で思うだけの私がそこにいるなんて当然タカヤは知る由もなくて、だからタカヤは独り言を口にする。


「なんで……いや、俺が悪いんだよな。全部、俺が悪いんだよ。わかってるよ。リサだって、俺のせいで……全部」


 違うよ! 私が死んだのは私のせいで――私のせいってこともないのかもしれないけど、でもタカヤは一ミリも悪くないし、私の死で自分を責めないで! ってどれだけ叫んでもタカヤには聞こえない。


「みさきだって……俺、本当に好きだったんだ……好きだったつもりじゃなくて……つもり? いや違う。好きだった。好きだったはず……はず」


 空きっ腹だとお酒の回りは早いって聞くけど、お昼から何にも食べてないタカヤはこれ以上ない空腹だったはずで、そこにお酒をバカバカ入れちゃうから既に泥酔状態だった。


「もういやだよ。……なんなんだよ。どうしたらいいんだよ」


 私は好きな人が目の前で落ち込んでいるのになにもしてあげられない。ただ見ていることしかできない。これが私に与えられた罰というのなら、タカヤを苦しめることで私に罰を与えようとした存在が私は許せない。


 でも、本当に許せないのは私自身だ。タカヤは私が苦しめてるんだから。


 前後不覚になってビンを倒してしまい、床にトクトクと溢れていくウイスキーをボーっと見つめながら、タカヤは独白する。


「リサ……。俺、本当に、リサのこと好きだったんだよ。めちゃめちゃ好きだったんだよ。一生、リサと一緒にいたかったんだよ。リサが死んで、俺もうどうでもよくなって、死のうと思ったこともあったけど、でも、でもリサにあの世で会った時になんて言ったらいいのかとか色々考えて、それで……。いや、嘘だよな。俺、死ぬのが怖かったんだよ。死にたくなかった。グチャグチャになったリサの顔見て、救急車の中で、俺リサの名前呼びながら、リサに死なないで欲しいって思いながら、ただただ死ってものに怯えてたんだ。死が怖くて、リサに生きてて欲しいって願いながら、俺は絶対死にたくないって心のどこかで思ってた。それが、凄く、後ろめたくて、それで、俺、葬式までは頑張ったけど、でも、もうリサに会いにいけなくなった……。ごめん、俺、ほんと、ごめん。最低だよな。逃げてばっかりだ。みさきからも、リサからも。どうしようもないよな。ごめん。良いところなんてひとつもない。死ぬこともできないし、線香のひとつもあげに行く勇気もない。こんなクズ、愛想尽かされて当然だよな」


 私は馬鹿みたいな表情で口を開けたまま固まる。


 タカヤのセリフのどこの部分に何を感じたらいいのかわからなくて、記憶力がないから余計になんて言ってたかも忘れかけてて、でもちゃんとタカヤが言ったセリフを頭の中で何度も何度もリフレインさせる。


 タカヤ……。タカヤ。タカヤ。


 私は立ち尽くしたまま、テーブルを挟んで正面に座るタカヤに何度も名前を呼びかける。


 タカヤ。タカヤ。タカヤ。


 私は泣いてしまう。涙が次から次に溢れてきて、体温なんてないはずの身体が熱を帯びて、生暖かい感触が頬を濡らしていくのを感じる。


 私はタカヤのこと、全部わかってるつもりだった。


 いや、わかってたんだ。わかってて、気付かない振りをしていたんだ。


 本当は、わかってた。


 私が死んでから、タカヤの人差し指の爪が5ミリ以上伸びたことが一度もないことも、みさきちゃんと付き合ったのは私を忘れるためだけど、顔もスタイルも私なんかとは全然比べ物にならないのにそれでもどこか私に似ている雰囲気を持っていたみさきちゃんを選んだこととか、彼女に触れなかったのは私に操を立ててからだし、どこかで私とみさきちゃんをダブらせて見ていたことも、そして別れてしまった原因はそれにみさきちゃんも気付いていたからだろうし、だからこそ私はみさきちゃんのふざけんなよってセリフが痛いほど理解できたし、タカヤがいつも読んでいた『珈琲の世界史』だって、卒業後にカフェで働いたのだって、本当は私がコーヒー大好きだったからだろうし、未だに私がプレゼントした靴を履いてるからボロボロになって穴だって空いてるし、その他にも私があげたものは何一つ捨てられてなくて、でもタカヤは部屋の見える位置には置かず、全てひとつに纏めて段ボールに入れたまま押入れにしまってることだって知ってる。それは私を吹っ切るためでもあるけど、私を忘れたいのは別の女の人と付き合いたいからじゃなくて、私を安心させたいからだっていうことも。タカヤの行動の全部が全部、全てが全て私のためなんだって私はわかってるし、私だけがわかってる。タカヤにだってわかっていないかもしれないけど、でも私はわかってる。


 タカヤの優しさと、優柔不断さと、愛情深さと、情け深さ。

 弱さも強さも、全部全部。


 途端、フラッシュバックみたいにタカヤとの思い出が脳裏に蘇って、私は目玉が溢れ落ちてしまうのではってくらいに号泣してしまう。


 誰にも聞こえない声で、誰にも見えない涙を流しながら、タカヤの名前を何度も何度も何度も叫ぶ。


 タカヤ! タカヤ! 私、死にたくなかった! もっと一緒にいたかった! タカヤと幸せになりたかった! でも……でも死んじゃったから……もう、タカヤのそばに居られない!


「リサ……リサぁ……」


 ううーっと呻き出したタカヤは私の名を呼びながら泣き出してしまう。


「リサ……俺……」


 ぐぅぅと唸って、涙と鼻水で顔をビシャビシャにしながら、タカヤは泣く。泣き続ける。


 私も泣いて、泣いて、たくさん泣く。


 私達は互いに慰め合うことも抱きしめ合うこともできないまま、このたった一メートルの距離を埋めることができないまま、ただ泣いた。


 タカヤが私の為に流してくれた涙はとても綺麗で、タカヤも私も一生分泣いたんじゃないかってくらい泣いて、泣きながら私は自分の透明な身体が更に透過度を上げていることに気付く。


 もう私は自分の目にも映らないくらい消えかけていて、本当の終わりが目の前にあることを察した。


 最後の瞬間まで私がすべきこと。それは、タカヤの姿を目に焼き付けることだった。


 あの世にまで記憶を持っていくことができるのかは知らないけど、タカヤが今後幸せになれるのかも同じくらい私は知らないし、もう知ることができない。


 だから、最後まで、自分の中にタカヤを刻み込むことだけを考える。


 タカヤの中に私は確かに存在していて、十分過ぎるほどに伝わった。


 だから、もう私は十分だった。


 この数ヶ月は罰ではなくて、ご褒美だったのかもしれない。


 私はタカヤを大好きになれたことが嬉しいし、そのタカヤをあれだけ好きにさせた自分自身を褒めてあげたいとも思うし、だからこそタカヤの中から私が一生消えなければいいと思うし、でも同時にタカヤには私を忘れてほしいとも思う。


 何故なら私は忘れないから。タカヤをしっかりと焼き付けたから。


 私は心から願う。


 どうか、タカヤが幸せになれますように。

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Life of Envy 入月純 @sindri

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