人魚の唄と透明な夢

白雪花房

人魚は希望と出会った瞬間、絶望に沈む

 青い海に鮮血が散る。

 海中を泳ぐ黒尽くめの男たち。彼らは銛で人魚を穿つと、片っ端から縄を引っ掛け、捕まえる。

 一体、二体と。

 群れはあっけなく壊滅した。海を漂っていた人魚たちは一人残らず回収され、積み荷として船に送られる。底には透明な里だけが残され、今は静寂が漂うのみ。ほのかに紅い色が水中に交じるも鉄の臭いとともに、溶けて見えなくなった。


 ***


 四方を透明な壁に囲まれた空間に、閉じ込められている。

 魚の尾びれを持つ娘は細い手首にはめられた枷をじっと見つめ、憂い顔でため息をつく。彼女は逃げ遅れたがためにあっさりと捕まった。乱暴はされなかったけれど、かすり傷がついている。傷つけては商品の価値が落ちるのでは?

 すでに気分は奴隷。いつの間にか客側の視点に立っている。

 実際に運命は決まっていた。そばには同じく箱詰めされた人魚たち。かろうじて水に浸かりながら、一定間隔に設置されている。

 皆、死んだ目をしていた。顔に影が掛かり、虚空を見つめている。


 絶望的な状況になって思い出すのは、昔のキラキラとした日々。透明感のある里では笑顔にあふれ、和やかな時間が流れていた。

 海の底は楽園だと誰かが言いふらす。

 地上は治安が悪く、どこもかしこも荒れている。人魚たちの住処だけはそういった喧騒から逃れられ、平和が得られたはずだった。

 現在では航海技術が発展、海底を探索する方法も確立。密猟者たちは特殊な加護を施した装備を使って海へ潜り、人魚を乱獲する。

 抵抗もできずに捕まった。


 奴隷となったらどうなるのだろう。ぶくぶくに太った貴族の元で飼われて、一生を過ごすのか。

 人魚は象徴である美しい声を失い、観賞用の置物となる。

 何日も何年も。かろうじて見える窓を通して、空の色が移り変わる様だけを眺める日々が続くのだろう。


 人魚の里の言い伝え。

 地上へ上がった人魚は生きていけない。

 きっと売られた人魚は終わるのだ。

 今さら緊張感はない。金属の錠の無機質な匂いを間近に感じ、より虚ろな感情がこみ上げてくる。


 今の時間はただの猶予。

 ゆらりとろうそくの灯りがか細く揺れ、時計の針が動く硬質な音だけが聞こえる。まるで死刑宣告のカウントダウンを告げているかのようだ。


 そのとき轟音が響き、急に船体が揺れる。

「海賊船だ!」

 叫びが全体に広がる。

 上のほうで乗組員が応戦。砲弾が飛び交う。大砲が飛来。木片が飛び散る。揺れる船体に乗り込む荒くれ者たち。

 必死になって抵抗するものの、戦力ではあちらが上だ。圧倒的な武器の差を前に撃墜し、劣勢に立たされる。

「積み荷は見捨てろ! 沈没するぞ」

 緊迫感のある声を出す船長。

「よし、生き延びるぞ!」

 彼らは明るい声を出し、ボートを片手に甲板を降りる。彼らはまた一人と船を脱出。ドボンと飛沫を上げながら、飛び込んでいった。


 彼らと入れ変わる形で一人の男が通路に入り、檻の前へとたどり着く。

 なんの変哲もない人物だ。荒れたシャツを着て、ボロボロの裾からすね毛の生えた脚を出しただけの人。海賊らしい格好の中でほんの少し丸みを帯びた雰囲気がする。まともに外見を整えたら、街にも馴染めそうなくらい。

