第2話 足利義政のプレミア松茸


 長享二年(1488)九月、山荘造営にはげむ義政の足元は大きく揺らいでいた。

 山城国一揆以降、頻発していた一揆が収まる気配を見せなかったのだ。


 暴徒と化していたのは、徳政令(借金帳消し令)を求める人々だけでなく、貧困にあえぐ人々、流民るみんや浪人も含まれていた。その裏では、悪党と呼ばれる戦闘のプロ集団の先導があったと言う。

 そして、その標的は当初、金融業を営む土倉、酒屋、寺院だったのだが、次第に幕府にも矛先が向けられる様になっていった。


 この危機に対し、将軍と幕府だけで鎮静を図るのは、もはや困難であった。

 義政も主体的に乗り出すと共に、鎮静のための資金捻出を余儀なくされたのである。



※ ※ ※ 



「よくぞ参られました。道中、難儀なされた事でしょう」 


 御所のすぐ北にある相国寺しょうこくじでのこと。

 同月、立阿弥りゅうあみは義政の使者として寺にやって来た。亀泉集証きせんしゅうしょうという名の僧に面会するためである。


 相国寺の中には、幕府の重要な記録を保管したり、明との外交文書作成に携わる組織がある。亀泉集証はその責任者である一方、義政と複数の禅院との間を取り持つ役も担っていた。


 応対した彼は、立阿弥に対して、慇懃にねぎらいの言葉を掛ける。

 東山山荘から相国寺へは、徒歩で一時間半もあれば余裕でたどり着ける距離なのだが、この時分には悩ましい問題が起きていた。

 一揆勢が大路のあちこちに出没し、往来する人々を監視していたため、使者として麗しい法衣をまとっていた立阿弥が、引っ掛からないはずなかったのだ。


 しかし、彼は持参してきた竹籠を差し出すと、笑みを浮かべて首を振る。


「ご心配には及びませぬ。これのおかげで無事通ることができました。どうぞお納めくださりませ」

「おお、これは太くて真っすぐな上物ばかり。当院の僧達も喜びましょう」

「はい。加えて、大御所様からの伝言がございます」

「本題はそれでございますな。うかがいましょう」


 立阿弥が差し出したのは、松茸が二十八本入った竹籠だった。

 寺々と連絡を取りたい場合、したためた書状を持たせて、使者を遣わすのが普通である。

 ただ、書状は一揆勢に見つかり、取り上げられる恐れがある。

 そこで、義政は松茸の贈答と見せかけて使者を遣わしていた。

 おおわれた布の下からでも、かぐわしくて強烈な匂いを放つ松茸ならば、見つかっても疑われる心配はないと言う訳だ。


 ただ、笑みを零していた亀泉集証の表情は、話を聞くにつれて少しずつ曇ってゆく。


「なるほど、実相院(左京区岩倉にある天台宗系の寺院)への御成を望んでおられる事はよく分かりました。しかし、合間に裏山に登ってみたいと言うのは、如何いかがなものにございましょう?」

「何か不都合でもございますか?」


「大御所様は、近ごろお加減がすぐれぬとうかがっております。登山の最中に転倒したり、体調が急変すれば一大事。受け入れる実相院としては、躊躇せざるを得ますまい」


「確かに大御所様は病に悩まされておられます。ただ、登山の目的は気晴らしと、裏山での松茸狩りにござる。滞在はわずかであり、側近たちも同行して見張りますので、ご安心くだされ」

 

 立阿弥は、落ち着いた声色ではっきりと返答する。

 その腹の据わった様に、亀泉集証は首を縦に振るしかなかった。

 立阿弥は義政の父義教よしのりの頃から仕え、長年交渉役を務めてきた者である。その実績に加え、義政の現状について熟知していた彼が言うのだから、疑う余地が無かったのだ。 

