胎盤の青

ご飯のにこごり

第1話

胎盤って乾くまでは青いらしいね。と彼女に聞いた。


僕はそのことをいつまでたっても忘れられなかった。どうでもいいことって変におぼえてるものなんだとつくづく思う。


僕と彼女の出会いは何でもない、ただ趣味が同じだったというだけの事。お互いに変なヤツだっただけの事だ。一日中無人駅からお金を払わず過ぎ去っていくどの駅からも出ずに電車に乗って本を読む。

ちょっぴり犯罪的な色をした趣味。日暮れごろにつかれた顔した学生たちに交じってどこか嘲るように、恥ずかしそうにそそくさ駅を出る。


赤く駅が染まるまで二人すれ違うと共犯者じみた会釈を交わす程度だった。雨の降っている日だった。

寒い、春か冬かあやふやでぼやけているそんな日に、死体は僕らを見ていた。新快速の止まらないせいで死体の人間は死んだ。レールの上を歩いているようなネクタイにスーツの男、皮肉なものだ。僕ならこんな死に方は選ばない。死ぬのなら猫のようにひっそりと、楽しそうな日常日和を見つけたら復活して飽きたらまた消える。死んでても生きててもどうせ変わらないんだからどうせ死なない。


死んでも死の国に君の居場所無いよって鬼に言われそうだし、好きなものを集めた小さな世界に閉じこもる。


何も映さなくなった目には僕らが唖然と映っている。あわあわと一言二言話した気がするが覚えていない。不本意に赤い運命の糸を垂らされたような嫌な出会いだ。死んでますね、どうしましょう。なんておおむね人間らしくしていたと思う。


パニックになればみんな一色にしかならない。逃げたくなるものだし、逃げないやつも逃げるという行為から。同調することから逃げている。

そう、僕らは逃げ出したのだ。このどうしようもない血まみれの現実から。押し付けられた責任から。


夜でもないのに暗闇が濃くなって、濃くなっていくその黒から逃げだすために駅を飛び出して、とにかく走った。走って、走って2度と開かないこの遺物になったシャッター商店街を抜けて何もない線路伝いを歩いて、景色はどんどん米を蓄えた稲穂ばかりになる。放火すればパンの匂いがしそうな麦畑に風景は移り、麦の数だけ大きな火が上がって何もかもを誰にもバレないで燃やせそうな気さえした。つまり言いようのない自由だけがこの時の僕らには与えられていた。子供時代のような忘れていた無邪気さを思い出していた。


僕らはまるで幼馴染の様に歩き話した。意外とお互いミーハーなこととか、おすすめできる本があまり無いからとりあえずハサミ男をお勧めしてるとか。コンビニ人間が好きだとか。弟が3人いてみんなが僕を呼び捨てにしてバカはプライドだけは高い。その様式に則って僕もそうなんだとか。そんなくだらないたわいない話。


彼女は意外にもよく笑う女の子でイメージはすぐにぶち壊れた。死体を見たせいで変にハイになって話さなくてもいいことまで話してしまった。でもおかげで(彼女は片親なんだとか、父の事が嫌いだとか、本だけが友達だって思ってたからこういうのも新鮮だし仲良く慣れてよかったとか)。

線路から伸びていた手をつかんでやれば良かったかなと死体の濁った眼を思い出していた。


僕らはそのまま隣のこれまた無人駅までたどり着くと背中に乗りかかった何かを振り払おうとして、すぐに運転を見あわせていない下りの方に飛び乗った。

座り、死を目にしたからか僕らは生の話をした。ただそのうち、生が実はもっとも死に近いことに気が付いてやめた。

「赤ちゃんが生まれる時が一番女の人が死ぬときなんですよ。」と言った僕のせいだった。


ピュアな彼女は町ですれ違ったときに運命の人同士がすれ違えば赤ちゃんができるものだと思っていたらしくて、じゃないと隣の仲の悪い夫婦の理由が付かないとプリプリ顔を赤らめていた。