 どこにでもいる人間なのに、助けてくれたというだけで、ヒーローに見えた。

 相手はあっさりを檻が壊し、手錠を外す。ガランンと鉄の鎖が落ちて、ガラクタと化した。

 人魚は自由になった手首をじっと見つめ、目を丸くする。解放されたことを理解するのに時間がかかった。

 周りの人魚たちは歓喜しながら踊り騒ぐ。ヒレで跳ね、笑い合いながら、抱き合った。勝ったと言わんばかり。中には大粒の涙をこぼし、震えるものもいた。


 ちょうどそのとき大砲が破裂する音が響き、壁に穴が開く。水が漏れ出した。

 意気揚々飛び出す仲間たちを見送り娘は一人、取り残される。ぽつんと箱の内側に留まりながら、じっと彼を見つめた。奴隷を買いにきた主と対面するような心地。


 もし、買われるなら彼がいい。焦がれる気持ちで待つ。

 目と目が合った。無言のやり取り。ドキドキと鼓動が加速する。体が熱い。頬がバラ色の紅潮し、ロマンチックな気持ちがこみ上げ、膨れ上がる。


 おそらく他の仲間は誰も彼のことは気にもとめない。お礼もせずに逃げ出したのが、その証拠だ。

 だけど、彼女にだけは分かる。

 海賊のような荒くれ者たちの中でも、異質な存在。もしくは最初からこれをなすためだけに海賊船に潜入していたのではないかと思うほどだ。

 真実を知りたい。いったいなんの目的があって人魚を解放したのかを――

 もしも答えが人魚を救うためなら、自分を連れて行ってほしい。彼と一緒に行くためなら、玻璃を飲んででも、地上を歩く。

 強く熱のともる眼差し。

 真実を問いかけるために口を開いた瞬間。


「君じゃない」


 薄い唇がつむいだ瞬間、心臓が震え上がる。背筋に冷たいものが流れ落ち、体の芯が揺らいだ。心が空っぽになり、世界が白く溶け落ちる。


 ぼうぜんと固まった人魚を置き去りに、彼はあっさりと背を向けた。影が消える。


 ああ――


 眉を悲しく垂らし、目を伏せる。

 体から力が抜け肩を落とした矢先に床が割れ、水中へ投げ出された。海へ落ちる。視界を覆う青。潮の香りが鼻腔を突き、心まで染める。肌を覆う冷たさが心に滲みた。あんなにも求めた水が、今は悲しい。


 暗い場所から這い上がり、顔を出す。船が見えた。青空を背景に硝煙が上がり、海に沈む。奴隷船を撃沈させた海賊船はしれっとすれ違い、離れていった。

 中にはあの、海賊らしからぬ優男風な男の影も見える。

 信じられない心地で見つめ、言葉を失った。

 希望が、遠ざかる。


「ねえ、どうして私を助けたの」

 違う。残酷な一言が貝殻に覆われた胸を、締めつける。

 きっと人魚は彼の運命にはなり得ない。

 それでも彼女にとっては唯一無二の希望だった。

 闇夜を照らす月の光のように――自分だけを照らしてくれたように思えたのに。


「あなたが月だとするならば、夜になれば会えると思いたかった」


 祈るように目を閉じ、透き通るような声で唄をつむぐ。

 天へ向かって呼びかける。どうか、想いが届きますように。


 もう一度頭をよぎる。暗い檻の中で彼と見つめ合った一瞬を。

 期待をかけた。あの男が連れ出してくれることを求めていたのに。それはきっと、透明な夢だったのだろう。


 日が落ちた。夜になる。岸辺に上がり、岩の上に座り込み、ただ唄を歌った。

 彼女は待ち続ける。たとえ遠くの空で愛の成就を伝える唄が聞こえたとしても。

 ただひたすらに孤独なまま、透き通る声はいつまでも響き渡る。

 遠くのさざなみの音と、海の蒼の香り。

 ひどく感傷的に切なく、ガラスのようにもろく、繊細な声は宙に溶けていった。

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人魚の唄と透明な夢 白雪花房 @snowhite

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