海峡で最も美しい女の死

尾崎滋流(おざきしぐる)

海峡で最も美しい女の死



オランダ式の煙った紅色の市街を抜けて丘を登り、セント・ポール教会の漆喰の剥げた煉瓦壁の前に立つと、遠く木々の間にライの屋敷の瓦屋根が見えた。

眼下には、古きムラカの港がガレー船の行き来した過去を夢見るようにまどろみ、海峡の向こうにスマトラの森がぼんやりと浮かんでいる。

遮るものなく降り注ぐ陽光に顔をしかめながら、路地裏で買った煙草に火を点け、久しく会っていない屋敷の主の記憶をたぐり寄せた。


頼と出会ったのはベルリンの大学でだった。

その頃、欧州に留学できるような人間はすでに少なくなっていて、私たちはアジア人のよしみで何かと互いを頼りにした。

頼は英領マラヤで財をなしたプラナカンの末裔で、学生だった頃から目端が利き、受け継いだ資産を着実に増やしていた。しかしマレーの若き富豪はありあまる富を慈善事業に注ぎ込み、あらゆる戦禍と災禍の責任を負うかのように寄付と援助に明け暮れた。

久方ぶりに受け取った手紙には航空券が同封されており、私は請われるがままにこの海峡の街へとやって来たのだ。


頼の両親が揃って死を遂げたことは、新聞の記事で知った。

全身が硬化する難病によって、相次いで眠るように命を落としたという。遺伝性も疑われる病とあって旧友の身が案じられたが、多忙にかまけて便りを怠っていると、やがて何を言うべきかわからなくなってしまった。

持参するよう書かれていた写真機の箱を背負い、照りつける陽射しを避けつつ屋敷への小道を辿りながら、悔やみの言葉をどう切り出すべきかを考えあぐねていた。明らかに私は相手の気分を害することを恐れており、つまり私は苦境を脱するために旧友にすがろうとしていたのだ。


フタバガキの森に囲まれて建つ屋敷はコロニアル様式の白い邸宅で、壮麗な門とバルコニーがかつての帝国の栄華を伝えていた。

広い前庭を通り抜ける時、西洋人の青年が植木の世話をしているのが目に入り、思わず足を止めた。その顔と体躯が、ベルヴェデーレのアポロンに瓜二つだったからだ。

この熱帯の街に場違いなまでの古代的な均整に驚きながら、努めてその姿から目を逸らし、屋敷へ続く石畳を一歩ずつ踏み締めた。背後から、青年がこちらを見ている気がした。

マホガニーの扉を叩くと、一分の隙もない身なりの年若い少女が私を迎え入れた。

「お待ちしておりました」

帽子を脱いで玄関広間に足を踏み入れると、寝具を運んでいた少年が足を止め、目礼をした。

私はまともに声を出すこともできずに、少女に導かれるまま階段を昇っていった。

他にも幾人かの小間使いらしき若者たちを目にしながら、私は落ち着かない気持ちになった。屋敷で働くものたちはみな金髪碧眼の若い西洋人であり、その全員が、まるでギリシア彫刻のような相貌をしているのだ。

書斎らしき部屋の前で少女が一礼し、「ご主人様がお待ちです」と流暢な華語マンダリンで告げた。


「よく来てくれたね、待っていたよ」

立って私を迎えた頼を見て、私はすぐに異変を察した。

「きみ、目が……」

頼は微笑んで頷き、正面を見つめたまま、手振りで椅子を勧めた。

「はるばる来てくれてありがとう。もう十年以上になるか」

「そうだな、無沙汰をしていてすまない。その……ご両親のことは残念だったな」

「ああ、きょうだい二人だけ残されてしまったよ」

扉が叩かれ、あまりにも整った顔をした青年が茶を運んで来た。鮮やかな花柄の陶器から湯気が立ち昇る。

香り高い紅茶を一口含んでから、思い切って尋ねた。

「目は、どうしたんだ」

「自分で、見えないようにしたんだよ。もちろん医者に頼んでね。簡単な処置だそうだよ」

「ばかな」

「耐えられなかったんだ。僕はどうも、罪の意識に弱いようで、ものごとを重くとらえすぎてしまうのかもしれない。でも後悔はしていないよ。幸い、皆が助けてくれて、困ることもないしね」

