歪んだ母性

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歪んだ母性

 女性は、薄暗い病室のベッドに横たわり、冷たいシーツに包まれていた。

 窓から差し込む夕暮れの光が、まるで自分の心に染み渡るかのように、寂しげに彼女の頬を照らしていた。

 女性――佐伯さえき真理子まりこは、わずかに膨らんだお腹に手を置き、涙で霞んだ視線をその手に注いでいた。そこには、たしかに命が宿っていたはずだった。温もりを感じ、これからの未来を夢見ていたはずだった。

 しかし、今はただ虚無が広がるだけで、何も残されていなかった。

「どうして。どうして、私の赤ちゃんが……」

 真理子の声はかすれ、涙が頬を伝い落ちた。その一滴一滴が、彼女の心の奥底にある痛みをさらに深くえぐるかのようだった。愛おしい存在だった命が、まるで砂のように、指の間からこぼれ落ちてしまったのだ。

 彼女は目を閉じ、あの瞬間を思い出さずにはいられなかった。

 初めて胎動を感じたときの喜び、夫・佐伯さえき弘樹ひろきと一緒に名前を考えた夜のこと、未来への希望に満ちたあの日々。それらが今は遠い過去の出来事のように感じられ、その全てが彼女を取り囲む暗闇の中で、冷たい風のように消え去っていった。

 真理子の心の中には、深い淵が広がり、その底には計り知れない悲しみが積もり積もっていた。自分が何を間違えたのか、何がいけなかったのか、答えの出ない問いが頭の中でぐるぐると渦巻いていた。

 誰に対しても、この喪失の痛みをぶつけることができないまま、彼女はただその痛みに耐えるしかなかった。

「弘樹さん。ごめんなさい……」

 彼女は虚ろな目で天井を見つめながら、囁くように言った。その声はまるで、亡くなった赤ちゃんに届くことを願うかのように、切なく、哀しげだった。

 弘樹のことを思うと、さらに罪悪感が彼女を締め付けた。自分がこの命を守れなかったことで、彼にどれほどの失望を与えただろうかと、考えずにはいられなかった。

 ベッドの側に立つ男性――弘樹は床に膝を突き真理子の手を優しく握った。

 彼の目にもまた、哀しみの色が浮かんでいた。

 だが、彼は必死に感情を抑え込み、穏やかな声で話し始めた。

「君のせいじゃないよ」

 と慰める。

 真理子が流産したのは、決して彼女自身のせいではない。

 そもそも、彼女が妊娠したこと自体、奇跡的なことだった。

 そして、それを可能にしたのが、弘樹と真理子の夫婦関係だった。二人は互いを愛し合い、信頼し合っていたからこそ、新しい命を授かったのだ。

 外では、木々の葉が風に揺られてサラサラと音を立てている。

 その音はまるで遠い世界の出来事のように感じられた。二人の間に流れる沈黙もまた同じように、どこか現実味のないものだった。


 ◆


 退院後。

 真理子は外出することもなく、部屋に塞ぎ込むようになった。

 家の中には洗濯物が溜まり、ゴミが散乱するようになる。弘樹の仕事は商社マンである為に出張が多く家を開けがちになってしまう為、必然的に家事全般は真理子が担当することになるのだが、それでも今の彼女にとって、家のことは二の次になってしまっているようだ。

