◆青蓮の娘 3

 〈海の宮ワシュ・ニリ〉は、くりやのみを共通とし、寝室、居室、応接の間が、用途ごとにそれぞれ独立した棟になる、ワシュクの伝統的家屋にならった造りの宮殿だ。

 その区画は大きく分けて五つ。

 高く天をつく門を入ってすぐ脇にある〈厨舎〉。

 宮の中心である中庭から見て、前庭と、代々の王が政をとり行ってきた四阿あずまやの群である〈政の宮〉は、海側に位置する。

 王に霊力を与える者たちを住まわせ、祭儀を行う寺廟が置かれる〈祈の宮〉は、聖なる方位である山側に。

 世継ぎである第一王子ジャヤンプキタの執務の間と、将来その妃や子らが暮らすための建物群がある〈剣盾の宮〉は、西に。

 ジャヤンバマン王が寝起きし、彼の妃や娘、十二歳以下の息子たちが共に暮らすのは、東の〈正花の宮〉だ。

 王の私的な生活空間に含まれる後宮〈花庭ワラン〉は、〈正花の宮〉の一画にある。濃いみどりが影を落とす中庭を抜けた先、入り口を衝立のような魔よけの壁に目隠しされて建つそこは、文字通り風にゆれる花木に埋もれた、ごく短い階段つきの四阿あずまや風建物の集まりだった。

 後宮とはいっても、ラワジ教徒たちの国のものとは違って、〈花庭ワラン〉の規則はゆるやかだ。壁のある寝室の中にまで踏み込みさえしなければ、女官たちの立ち合いのもとでという制約こそつけ、男性の面会も自由だ。

「いやここは相変わらずの華やかさで、実に眼福でございますね」

 通された応接用の建物で、うつくしい細工の紫檀椅子に座り庭を眺める間、ムルシュナがきょろきょろと女官たちを目で追い、感想をのべた。

「うるさいぞ、ムルシュナ。ふむ、母上がご存命のころと変わりないようだ」

 人こそ入れ替わってはいたが、つややかに光をうつす調度ひとつとっても、この場所が日々磨かれ、丁寧に扱われてきたことがよくわかる。ジャヤンプキタは、〈バダムン〉出の寵姫であった母が亡くなる前、まだよく訪れていたころを思い出し、懐かしい記憶にしばしの間浸った。

 しゃらり、と連ねたちいさな鈴の音がして、人が上ってきた気配がした。次いで、身にまとう更紗に焚きしめたものだろうか、流れてきたやわらかな香りが鼻をくすぐる。

〈宝珠〉のククルカヤチャガン・ククルカヤ、ご挨拶にあがりました」

 ジャヤンプキタは、落ち着いた声にふり向き、額ずく女に拝面を許す。

 重たげに髷を結った頭がゆれ、ゆっくりと上がってゆく。そうして現れたうつくしいかおは――。

(青蓮の娘!)

 ジャヤンプキタは目をみはった。

 輿入れの化粧にならったのだろうか、魔よけの赤い縁取りを目尻にほどこした顔は、泉のかたわらで舞っていた娘のものとうり二つだ。

 だが。

「殿下御自らわざわざのお運び、ありがたくももったいなく。わたくしからお伺いすべきところをこのような形になりましたこと、どうかお赦しくださいませ」

 すらすらと挨拶の口上をのべる寵姫の顔には、あの日目を奪われた、口づけたくなるようなほほ笑みはない。

(なぜだ。固くなっているようにも見えないが)

 むしろ、泉の水のような冷たくなめらかなうつくしさを感じる。

 別人だろうか、と王子は内心首をかしげ、すぐにその考えを打ち消した。遠目にながめただけとはいえ、このちいさな島国で同じ顔がそうそうあるとも思えない。あるいは姉妹か、本人であるならなにか事情があるのか――それはわからないが。

 フ、と口角をあげる。

(舞を見れば、わかることだな)

 神舞クルシュニカが描き出す夢幻には、舞手の癖が表れる。たとえ同じ一人の師に習った舞を、技量的に全く差のない二人が舞ったとしても、おのおのに違いが出て同じになることはない。だから、ククルカヤが青蓮の娘であれば、あの日見たのと同じ夢幻が見られるはずなのだ。

「挨拶ご苦労。こちらこそ急な訪れで騒がせた。寵姫として、これから父上によく仕えてくれ、〈宝珠〉のククルカヤチャガン・ククルカヤよ」

 ククルカヤへ儀礼的に言葉を投げれば、「おおせのままに」と伏し目がちに答えがある。ジャヤンプキタは、それへ鷹揚にうなずき返し、ところで、と話を切り替えた。

「そなたは神舞クルシュニカの舞手だそうだが」

「はい」

「〈宝珠チャガン〉のかんむりはどこから?」

「蓮の舞より。女神が宝珠チャガンを持ち、現れますので」

「ほう、それは、うつくしかろう。さぞかし見事だろうな」

「……おそれいります」

 舞姫が慇懃に頭を下げる。

 ジャヤンプキタは、一筋の乱れもなく結い上げられた髷をながめながら、さりげなく告げた。

「そなたに舞を所望したい。我が目に〈風鳥恋舞ウグン・ケラク〉を」

 つと、ククルカヤの首が持ち上がって、ゆれて傾いた。

「この場で、でございますか」と。

 わずかに考えるような間を置き、続きがある。

「なんの準備もいたしておりませんので」

 ジャヤンプキタは眉間にしわを寄せた。

(なぜ拒む?)

「ただ今より準備をせよ、と命じればどうだ?」

「長くかかりますゆえに」

「なら、別の日なら舞えるのか」

「さあ、それは……その日によりますとしか、今は――」

 ククルカヤは、どこまでもはぐらかすつもりであるらしい。

(この、女……)

 ジャヤンプキタは胸中でうなった。王子が直に乞うているのであっても、応える気がないとは。

 飼ってやろうと伸ばした手を猫にかかれた時に似た、思いがけない腹立たしさがこみあげてくる。

「つまりは俺の前では舞えぬというのだな」

「王の、お許しがなければ」

 向けられたのは、ただうつくしいばかりの動かぬ表情かお

「……お察しくださいませ」

 うつくしいが、冷たさとかたくなさを感じさせる拒絶の顔だ。

 知らず知らずのうちに口を曲げてでもいたのだろうか。

「王子、仮にも〈花庭ワラン〉の方でございますよ」

 ムルシュナが脇から思い出させるように口をはさんだ。視線を巡らせれば、侍女たちが固唾をのむようにしてこちらを見ている。

「わかっている」

 ククルカヤが王の寵姫であるかぎり、これ以上無理を強いるわけにはいかないのだ。ジャヤンプキタは、のど元まで這い上がり出かかった腹立ちを噛み潰し、ねじ伏せる。

(だが、かならず確かめてみせる。かならず、だ)

 王子は半ば誓いのように心の中でつぶやき、立ち上がる。

「今日のところは引きさがろう。また来る」

 そう言い置いて。

 いずれもが花のような侍女たちが見送る中、不機嫌さを誇示するように、ことさらゆっくりと〈花庭ワラン〉を去ったのだった。


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青のククルカヤ 若生竜夜 @kusfune

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