◆青蓮の娘 2

 数日後のことだ。

「王子、どうかなさったのですか? ジャヤンプキタ王子?」

 ジャヤンプキタは、ムルシュナの声で現実に引き戻された。

 座した椅子の脇に護衛の者たちと共に並ぶ側仕えの男が、けげんそうにこちらを見ている。先日の処理に上がってきた報告を執務の間で聞くうち、いつのまにかぼんやりとしてしまっていたらしい。

 まるで魔女ザウラにでも魅入られたかのようだ。ここ数日、ともすれば、まなうらよりしなだれかかってくる青い蓮の幻に、心を持っていかれる。

「なんでもない。すこし疲れた」

 軽い疲労をほぐすように、こめかみをもんで、誘惑を払いのける。

「一息お入れになりますか?」

「そうだな」

 並んでいた配下の者たちを下がらせると、すぐに飲み物ときれいに切り分けられた芒果マンガが運ばれてきた。

「〈花庭ワラン〉がざわついているようだが」

 ジャヤンプキタは、汁けたっぷりの果肉をつまみつつ、尋ねるともなく今朝から気になっていたことを口にした。

 いつもは静かな〈海の宮ワシュ・ニリ〉の奥、〈花庭ワラン〉と呼ばれるあたりが、今日はそこはかとなくざわついている。

 正妻を四人まで持てるというラワジ教徒たちの国と違い、歓喜神ヤガーシャを主神とあがめるここワシュク王国は、一夫一妻制を取っている。ゆえに正式な妻は常に一人だ。平民であれ、貴種であれ、基本は変わらない。

 しかし、万に一つ正妃に子ができずに、王家の血が絶えてしまっては困るのも事実。このため、王に関してのみは、〈花庭ワラン〉と呼ばれる後宮に数人の愛妾――寵姫を住まわせることが、ならわしとなっている。

「はあ」と、側仕えのムルシュナが、いつもの気の抜けた顔でうなずいて、「新しい方が入られるせいですね」とのんきな調子で答えた。

「まだ十六と若いのに、名のある神舞クルシュニカの舞手だそうですよ。王がお気に召して、後盾になられると聞いておりますが」

神舞クルシュニカの舞手?」

 王子は、果実を口に放り込みかけていた手を止め、オウム返した。思い浮かべたのは、青蓮の娘ともうひとつ、ワシュクの階級制度のことだ。

 大陸にある一部の国ほど厳しくはないが、島国であるワシュク王国にも、階級制度が存在する。

 王や貴族の階級である〈クジャ〉。神々への祭儀をつかさどる僧侶たちの〈バダムン〉。平民を指す〈ジャラトゥー〉。それらの外の、僧侶以外の神に繋がる特別な者たちとして、鍛冶師と舞手を含む神楽師の〈ビニ〉。

 正式な妃にはなれぬとはいえ、国母となることもある寵姫は、他国からの輿入れを除けば、おおかたが〈クジャ〉か〈バダムン〉の出だ。

 これらの垣根を踏み越えたからといって罰されることがない程度には、ワシュクの階級制度はゆるやかではあるのだが。それでも、多少の制約や忌避感らしきものが、存在してはいるのだ。

〈宝珠〉のククルカヤチャガン・ククルカヤ蓮の女神カジャ・スーサリにささげる花蓮舞はなばすまいの名手ですね」

 ムルシュナは、王子の驚きに気付かぬように、続ける。

「遠目にちらりと見ましたが、王がご無理を通されるだけあって、なかなかの……いや、私の好みとしてはもうすこし胸と腰が、こう……」

「うるさいぞ、ムルシュナ。おまえの好みなど聞いてない」

 両手でひょうたんのような豊満な形を描いてみせる側仕えに、冷ややかな一瞥を投げて黙らせる。

 女の美醜にうるさいムルシュナがこう言うからには、姿かたちは確かに秀でているのだろう。だが、それだけであの父が後盾になろうとまでするとは思えない。父王ジャヤンバマンは、「ただうつくしいだけなら、女神の像でも愛でておればすむ」と言ってのける気性の持ち主なのだ。そんな男が無理にもと望むとは、いったいどのような女なのか。それも、神舞クルシュニカの舞手であるのなら、

(どれほど見事に舞うのか)

 ――興味がないといえば、うそになる。

 ただの女であるはずがない。王の掌中に収まるうつくしい肌の下は、魔女ザウラか、それとも天女パルチャであるのか。

 どちらであっても面白そうだ。

 舞手ならば、いずれ祭儀や宴の折に姿を見られるだろうが、それまでじっと待ち続けるというのも性に合わない。

 ニヤリ、と王子は笑った。

(だったら、こちらから挨拶に出向いてやろう)

 世継ぎの王子がじきじきに足を運ぶとあれば、寵姫ごときに断れるはずはないのだ。

 ジャヤンプキタは立ち上がり、ムルシュナに供を命じた。


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