 食事もろくに取らず、日に日にやつれていく様子が痛々しいほどだった。

 弘樹は妻が流産したことを理由に出張業務を断るものの、会社はそれを許してくれなかった。人員不足を理由に、無理にでも仕事を回してくる有様だ。

 その結果、仕事を終えて家に帰ってくる頃には、すっかり深夜を過ぎてしまうこともしばしばだった。

 義両親に真理子のことを頼むこともあったが、常に真理子の側にいられる訳でもないため、心苦しいものがあった。

 早くこの状況から抜け出さなくては、いずれ二人とも倒れてしまうだろう。

 そんなある日のことだった。

 弘樹が帰宅すると、玄関を入った瞬間から家の中の様子が明るかった。

 朝までは散らかっていたはずのリビングが綺麗に片付いている。それに、美味しそうな匂いが漂ってくるではないか。

 不思議に思いながら、弘樹は靴を脱いで中に入った。

 キッチンに行くと、エプロン姿の真理子が鍋をかきまぜているところだった。彼女は夫の帰りに気付くと、嬉しそうな顔で出迎えてくれた。

「弘樹さん。おかえりなさい」

 久しぶりに聞いた妻の声はとても明るく、生き生きとしていた。その表情からは以前の暗さが消え去っているように思えた。

 弘樹は一瞬戸惑いながらも、安堵の表情を浮かべた。妻の顔に笑顔が戻ったことが嬉しかったからだ。

 すると隣の部屋から、大学時代の友人・木村和美が顔を見せた。

「木村。来てたのか」

 弘樹が呼びかける中、和美は軽く手を上げながら挨拶をする。横目で真理子が行っている作業を見ながら、弘樹を呼んで小声で話しかけてきた。

「真理子の様子を見に来たんだけど。何か、おかしいわよ」

 弘樹は顔をしかめると、声を潜めて聞き返す。真理子が近くにいるので、迂闊なことを言えないと思ったのだ。

 弘樹が頷くと、和美は続けた。

「……あの娘。なにしてると思う?」

 言われてみると確かに妙ではある。今までこんなことはなかったはずだ。いつも部屋でふさぎ込んでいたはずなのに……と弘樹は思った。

 そんな疑問を抱いている間に、真理子は粉ミルクを哺乳瓶に入れて混ぜ合わせていた。

「え?」

 思わず声が出てしまったのも無理はないだろう。なぜならその中身は明らかに赤ん坊のための物だったからだ。

「どういうことだい?」

 弘樹は尋ねた。

「それが、奥の部屋で何かの世話をしているみたいなの」

 和美はそう言って台所の奥を指さした。

 そこは家の角部屋になっており、今は特に使用目的の無い場所だ。そこに小さなベビーベッドを保管していた。

「世話って。何を?」

 弘樹が尋ねると、彼女は首を横に振っただけだった。それ以上は何も分からないようだ。

「訊いても、私の赤ちゃんとしか言わないの。私が部屋に入ろうと近づいたら、それだけで真理子、凄い形相で私に包丁を向けきてね……」

 和美は、その時の恐怖を思い出したのか、身震いしながら言った。

「包丁って。あの真理子が!?」

 驚きのあまり声が大きくなってしまう。慌てて口を塞ぐ仕草をした後で続ける。

 しかし、それはあり得ないことだった。普段の彼女であれば絶対にしない行動であり、どう考えても異常事態であったことは明らかだった。

「多分、猫か犬でも拾ったんでしょうけど……。流産したショックがあるだけに、心配なのよ……」

 そう言って心配そうに見つめている彼女の視線を追うようにして振り返ると、そこには真剣なまなざしでミルクの温度を肌で確かめている真理子の姿があった。

 その姿は生きる喜びに満ちたものだったが、どこか危うさも感じさせた。まるで何かに憑りつかれているような印象を受けたのだ。


 ◆


 真理子が明るさを取り戻してから一週間が過ぎようとしていた。

 ある日の朝、いつものように新聞がポストに届かなかった。

 弘樹は、ただ配達員がミスをしたのだろうと軽く受け流していたが、その翌日もまた同じことが起きた。三日目には、弘樹は少し気になり始めた。新聞だけでなく、郵便物や宅配便すらも届かなくなっていたのだ。

「おかしいな……」

 弘樹は口の中で呟きながら、玄関先で郵便受けをじっと見つめた。

 郵便受けの中は、異様なほど空っぽだった。通常ならチラシや広告が無造作に詰め込まれているはずだが、ここ数日、何も入っていない。それはまるで、この家が世界から切り離されてしまったかのような感覚を彼に与えた。

「配達員の人、最近見かけないな」

 弘樹は首を傾げた。

 いつも朝の決まった時間に、足早に通り過ぎる姿が目に留まっていたはずなのに、ここ数日その姿を見た記憶がない。まるで、その人が突然この街から消えてしまったかのようだった。