「じゃあさ、猫なら一回赤ちゃん産んで死んじゃってもあと8回甦れるから平気だね」と思い出したように不思議ちゃん発言をした時は流石の僕もお手洗いに立った。なんだか僕までたまらなく恥ずかしかったから。

本気で猫の命9つみたいなことわざ?を信じている人がいるなんて、と。


町ですれ違ったら子供ができるとは僕も昔思っていた。彼女と同じ理由で隣人トラブルからだ。道を歩いているだけで瓶を投げつけてくるような狂った女と結婚するバカはいないと決めつけていた。だが愛し合って体をあわせ子供まで作っている、狂人は2人いたのだ。コウノトリが運んできてくれる方がいくらかマシにみえるくらい醜悪に性を知った後の目では見えたものだ。

「じゃあさ、じゃあさ話変わるけど8回、いや9回か、生まれ変われるなら何になりたい?」僕はまた話を始めた。

「人間限定?何でもあり?」

「何でもあり、モハメド・アリとか有名人はなし。」

「アヴドゥルは?」

「キャラクターも無し。」

「じゃあもう一回自分になりたいな。赤ちゃんの頃の記憶を頑張って覚えといて有名キッズになるんだ。そんで母親をまず解剖した後、父親をめった刺しにして3才で人殺しになる。そしたら私の不幸は生まれないから。それに胎盤って乾くまで青いらしいからさ見てみたいんだ。」

「あと8回は?」

「ランダムで寿命の短い生き物。2回人間やるんだし充分だよ、残り8回全部殺処分されるひよこでも許せる。」

「もったいなくない?」

「全然!そういうならさもったいなくない9回を教えてよ。」

「全部サイ。」

「なんでよ。」

「かっこいいじゃんサイ。適度にバカっぽくて明日の事なんて考えないで幸せそうじゃない。食べられることも狩られることもあんまりなさそうだし。」

「サイはサイで大変じゃない?草しか食えないし人生経験あるせいでハンバーガー食べたくなるよ、どうせ。人間に戻してくだサーイって泣くことになるよ。」

「そうかな?」

「そうだよ絶対。錦鯉とかにしといたら。」

「なんで?」

「私が好きだから。」

「じゃあそうする。」


外に青空と海とで2つの青が並んだ時電車はぷしぃーと音を立てて止まった。僕らはお金を一つも持たないで誰もいない波の音響く駅に降りた。踏切の音は僕にあの男の死体を思い出させて、誘われているみたいに動悸がした。吐きそうだった。多分磯の香りのせいで。


僕より先に彼女が吐いて、覆い被さるようにしてその上に僕も吐いた。

涙と胃液にぐしゃぐしゃになった顔は酷く魅力に満ちていた。アブラナばっかりが駅の階段からすぐの海岸、砂原には生えていた。彼女の名前も知らない。だけどはしゃぎまわる彼女は間違いなく今だけの僕の妹だったしむこうはむこうで僕の事を弟だと思ってくれていたと思う。吐いたことなんてなかったみたいに駅をあの時と同じように飛び出して二人海まで笑いながら走った。


この日は終電まで海ではしゃいで服がびしゃびしゃになった。着ていた白いカッターシャツが肌に張り付いて気持ちが悪かった。でもそれ以上に彼女への僕の心が気持ち悪かった。海の水を吸った彼女は羊水の匂いがしてセーラー服の透けた肌は白く、反応し脈打つ僕の高まりが彼女に伝わってしまわないか不安で不安で恥ずかしかった。そんな対象として見たくないのに体は彼女を女として求めている。勝手に僕だけ気まずくなって電車の中では何も話せなかった。ありがたいことに中学は別々、春休みももう終わるし明日からの学校で顔を合わせることもない。


そう思ったとたん胸に込み上げてくる物があった。僕らの駅はもうすぐそこまで来ていてその正体を掴めないままで電車は駅に着いた。ホームに足をついたときビシャビシャと音を立てて、吐瀉物は落ちた。僕からでなく彼女から。僕もまたつられて、真っ青の顔で「次いつ会う?」「何言ってるの?いつもここであってるじゃん。」「それもそうだね。じゃあまた今度。」「それじゃあ」と別れて、まだ込み上げてくるものがあった。