 ところが──



※ ※ ※ 



「お待ち下さりませ、これ程の人数とは聞いておりませぬ!」


 迎えた御成の当日のこと。

 義政の行列を出迎えた実相院の住職は、早々に義政へ食って掛かっていた。

 御成なら義政側近と警固の武士たちで充分なのに、さらにすその短い小袖姿の武士が十数人、金魚の糞の様に後から付いてきたのだ。


 しかし、義政は輿から降りて伸びをすると、何食わぬ顔で住職と向き合う。


「案ずるな。予定どおり一服した後、裏山へと登る。これらの者は山へ同行させるために連れて来たのだ。寺の中で滞在する訳ではない」

「しかし、籠を持った方が複数おられますぞ。まさか、裏山の松茸を全て獲るつもりにございますか⁉」

「そうだ。実相院の裏山は松茸が良く獲れると聞いておる。全て獲ってもまた生えて来るであろうから、何の問題もあるまい」


 前回記したとおり、当時の京都は松茸がよく獲れた。

 しかも、今回は義政自ら山に登って獲るため、当然、普通のものよりもプレミアが付く。

 彼の狙いは、金を掛けずにプレミア付き松茸を大量に入手し、それを贈答品として寺々に送り付けること。

 そして、寺々からの返礼品を金銭に替え、一揆鎮静の費用にあてることだったのだ。


 しかし、松茸の恩恵は実相院だってあずかりたいところ。

 住職は一時、唖然としていたが、再び義政に食って掛かる。


「お待ち下さりませ、当院としても松茸は秋の楽しみにございます。なにとぞ──」

「よし、そなた達は先に山へ向かえ! 裏山中をくまなく探して獲ってくるのだ!」


 義政の指示を受け、小袖姿の家臣達は、ぞろぞろと裏山へ歩を進めてゆく。

 さらに、義政自身も休息を終えると、側近達の助けを借りながら後を追っていった。


 それを、実相院の住職と僧たちは、ただ見送るしかなかった。

 実は、この時の義政は中風(脳卒中の後遺症のこと 麻痺や半身不随、言語障害など)に悩まされており、満足に体が動かせなかったと言う。


 そんな、いつ倒れてもおかしくない状況下にあっても、彼は御成を強行させた。

 何としても松茸を手に入れ、鎮静化のための費用を捻出する。そして、山荘造営を成し遂げてみせる。

 強い意思をみなぎらせ、懸命に歩を進める彼の姿を目の当たりにして、止めようとする者は誰一人いなかったのだ。


 結果、家臣や僧たちを多数動員して獲った松茸は、実に三百本に及んだと言う。

 義政は、それらをただちに相国寺へと送らせ、亀泉集証を通じて、各地の寺々に贈りつけたのだった。

 


※ ※ ※ 



「ほれ見よ、立阿弥! わしの思ったとおりなったであろう!」


 数日後、義政は呼び付けた立阿弥の前で、喜びの声を上げていた。

 松茸を使った錬金術は見事に当たり、相国寺には返礼品が殺到していた。亀泉集証はその手続きに追われていると、報せがあったのだ。

 

 ちなみに、当時の松茸の相場は一本当たり約四百円~六百円ほどで、今と比べると恐ろしく安い。

 三百本獲れたとしても、約十二万~十八万円ほど。これに義政のプレミアが付いたとしても、一機鎮静のための軍事費には到底足りないと思われるのだが、急務である事を考慮すれば、無いよりはマシだったのだろう。

 

 それよりも問題だったのは、 その場でしばらくの間続いた義政の独演会であった。最初は愛想良くして聞いていたものの、自画自賛を繰り返す彼に、立阿弥の笑みは次第に強張ってゆく。


「確かにお見事にございました。されど、松茸狩りは今回限りにして下さいませ。突然の激しい運動はお体に障りまする」

「ああ? たわけた事を申すな。こんな美味しい手口を捨てる道理がどこにある。 わしは一揆鎮静と山荘造りのためなら、何だってやってやるぞ」


「幕府内の方々は、大御所様を頼りになさっておられます。それに、万が一、お倒れになられたら、一揆を活気づかせる事になるかもしれませぬ。なにとぞご自重を──」

「おお、今日は庭の普請が行われる日であったな! これ、すぐに視察に向かうぞ、支度を整えておけ!」

「大御所様!」


 立阿弥の忠告など馬耳東風、義政はそう側近に下知すると、スタスタと上座から立ち去ってゆく。

 しかし、その足取りは廊下に出た途端、急に止まってしまうのだった。


「いたたたた、む、胸が……!」

「ほら、ですから、急に動かれるのは危険と申し上げたのです! これ、誰か、医師を呼んで参れ!」


 義政は晩年、中風に悩まされた上に、気鬱が加わって加わっていった。

 さらに、一人息子である将軍義尚に延徳元年(1489)に先立たれてしまい、その衝撃から中風が悪化。左半身不随になってしまったと言う。


 ただ、こんな混沌とした状況の中でも、多額の資金と人手を投入した山荘造営は進み、やがて創建の日を迎えた。

 訪れた人々は、華麗な中にも静寂を漂わせた御殿や庭園に感嘆の声をあげる。

 亀泉集証も創建前に招かれて見て回っていて、「実に西方浄土というべきなり」と称賛した事を記録していた。

 

 ところが、多くの人々を振り回した罰が当たったのか、肝心の義政が創建の場に立ち会うことはなかった。

 延徳二年(1490)一月、観音堂(銀閣)建設の最中、彼は五十五歳にして、すでに亡くなってしまっていたのである。


(了) 


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足利義政のプレミア松茸 浜村心(はまむらしん) @noutore

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