「罪だって?」

「美しいものを見たいという気持ちだよ。その欲望の罪深さに耐えられないんだ」

頼の微笑みは安らかだった。それは本当に、原罪から解き放たれた者の笑みのように見えた。

「私のことを記事にしたいという人がいてね」二の句を告げずにいる私に、頼は招待の理由を語り始めた。「その種のことは、これまでずっと断ってきたんだが、その人は恩義のある相手でね……とうとう断りきれなかったんだ。だから条件を出した。せめて写真を撮る人間は私に選ばせてほしいと。私にはもう、出来上がった写真を確かめることはできない。だから、信頼できる人物に撮ってもらいたいんだ」

ベルリンの夜更け、深い紅色のソファで交わした議論が蘇った。

偶像崇拝の禁忌と、キリストの肖像。

複製されるイメージと、浸透する権力。

美と崇高、そして観念と物質について。

光のない瞳で虚空を見つめながら話す旧友を、私は居心地の悪い思いにかられながら見つめていた。


ひとしきり話すと、頼はまず休むようにと促し、人を呼んで部屋まで案内させた。

「しばらくこの家に滞在するといい。今夜は歓迎会だ」

アルテミスの如き少女が、私を寝室まで導く。

吹き抜けに面した廊下を歩くうちに、正面から、ドレスの長い裾を引いて現れた者があった。

「お久しぶり。お元気そうで何よりです。兄はあなたが来るのを、首を長くして待っていたんですよ」

「……リンユェンか」

その人物がこの屋敷にいることを、どういうわけか私は全く予想していなかった。それどころか、その人物のことを、今までほとんど思い出しさえしなかったことに気づいた。

リンユェンはドレスの袖口からすらりと伸びた腕を伸ばし、私に触れた。

「お変わりありませんね……まるでベルリンにいた頃のよう」

「きみもです、リンユェン」

薄く紅を引いた唇に笑みが浮かぶ。



この屋敷に足を踏み入れてから、私は奇妙な胸騒ぎにとらわれていた。様々なことが予想外のかたちで現れ、言い知れぬ不安を感じる。

与えられた居室の窓から見下ろすと庭園にリンユェンの姿があったので、降りていって話しかけた。屋敷で働いている若者たちは何なのかと問うと、頼が引き取った孤児や、困窮した家の子らだという。