 さらに不安を煽ったのは、隣人の佐藤さんの家の様子だった。

 子供はすでに社会人となり、二人暮らしの老年の夫婦だ。

 週に何度かは顔を合わせて挨拶を交わしていた彼らが、ここ数日姿を見せない。

 窓も閉ざされたままで、車も動かされていない。

「風邪でもひいたのかな?」

 と弘樹は最初はそう思っていたが、玄関の前にずっと置きっぱなしの新聞が、その不安をさらに募らせた。

 弘樹は佐藤家のチャイムを鳴らすことに決めた。

 だが、返事はなかった。ドアを叩いても、家の中からは何の物音も聞こえなかった。不気味な静寂が家全体を包み込んでいるようだった。

「おかしい……」

 弘樹は、その場を後にしたが、胸の奥に広がる不安感は消えるどころか、ますます大きくなっていった。


 ◆


 5日間の出張を終えて、弘樹が帰宅すると真理子は笑顔で迎えてくれた。

 以前のような明るい笑顔を見ることができて、彼は心の底から安堵するのだった。

 台所に行くと、2人分の食事だけが用意されていた。

 それに弘樹は疑問を感じた。

「あれ。今日は、お義母さんが来てるってメールがあったんだけど。もう、帰ったのかい?」

 そう尋ねる彼に、真理子は頷くとなく上の空で答える。

「……ええ。用事があるって」

 その言葉に、弘樹は違和感を覚えたものの、真理子はすぐに思い直したように弘樹に抱きつく。

「それより、赤ちゃんなんだけど。今日、私のことをママって呼んでくれたのよ」

 嬉しそうに語る真理子。

 だが、弘樹の表情は硬いものだった。

(言葉をしゃべった? 猫か犬じゃないのか?)

 彼は心の中で疑問が渦巻き葛藤する。出張で家を開けがちな弘樹だが、未だに真理子が何を世話をしているのか見たことがなかった。訊いても「赤ちゃんに決まっているでしょ」と答えられてしまうからだ。

 弘樹がその部屋に入ろうとすると、真理子は彼を強く拒絶し、「赤ちゃんが怖がるから」と言って扉を閉ざしてしまう。その剣幕に押されてしまい、結局部屋の前までしか行くことができなかった。

 そして今もまた、真理子に抱きつかれたまま、それ以上のことを訊くことができずにいたのである。


 ◆


 その夜、弘樹はついに決心を固めた。

 真理子が狂気に飲まれていく姿を見続けることに耐えられなくなったのだ。

 彼女は以前の真理子ではない。

 愛した妻の面影は、もはやどこにも見当たらなかった。失った子供の幻影に取り憑かれ、次第に現実から乖離していく様子に、弘樹はただ無力に見守るしかなかった。

 だが、今夜だけは違う。

 もう黙って見過ごすわけにはいかない。

 真理子は今、寝室で静かに寝息を立てている。

 その静けさは、彼女が抱える深い闇を隠しているに過ぎない。弘樹は、リビングの明かりを点けること無く、足音を殺しながら廊下をゆっくりと歩いた。

 家の一番奥にある、あの部屋へと向かって。

 その部屋は、かつては子供部屋として準備されていた場所だった。

 明るい壁紙、優しいパステルカラーのカーテン、ぬいぐるみが所狭しと並んでいる。そのすべてが、失った未来の記憶とともに色褪せていた。

 真理子は、流産後、あの部屋に立ち入ることさえ拒んでいた。それがここ数週間で、彼女が再びこの部屋に閉じこもるようになった。

 まるで何かに呼ばれるかのように。

 弘樹はドアの前に立ち、息を呑んだ。

 ドアノブに触れる手がわずかに震える。

 この先に何があるのか、彼は知る覚悟がまだ完全にはできていなかった。

 だが、何かがおかしいことは明らかだった。

 真理子は、何かの面倒を見ている。

 この部屋で何が起きているのか?