それは明確に寂しさだった。カンカンカンと踏切の音が遠くからした。波の音が巻貝も耳にあてていないのに聞こえた。


次に彼女に会ったのは夏休みに入る1週間前の日曜日、その実僕はあのことがトラウマで駅にめっきり足を向けなくなっていた。

彼女は「え、毎週来てたよ、久しぶり」と笑いながら言った。トラウマなんて無いのか、あんなのトラウマにもならないのかと怖くなった。

「僕がいなくて寂しくなかったの?」

「別に、土曜日は独りだし。」

「土曜日もきてるなんて知らなかったよ。言ってくれればよかったのに。ベテランだねすっかり。」

「別に。」

「何読んでるの。」

「別に。」

「教えてよ。」

「うざいなぁ、人が集中してる時に話しかけないでくれる。どうせアンタも私の性別目当てなんでしょ。読み終わったらいくらでも付き合ってあげるから黙っててよ、もう。」

「別に。僕は何読んでるか気になっただけだし。」

「砂の女だよ。」

「ふーん。」

4時間無言で僕らは過ごした。4時間たったころ占い師のババアが現れて言った。

「あなた今幸せ?」

「幸せですよ」と僕は答えて彼女はなにも答えなかった。それどころか迷惑そうな色を見せた。

ババアは言った。

「幸せは逃避なんだよ。現実に目をつむっている時だけ、背けているときだけ幸せになれる。アタシはこんな偽物の幸せしか知らねぇけどね、お嬢ちゃんはこの坊やより少なくとも立派ですよ。だって現実と一生懸命戦っているからね。」

「僕はそんなにダメですかね。」

「あんた悩みあんの?」

「ないですけど。無いのが悩みですね。」

「一生幸せでいられそうだね。人にも自分にも興味が無いんだよアンタは、空っぽなんだよ。」

「なんかすいません。」

「別に怒ってるんじゃないんだよ。あたしゃ呆れて物申してるんだよ。」

「私の友達をあまり責めないであげてください。私の居場所の一つではありますし。一応。」

「そうかい、じゃああたしゃここらでおいとまするよ。嬢ちゃん苦しいだろうけどね、死んじゃいけないよ死んだら全部が道半ばでパーだからね。あんたもだよ、幸せ坊主。」

いそいそと紫の風呂敷包みを背負い占いのババアは駅を出て行った。元気でファンキーなババアだと思った。


気まずさますます深まって僕が線路に飛び出さんばかりになっていたころ彼女はおもむろに立ち上がり「それじゃまた。」とだけ言って駅を飛び出していった。

僕はタバコも無いのにふかすみたいに息をして彼女の姿が見えなくなったあと駅を出た。

夕日ばっかりが肌に刺さって心がチクり痛んだ。


みんなが当たり前に友達と休みを過ごしているであろう土曜日、彼女に会うために10時ごろ駅にきた。この駅も随分と変わった。僕がマップのアプリでタバコを吸っている高校生がいますと書いてつつましい喫煙所が撤去されたし、他のレビューによってかよらずか青少年の白ポストさえも無くなってしまった。次は公衆電話か、何が無くなるんだろう。駅すらも無くなってしまいそうな気さえする。


そんなオンボロの駅には僕を覗いて人がいなかった。彼女がきたのは午後3時頃だった。

手首、手、足にはアザ。目には泣きはらして涙が溜まっていた。

「どうしたの」なんて呑気に聞いたらこの関係もあっさり終わってしまいそうな、そんな雰囲気が漂う。

彼女はやたらに笑おうと痛々しく表情筋を動かしながら僕と話をした。

「あのおばあちゃんいたじゃん、」「あのファンキーババア?」「うん、実はね私のいとこのおばあちゃんなの」「そうなんだ」「面白いひとでしょ」「変な壺売ってそうだけどね」「よくわかったね。おばあちゃん骨董品屋のおかみさんなんだあ」「占い師じゃないの?」「ちがうよ。」と笑いながらもってきていたカロリーメイトを二人でつまんでいた。キットカットも2つに割って食べた。