「兄には、極端なところがありますでしょう。罪悪感が強すぎるのです。カソリックに改宗したのは、祖父の代からですけれど」

几帳面に剪定された植木と、芝生に落ちる濃い影の間をそぞろ歩きながら、代々港町を支配してきた一族の末裔がくすくすと笑う。

専ら金融市場との駆け引きによって財を殖やしていた兄と違い、リンユェンは実業家だった。先祖の人脈を活かして海峡一帯に根を張り、山を切り開いて開発を先導した。

時おり欧州を訪ねて来ては、抽象的な議論に明け暮れる私たちに呆れた顔を見せていたものだ。一体なぜ、その頃のことを忘れていたのだろう。

「自分で目を見えなくしただなんて、驚いた」

「それは、貴方のせいかもしれません」

弾かれたように顔を上げると、リンユェンの黒い瞳がまっすぐにこちらを見ている。

「せっかくですので、屋敷の中をご案内しましょう。兄は貴方を連れて回るには不便ですしね」

屋敷の裏手へ回ると、木立に隠されるようにして地下へ通じる扉があり、足を踏み入れると狭く長い階段が続いている。

階段を降りきって照明が点けられると、大理石で造られた広間に奇妙なものが立ち並んでいた。

「ここは、彫像の間です。兄のコレクションですよ」

それは確かに彫像のようだったが、しかしその全てに分厚いヴェールが被せられ、台座の上まで覆われていた。

仄かな明かりの中、足首すら見えない彫像の群れが並び、その奥の壁に鏡が掛けられ、私とリンユェンの姿がおぼろげに映っている。

リンユェンが彫像の一つに歩み寄って見上げ、「父です。隣が母」と告げた。

指し示された彫像──幾重にも重ねられ、深い襞を形作る灰色のヴェールを見上げながら、あの新聞記事を思い出していた。

「ご両親は、全身が硬化して亡くなったそうだね」

「そうです。痛ましい病気でした。まるで、身体が存在の階梯を下って石になってしまうような」

「なぜ彫像の姿を隠すのかね。どうせ見えないのに」

「見えないものを隠すことで、逆に見えるようになるのかもしれませんね」

ふと、ヴェールの下を見たいという強い欲望がみぞおちの辺りからこみ上げ、思わず深呼吸をする。

「兄が目を塞いだのは、罪の意識からではありません」

「えっ?」

不意を打たれて振り返ると、リンユェンはすでに階段に向かっていた。

地上へ向かう階段を、二人で上る。

「兄は石になることを恐れたんです。この部屋の奥にある、メドゥーサの首を見ることによって。目が見えなければ、人を石と化す顔を目にすることもありません」

「何かの比喩かい」

「メドゥーサが実在するわけではありませんので、比喩と言えるかもしれませんね。それより──」

背中を追う私に、前を向いたままリンユェンが告げる。

「この階段を上りきるまで、決して後ろを振り向かないでください」



頼美霞ライメイシァはマラッカ海峡で最も美しい女と呼ばれ、舞台に上がるとなれば夜の港街に人が詰めかけた。

はるばる阿片や綿を運んで来た者も、錫やガンビアを運び出そうとしている者も、その姿を一目見ようと酒場に集まった。様々な色の肌と髪を持つ人々の前で、歌姫は対象を持たない郷愁を物憂い調べに乗せた。

ある時、頼美霞は首無し死体となって発見された。迷信深い人々は、それが最近街に持ち込まれた写真機のせいだと言い立てた。瞬時に像を切り取る機械によって、顔を奪われたのだと。