 弘樹は一つ深呼吸をして、意を決してドアを開けた。

 ドアの軋む音が静かな家に響き渡る。室内は薄暗く、空気は異様に重たかった。

 入った瞬間、彼は一瞬何かが変わったことに気づいた。

 部屋の匂いだ。

 湿った泥のような、どこか腐ったものの臭いが漂っている。

 そして、部屋の中心にあったのは――、ベビーベッドだ。

 そこにはかつて子供を迎えるために用意された小さなベッドがあった。

 明かりの無い部屋の中、何かが動く気配があった。

 弘樹は、ゆっくりと近づく。

 ベビーベッドを覗き込む。

 弘樹は目を細め、息を飲んだ。

 心臓が一瞬、冷たい手で握りしめられたかのように跳ねた。

 ベビーベッドの中で、不規則に動いていたのは、まるで夢の中で見た悪夢が現実になったかのような「異形の生物」だった。

 巨大な、節くれだった胴体は太く青黒く、ぬめりと艶のある皮膚が腐臭を放っていた。蛇のようにくねりながら動く胴は、異様なまでに蠢き、まるで太ったウジに見えた。

 頭にあたるものは無かった。

 いや正確には頭らしき物体はあったのだが、そこにあるのは蠢く無数の触手だ。

 それらは細く、異常に長い。それぞれが独立して動き、まるで意思を持っているかのように空中を探る様は、まさに生きた悪夢だった。触手の表面は鱗や突起に覆われており、粘液のようなもので覆われてヌラヌラとしているが、よく見るとそれは全て血であった。それらの表面に浮き出た血管が激しく脈打っているのが分かるほどだった。

 群がる触手の元には歪んだ開口を持ち、何かを待ち望むかのように上下に開閉している。牙のような突起物が並び、そこからは鋭い骨のようなものが覗いていた。内側から湧き上がる腐臭は息苦しいほどで、その臭いだけで生き物としての存在感を放っていた。

 その生物は、大きなイカとイモムシをかけ合わせたように見えた。

 だが、明らかにそれは既知の生物ではなかった。

 その触手がかすかに揺れ、まるで空気を撫でるように蠢いていた。

「なん……だ。これは」

 声にならない言葉が、弘樹の口から漏れた。

 目の前の光景はあまりにも現実離れしていた。

 頭が混乱し、理解が追いつかない。

 これは夢だ、悪夢だと自分に言い聞かせるが、目の前の存在は確実に現実だった。恐怖が彼の体を硬直させ、呼吸すら忘れさせた。

 突然、異形の生物がわずかに動き、触手の一つがベビーベッドの外に伸びてきた。その動きに、弘樹の背筋が冷たくなった。

 生物はゆっくりと、だが確実に弘樹の方へとその触手を向けていた。

 まるで彼を「感じ取っている」かのように。

 そして、その瞬間、頭の中に何かが直接流れ込んできた。

 言葉でもない、映像でもない、感覚だけが伝わる――強烈な、母性を呼び起こす何かが。


 ……ママ


 頭の中で声が響いた。

 幼い子供の声が、心の奥底に直接刺さってくるかのように。冷たい汗が額を伝い、弘樹は息を詰まらせた。

 その瞬間、彼は悟った。

 この生物は、真理子に何かを植え付けていたのだ。彼女の心を、この存在が蝕んでいる。真理子は、この異形の生物を――自分の子供と思い込まされていると。

「まさか。これが、真理子を……」

 震える足で後ずさろうとするも、体が硬直して動けない。

 生物の触手が、さらに彼に向かって伸びてくる。その触手は冷たく、まるで深海の底から這い上がってきたかのように感じられた。

 その時、後ろでドアが静かに開いた音がした。

 振り返ると、そこには、眠っていたはずの真理子が立っていた。彼女の目は虚ろで、まるで夢遊病者のような足取りで、ゆっくりと部屋の中に入ってくる。

「真理子。お前……」

 真理子は何も言わず、ベビーベッドに近づくと、まるで自分の愛する我が子を見つめるかのような眼差しで、生物を優しく抱き上げた。

「静かにして、弘樹さん……」

 彼女の声は、穏やかで優しかった。

 しかし、その言葉の裏には、狂気が潜んでいた。

「この子は、私たちの赤ちゃんよ」

 弘樹は、化け物を守ろうとする真理子に言葉を失った。


【クトーニアン】

 クトゥルフ神話における独立種族。

 目がなく短い触手を持ったイカに似た生物で、前部は触手の塊で、後部は円筒型をし次第に細くなっている。岩と地面を掘って暮らす。

 グハーンと呼ばれるアフリカの都市の近くに封じ込められていたが、近くを貫くトンネルを掘って脱出。世界中に潜伏しては地震を誘発させているという。

 どの様に地震を起こすかは不明だが、地震の規模は成虫の30匹で、1906年のサンフランシスコ地震(マグニチュード7.8)と同じ規模の地震を引き起こす。

 孵化した幼生の頃は傷つきやすく弱く、炎で焼き殺すこともできるが、成虫のクトーニアンは高温に対して不死身で溶岩の中でも楽しげにのたくりまわるだけでなく、マントルの内側でさえ泳ぐことができる。おそらくは、地球の核まで行くことができるとされる。