ずっとこのまま夢みたいな日々に浸っていたいなと強く思った。


次の日曜日、つまり次の日は雨だった。雨でぬれた靴は脱いでまた履くことはひとまず考えないようにして座っていた。いつも通り10時に駅にきて、彼女はふらっと1時頃にきた。雨のせいかどこか生臭い匂いがした。

「私、人を殺してきたの。」と言った。雨の音でよく聞こえなかった。

「そうなんだ、どんな殺し方をしたの?」

「ハイヒールで思い切り殴ったのよ。」

「血はどのくらい出たの?」

「そんなに、靴に少しついたくらい。今はもっと血みどろかも。」

「何色のハイヒール?」

「黄色よ。」僕は少女然とした小さなハイヒールを想像した。彼女自身がいくら大きくてもきっと想像は変わらなかった。

「そうだ、雨だしさ、インソールでも交換しない?」と突拍子無いことを思い付きで言った。僕には彼女がとても弱くて今にも死んでしまいそうに思えて仕方がなかったから。

「いいよ、別に。」ぐっしょり濡れたインソールは取りづらくて嫌なにおいがした。

「ありがとうね」と彼女が言った。やつれた笑顔に真実味があり互い違いの足の感覚はまるで彼女の心そのものだった。

暗い顔をしたまま彼女は「それじゃあまた」と猫のように姿を消した。


僕は家に帰るとインソールを抜き取って小さな足を想いながら茫然と白い電気を見ていた。

いつまでも同じ靴を履けないように隣をずっと僕が歩めないことを考えてしまいふと涙が胸を上り目から零れ落ちた。

この夜は混ざり合う、僕の匂いの中から彼女の匂いだけを捕まえようとして暗闇に手を伸ばし探っていた。

次に会うときにどんな顔をすればいいかわからなかった。ただその心配も徒労に終わった、僕が彼女にあう次なんてもうどこにもこの人生の中にはなかったから。


それからの日々は死んだようにどんより曇りで、地に足のつかない感覚と床がすべて抜け落ちてしまったみたいに茫然自失としていた。やわらかさの違う足踏みが正しいそんな毎日ばかり。


僕がこれを書いているのはもし彼女がどこかで生きていたとしてこのノートを見た時、僕と同じようにめちゃくちゃになってほしいからでこの片思いを知ってほしいから。でももし僕の死を知ったら悲しむと思うけど許して欲しい。どうか逃げ切って幸せになって。

彼女、いや、あなたの脳の中で僕が、あなたの中に帰れたら。それでいいんだ、僕はたくさんの思い出のあるあの場所でいなくなったあなたの後を追って、時間差ですが心中をします。でもあなたがこれを見ても死なないでください。この不幸な青春は僕のものですから。


僕は一人駅に立っている、どうしてだろう。理由なんてない、ただなんとなく、そんなはずはない、わかっているまだ名前も知らないんだぞ。僕はいつからか彼女に会うために駅に来ていた。そのせいか、持ってくる本だって新品から古本になり、どちらかと言えばエンタメよりから文学よりになった。今も僕は誰もいない駅で君を待っている。待っているばかりで家も知らない。だから片思いなんだ。

ずっと一緒にいたいなら伝えないと一緒にはいられない。電車から降りてくる青春そのものは人のことになんて目もくれず僕をみて「アイツいつも一人でいるくね」と言う。笑われてしまう。