「その人が、きみの曾祖母の妹だというのか」

食後の茉莉花茶を啜りながら尋ねると、頼は自信なさげに頷いた。

「まあ、百年以上も昔のことだ、どこまで本当なのやらわからないがね」

「しかしその迷信を信じるなら、私も君の首を切り取りに来たことになるな」

「一瞬で頼むよ。痛いのは苦手だ」

フランス革命とともに生まれたギロチンが写真機の祖先だと言う者がいる。それは史上初めて死を瞬間的なものとし、その機能は写真機の登場を予告するものなのだと。

私は頼を殺しに来たのかもしれないと、その時不意に気づいた。

頼を殺せば、何もかもが解決するのかもしれない。

もし主人が殺されたら、この屋敷に仕えるあの彫刻のような少年少女はどうするだろう。私は怒り狂った彼らに襲われ、オルフェウスのように八つ裂きにされるだろうか。

「兄さん、あの写真の話はしないんですか?」

リンユェンの声に我に返ると、頼が心なしか表情を強張らせていた。

「何のことだい?」

「地下室にある、大おば様の写真のことですよ」

食堂の空気が張り詰めるのがわかった。

リンユェンは煙管をくゆらせ、頼は卓上に置いた拳を握り締めた。

部屋の角に置かれた大きな蘭が、にわかに強い香りを漂わせる。

「頼美霞の……きみたちの曾祖母の妹の写真が、あの部屋にあると?」

「ええ、あの部屋の奥、鏡の向こうの秘密の部屋に、大切にしまってあるんですよ」

頼はため息をついた。

「またそんなことを……忘れていたよ。この話になると、お前は昔からおかしなことばかり言うんだ。地下室の鏡の向こうに、部屋などないよ」

「おかしいのは兄さんの方です。知らないはずはないのに」

どうしていいかわからずまごついていると、頼が顔をこちらに向けた。

「妙なところを見せてしまって、すまないね。今夜はここらでお開きにしよう。明日、写真を撮ってくれるかな」

「ああ、かまわないよ」

頼は立ち上がると、白磁のような肌の少年に付き添われて食堂を出ていった。

屋敷のもう一人の主が、猫のような目で私を見ていた。

「マラッカ海峡で最も美しいと言われた頼美霞の写真、見たいでしょう?」

差し伸べられた手を取り、私は立ち上がる。



陽が落ちると暑さは和らぎ、海峡からの生ぬるい風が木々を揺らした。

暗がりに隠れた扉を開けると、地底への階段は黒檀の闇に溶け込んでいる。

「足元にお気をつけて」

私を導くその手は、驚くほどに冷たい。

階段を降りるほどに、遠い潮騒や、木々の葉が擦れる音が遠のき、重たい沈黙がわだかまる。

「つまりその写真が、メドゥーサの首ということなんだね。確かに頼はそれを怖がっているようだけど、ただの写真だなんて少し拍子抜けだな」

「そうでしょうか? 切り取られたメドゥーサの首がその後どうなったか、ご存知ありませんか」

そろそろと階段を降りながら、海峡の古き一族が語る。

「ペルセウスからメドゥーサの首を献上されたアテナは、それを自分の盾に嵌め込んだんですよ。でも、ちょっと変だと思いませんか、盾に首を嵌め込むなんて」

「つまり──」

「そう、つまり、メドゥーサの首は平面なんですよ」

メドゥーサはかつて絶世の美女であったが、アテナの怒りによって醜い怪物に変えられたという。知恵の女神によって魔物とされ、その首を盾に変えられた女。

その呪いは、一体誰の呪いなのか。

階段を降りきり、薄暗い照明を点けると、厚い布に覆われた彫像たちが私たちを取り囲んだ。その奥に、かすかに四角い鏡が見える。

「お金に困っていらっしゃるんですよね」

弱い光を反射した瞳がこちらを見ている。

「あなたが来られることになってから、人を雇って調べました。お気を悪くしないでください、誰にでもすることですから。投資にひどく失敗されたとか」

「何が言いたいんだ」

リンユェンは彫像たちの間に足を踏み入れ、部屋の奥へ歩き出した。

「マラッカ海峡で最も美しいと言われた頼美霞の写真──あなたはご存知なかったでしょうが、しかるべき場所に出せば、それなりの値打ちがあるものなんですよ。しかも、どうやら兄はそんなものがあることすら認めたくないようです。持ち出してしまっても、咎める者はおりません」

「なぜ私にそんなことを言う。君の目的はなんだ」

「知りたいんですよ。あの写真が、本当に人を石に変えるのかどうか」

周囲の彫像たちが、ヴェールの下から私たちを凝視しているように思えた。

見えるものと見えないもの、見る者と見られる者が、暗い地下室の中で互いを喰らおうとしながら息を潜めていた。

部屋の奥にたどり着くと、大きな四角い鏡が、私の姿を映し出している。

そこに映った表情を、どこかで見たように思った。

凍えるようなベルリンの夜。

頼の誕生日、痛飲した私たちは迷宮のような夜を彷徨っていた。私はまごつく頼の手を引き、上流階級の人々が織りなす網目のうちでも最も隠微な部分から引き出した、秘密のクラブへと向かっていた。

幾重もの厚いカーテンをくぐり抜けたその先、立ち込める水煙管の煙の中に、アクロポリスの神殿から現れたような、金髪碧眼の若者が待っていた。

そう、あの時の頼の表情だ。

あの時、私のせいで、頼の人生は壊れてしまったのだ。

凍りついたように立ち尽くす私の前で、耳障りな音を立てて、鏡がひとりでに動き始めた。

四角い鏡がゆっくりと横にすべり、背後の空間を覗かせていく。

がらんどうの小さな部屋の奥の壁に、額縁に入れられた白いものがちらりと見えた。

私は踵を返し、脱兎のごとく駆け出した。

彫像たちの呟く声を振り切り、必死に階段へと向かう。

今すぐにこの街を去らねばならない。部屋に戻って荷物をまとめ、いや旅券だけでも持って空港に向かうのだ。市街地に行けば、夜市に群がる観光客を待つ車が拾えるだろう。

真っ暗な階段を駆け上る。四角く開いた出口の向こうに、うっすらと明るい夜空が見える。

──この階段を上りきるまで、決して後ろを振り向かないでください。

リンユェンの声が聞こえた。

何者かが、すぐ後ろまで近づいているのを感じた。

振り返らずにこの階段を上りきれば、元の世界に戻ることができる。

あと数段で階段は終わる。

その場所で、私は立ち止まっていた。

「そんなつもりじゃなかったんだ。ぼくは、ただ──」

取り澄ました頼を、少しからかってやりたかっただけだ。

裕福でありながら君子のように振る舞う友の、獣のような顔が見たかっただけだ。

あの夜のあと、リンユェンは汚らわしいものを見るように私を見ていた。

地下室から、湿った風が吹き抜け、物憂い調べが聞こえた。

全てが許されることを期待して、私は振り返った。


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海峡で最も美しい女の死 尾崎滋流(おざきしぐる) @shiguruo

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