 また、クトーニアンは強い精神感応能力をもっており、遠く離れた人間の行動を探知すること、その行動に影響を与えたり、コントロールしたりすることができる。精神能力を使いクトーニアン同士の交信や人間を一つの場所に繋ぎ止めたり、人を混乱させてそれを待ち伏せする。

 知っている人間ならば、地球上のどこにいても精神感応で接触をすることすら可能だ。

 幼虫は、その成長の為、液体の有機物(血液)を必要とする。成虫となったクトーニアンは液体養分をあまり必要とせず、地球の核と地層との間の温度差の中を行き来することによって、代謝エネルギーを得ることができる。


 目の前で狂気に飲み込まれた妻と、手中に収める異形の存在・クトーニアン。すべてが崩れていくような感覚の中で、弘樹はただ、立ち尽くすしかなかった。

 弘樹が再び、ベビーベッドの中を見た時、そこに大きな塊があるのを見た。

 化け物が居た為に見えなかったが、そこにあったのは、何ともいえない、冷たく惨たらしいモノだった。

 それは、弘樹が知る人間だった。

「お、お義母さん……」

 ベビーベッドにあったのは、真理子の母の首だった。

 それは妙に青白く、血の気が失せた肌が暗闇の中で不気味に光っている。眼窩は大きく開かれ、もう何も見つめることのないその目は、まるで彼を無言の抗議で見つめているようだった。

「どうして、こんな……」

 弘樹の喉は乾ききって声がかすれる。目の前の光景が、現実であるはずがない。

 娘が実の母親の死体を、こんな形で処理しているなど、考えたくもなかった。

 だが、真理子は何も感じていないようだった。ただ優しく微笑んで、その首を見つめることなく、クトーニアンを抱き寄せる。

「仕方ないのよ。この子、ミルクじゃなくて人間の血肉が食べたいって泣くのよ」

 真理子の口元からは涎が流れ落ち、彼女は恍惚とした表情で弘樹を見つめた。彼女はすでに正気を失っていたのである。

「まさか。近所の佐藤さんが居なくなったのは――」

 弘樹の言葉を遮り、真理子は述べた。その顔は狂気に染まり、瞳孔が大きく開いていた。

「私よ。だって、この子を食べさせてあげないと死んじゃうもの」

 その言葉に、弘樹の全身の力が抜けていくのを感じた。彼は愕然とした思いで立ちすくんだまま動けなかった。

 近所で起きた失踪事件。

 配達員、訪問員、隣人が消える。

 そして今、目の前には義母の首。

 恐ろしい確信が胸を突き刺す。全てが繋がった。佐藤一家も、失踪した近隣の人々も、真理子が殺して、クトーニアンに喰わせていた。

 ――そう信じざるを得ない現実がそこにあった。

 だが、そんな彼のことなど気にもせず、彼女はクトーニアンをあやした。

「お願いだ、真理子!もうやめてくれ! こんなの間違ってる!」

 弘樹は真理子に駆け寄り、彼女の肩を掴んだ。

 だが、その瞳にはもはや彼に向けられた愛情の影はなく、代わりに異様な光が宿っていた。彼女は、弘樹の手を力強く振り払った。

「間違ってるのはあなたよ、弘樹さん。私は母親なの。母親が子供を育てるのは、当然のことでしょ!」

 彼女の言葉は激しく、弘樹には重く響いた。理性も、愛情も、すべてが歪められた狂気に塗り潰されていた。目の前の真理子は、もう彼が知っている真理子ではなかった。

「この子のためなら、私は何でもするわ! たとえ、あなたが邪魔をするなら……」

 その言葉が口にされる前に、弘樹は動いていた。

 彼女が次に何を言おうとしているのかは、既に理解していたのだ。

「化け物め!」

 弘樹は叫ぶ。

 一瞬の衝動で、真理子の腕からクトーニアンを引き剥がした。ぬるりとしたその体は、まるで生温かい粘液のように彼の手の中で蠢いた。

「返して! 返してよ!」

 真理子は叫んだが、弘樹はその叫びを無視し、クトーニアンをベビーベッドに投げつけた。もう、この狂気の渦から逃れる手段は一つしか残っていない。彼は真理子の手を引き、息を荒らげながらリビングに駆け込むと、石油ファンヒーターから気密油タンクを手に取った。