待っているばかりでは何も変わらないんだ。待っているばかりでは、僕は今日、明日を変えるために駅にきた。

本は持って来ていない。こんなのはいけないんだ。眩しすぎるのがいけないんだ。嫉妬だ。こんな、こんなはずじゃないのに。青春は声を上げてその場に次々と崩れ落ちる。

無人駅、止める人なんて誰もいない。右手は行き場を失った怒りで真っ赤に燃えている。

ああ、どうしてこんな人間に育ってしまったのだろう。女ばっかり突き刺したのはこの汚れ切った、もう戻らないならいっそぶち壊しにしてしまいたい、といった心のせいだし。もう戻れないこれから僕はどうなるんだろう。こんなところにいてもこんなことをしても結局何も変わらなかった。変わったのは僕が怪我をさせた人たちだけ、こんなことになるなら。こんな気持ちになるならやっぱり何もしなければよかった。彼女なんてもういない、最初からいなかったのかもしれない。すべて、これまでの人生全部が妄想だった気さえする。このノートが見つかった時本気にする人がいるかもしれないから言っておく。

僕は人を殺した。自分すら殺してしまうかもしれない。

だから読んでいる人がいるのならあなただけはどうかもうおそいかもしれないけれど幸せになれなんて残酷なことは言わない。ほどほどでいい、何か一つ目の前が見えなくなるくらいのめり込めることを見つけてほしい。どうか、できれば古い時代から人に愛されている物を、新しいものはどんどんスピードを上げて新しくなるから。なんであれ好きになるのは生きる事よりも大切なことだから。死ぬことなんてすぐにでもできるんだから人生投げ出せるくらい好きな事を。

僕は彼女がいない生きがいのない世界はいらない。だからさよならも言わない。いつもの駅で君を待てるように。

なんて、人殺しのくせに説教じみたことを書いた。この家には僕一人、もうここがどこかもわからない血だらけで無我夢中、山をいくつ超えたかもわからない。もう自宅にもいろんな理由で戻れない。おいてきたものだってたくさんある。そのどれもが僕を追い立ててくる。そんなところ戻りたくもない。

だけど最後はあの駅が知る限り初めて血に染まったように、僕も。

今思えばあれは僕自身だったのかもしれない。

そんなわけはない。だってあれはスーツもきていたし、仕事をしている人間だった。あんな風に僕がなれたとは思えないから。

また、もう駅に戻らないといけない、本当にこれで終わりだ。だから最後に一つ。


願うことなら、もう一度生まれ変われるのならあなたの子供になりたい。今度会えたら名前を知りたいな。

さようなら。兄弟ができたみたいで楽しかった。だいすきだったよ。


最後と言ったが僕は目を覚ました。最初にことわっておくとこれはノートに吐き出した言葉、思考ではない。頭の中をあなたたちは覗き見ているのだ。目を覚ましはしたのだが暗く、狭い。声も出ないし、赤ぼんやりと暗闇が時々光るばかり。海の匂いが濃く、鼻孔をゆらす。

頭が一つもはっきりとはしなかったが、はっきりしていることは僕は赤子としてお腹の中にいるということ。

へその緒から流れてくる栄養は点滴のそれではない、太いからか喉をとおるときの、生卵をそのままのみこんだような嫌な感覚がある。

どこからどこまでが僕なのかわからない。感覚なんてこれだけだった。

頭であれこれ考えられるということはそろそろ生まれるのだろう。僕は赤子心に楽しみだった。あの子の子供になれていたら嬉しいな。そんなことさえ浮かれて考えた。


体を押し出される痛み、生まれるってこんなに痛いんだと思った。外は思っていたより暗く、冷たかった。目が開いていないせいだった。

オルゴール調の音楽ばっかりがまだあやふやな耳に入る、また生まれてきてしまった。産声を上げてやる物かと高を固結びしていたが、プールで息継ぎをしないと苦しいのと同じようにみっともなく上げた。上げ続けた。すべての赤子がそうするように僕も泣きつかれて眠ってしまった。


泣き声で目を覚ました。母の、いや、夢だと思った。僕はあの子、あろうことか彼女から生まれてしまったのだ。

僕の新しい名前は清美で女の子らしく可愛らしい名前。彼女の名前ははるか、もっと可愛らしい名前に僕には見えた。名前はリストバンドに書いてあった。

美味しそうなチーズケーキのかわりに僕は粉ミルクばかり飲んだはるかは早すぎる妊娠、出産のせいか、はたまたべつの理由からか母乳を僕に与えようとしなかった。


耳は僕に投げかけられる母の言葉を言葉として認識せずに犬猫の鳴き声とかわらない音として受け取った。

頭もやっとはっきりしたころ、はるかの父とも僕の父ともとれるような人が見舞いに来た。嘘つきとは赤ちゃんなので言えなかった。

如何にも冴えのない父親、趣味もない、何のために働いているのと訊かれれば家族のためと答えるしかないような冴えの無さだ。あのことを知らなけば年のせいか少し立派に見えたかもしれない。つまり結論、僕は性暴力で生まれた子供なのだ。だから僕の顔を見て母は嫌な顔をするし、夜泣きだって僕よりもする。つまり母はまだまだ子供なのだ。


僕の父は何も言わないではるかを見ていた。触ろうともしなかった。泣くことも、その目は虚ろに光り徘徊するぼけ老人のものと差はないように思えた。


日に日に母も僕もやつれて行った。母は、自傷により病棟を産婦人科から精神科へと移されて離れ離れになった。なぜかおじいさんの古時計を思い出した。オルゴール調のものがずっと流れていたせいだ。

父は僕を抱いてドラッグストアに立ち寄った、パンパンになっていくビニール袋は夢も未来も奪われた少女の恨みによって膨らんでいるようだった。

初めて入る彼女の家には背の高い本棚とやたらに広いベットがあった。と言うか目に入って印象的だったのがこの2つだった。シワとシミだらけのベットを見ると僕のルーツを見た気がした。

父は僕に言った。

「お前のせいで娘はおかしくなったんだ。」自分に言い聞かせているように聞こえた。目には涙が浮かんでいた。

僕がつられて泣きだすと「お前はこれから一人で生きていくんだ。だれもきてくれないし、独りぼっちだ。可哀そうだけど。もう俺は疲れたよ。」机の上にはたくさんの錠剤がばらまくように置かれていた。

それ男すべて父は飲み干すと痙攣をして色の悪い嘔吐をして、何度かまた痙攣した後動かなくなった。


カラスが死肉を食べに来たのか網戸をしきりに1日中ついばんでは帰っていく。

そんな日が2日たったころ努力も身を結びカラスはうちに入って父の肉を食べた。僕にはカラスたちが天の使いの様に見えて、目の前の肉に手を付けた。食い散らかしてくれたおかげで赤子の僕でも食べることができた。


母はマタニティブルーも終わったのか何も知らず歌なんか歌いながら玄関のドアを開けた。歌っていたのはルージュの伝言だった。

叫び声をあげても静かな部屋に吸い込まれて返事もなしに消えるばかり。母が僕を見る目には化け物を見るような殺意があった。だけど僕は赤子、そんなこと知らないみたいに大好きな母の手を握って笑った。

だけど母、はるかは笑い返しもせず、座り込んで無表情のまま天井を見つめていた。


僕らを何もせず見つめ続けた日差しは雲に隠れて薄い影を落とすばかり。

「清ちゃん、せっかく生まれてきてくれたのにこんなママでごめんね。」はるかはポケットからおもむろにカッターナイフを取り出すと思い立ったように風呂の水をためた。

溜まりきって日も雲から出てきた頃、フラフラとした足取りで僕を抱き上げると泣きながら脱衣所で僕を抱きしめて蹲った。

子どもらしく立ち上がるとボール遊びでもするみたいに抱えられて湯船の中に投げ落とされた。


わたしはもっと生きたかったのに、僕は大好きなはるかに暖かいお湯に沈められて。僕の意思とは関係なしにバタバタもがいて沈んだ後プカリ浮かんだ。


湯の中から見た彼女の顔は青白く死人によく似ていた。頭の中ではあのオルゴールの音が今も鳴り響いている。

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胎盤の青 ご飯のにこごり @konitiiha0

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