 思考は停止し、ただ一つの決意だけが彼を突き動かしていた。


 全てを焼き尽くす。


 灯油をクトーニアンが居る部屋に撒き散らしながら、弘樹は涙を流していた。

 愛した家、愛した妻、そして、これまでの全てが破壊されるその瞬間が近づいていることを悟っていたからだ。

 それでも、もう戻ることはできなかった。戻れば、すべてが狂気に呑み込まれてしまうのだから。

「弘樹さん! やめて! お願いだから!」

 背後から真理子の叫び声が聞こえる。

 だが、その声はかすかにしか届かなかった。彼女の必死の声も、もはや彼の心には届かない。これしか方法がない、そう信じるしかなかった。

「すべてを終わらせる」

 弘樹はそう呟くと、手に持っていたライターを落とした。

 次の瞬間、炎が部屋を一瞬で包み込んだ。

 燻るような音と共に、火は狂ったように燃え広がり、灯油に引火した家は一瞬で地獄のような火の海に変わった。

 クトーニアンの体が焼けただれ、その触手が無数に蠢きながら、まるで叫び声を上げているかのように暴れ回る。

 すると真理子は、あろうことか自ら炎の中に飛び込むと、焼けただれるクトーニアンを抱き上げた。

 まるで本当に、自分の愛する子供を守るかのように。

「大丈夫。お母さんが守るからね……」

 真理子の声は狂気に満ちていたが、母親としての深い愛情が感じられた。愛と狂気が絡み合った、ねじれた現実。

 だが、それもすぐに終わる。

「真理子……」

 弘樹はその光景を、涙を流しながら見つめていた。

 妻が、そして狂気が、すべてが炎の中で消えていく。

 炎がすべてを飲み込み、闇へと変えていく中、彼はただ呆然と立ち尽くしていた。やがて、炎の勢いはさらに強くなり、天井までも燃え始めた頃、彼は踵を返して走り出した。

 もうここには居られない。

 すべては終わったのだ。

 いや、最初から終わっていたのだ。自分が知らなかっただけで、ずっと前から狂っていたのだ。

 そんな現実から逃げるように、弘樹は走り家屋の外に出た。

 弘樹は、荒い息をつきながらその場に立ち尽くした。夜の冷たい空気が肺に染み渡り、心臓は激しく鼓動を打っていたが、その寒さにもかかわらず、彼の背中には熱気が押し寄せていた。振り返ると、家が赤々と燃え上がっていた。

 家は炎の巨人のように立ち上がり、火の舌が風に煽られて踊っている。

 黒い煙が空へと昇り、夜空を覆い尽くしていく。無慈悲な赤い光があたりを照らし、あの家が焼き尽くされるのを、まるで世界の終焉そのものを目撃しているかのように感じた。

 燃え盛る家を見つめる瞳には、もう涙すら浮かばない。

 真理子の最後の狂気に満ちた表情、クトーニアンを抱きしめるその姿が、瞼の裏に鮮明に残っていた。

「どうして、こうなったんだ」

 弘樹の震える声が、空虚な夜に響いた。

 彼の視線は、徐々に崩れ落ちていく家に釘付けだった。かつては笑い声が満ちていた場所。真理子との思い出が詰まった家。新しい命を育むはずだった温かな場所。

 しかし、今そのすべては炎に包まれ、焼き尽くされようとしている。

 火の勢いはさらに増し、木材が崩れ落ちる音が辺りに響く。

 爆ぜる音と共にガラスが割れ、窓から火柱が吹き出る。

 その光景は、まるで家が絶叫しているかのようだった。

 嘆き、怒り、苦悩するような叫びが火の音と共に彼の耳に押し寄せる。

 弘樹は膝をつき、力なく地面に手をついた。絶望が彼を飲み込み、すべてが無意味に感じられた。あの家の中で、彼の人生も一緒に燃え尽きてしまったかのようだ。自分の存在さえも、今や虚ろな影でしかないように感じる。

 火は燃え続け、やがて家の形すらも失われていく。

「終わったんだ……」

 弘樹は呟いた。

 だが、心の奥底では、その言葉が本当の意味で理解されるには、まだ時間がかかるだろうと感じていた。

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