第8話 ニシキヘビのショー

 「いいかいアラン。兄さんは明日から戦争へ行く。死ぬかもしれないし、そうでないかもしれない。

 

 どちらにせよしばらくは、お前はこの国にたった一人の王族になるんだ。アラン。兄さんの目をちゃんと見ろ…そうだ。いいかい、アラン。兄さんはどこにいたって、お前の味方なんだ。

 

 そう、いつもお前に言っているね?兄さんとお前は、二人ぼっちで、ずっと一緒に漂流してるんだって。それは離れ離れになっても、少しも変わらないことなんだ」


 兄さんは私の手を握る。私は兄さんの立派な軍服姿に見惚れてしまう。王を示す星のバッジが胸下に光り、窓の外から、群衆の歓声が聞こえて来る。彼らは王の出陣を見届けようと待っているのだ。

 

 兄さんは一度も振り返らずに去って行く。

 

 フィルムを巻き戻すようにして、もう何度も同じ場面を繰り返している。その場面だけ切り取って、大事に頭の奥にしまいこんである。露光しきって、見えなくなってしまわぬように。彩度が狂って、実際よりも美しくなりすぎてしまわぬように。


                *


 毎朝、岩礁のそばの小さな洞窟の中で目を覚ます。寄せては返す波の音が、夢の中でも、目を覚ましてからも、ずっと聞こえている。

 

 蟹の殻を積み上げて作った不安定な寝床からやっとの思いで起き上がると、地面に這いつくばって、床に溜まった水を舐める。

 

 それから洞窟の壁に、尖った貝殻の先で一本線を引く。それは20本目の線であった。私がこの島にたどり着いてから、早くも20日がすぎたのだ。その線は日を追うごとに弱々しく、短くなっていた。私の計算があっていれば、明日は31回目の、私の誕生日のはずだった。

 

 体のあちこちにはノミやシラミ、ダニが湧き、搔き壊した痕からは血が滲んだ。特に耐えられないのは股間のかゆみだった。あまりのかゆみに眠れないこともしばしばだった。頭の毛は抜け落ちるのに、顎髭だけが伸び続けていた。そこにもシラミや南京虫が湧いた。霞んだ目をこすると、黄土色のぬるっとした目やにが手にくっついた。

 

 胸の肋骨が浮き出して、掻くたびに骨を直に触っているようだった。腰に巻きついた布はボロ雑巾のように私の股間にへばりつき、黄ばんでシミが浮いていた。ひどく暑いはずなのに、いつまでも寒気が止まらなかった。


 水のような糞がたわんで疲れ切った肛門から流れ続け、口の中は粘っこいヘドロの味がした。体全体から生臭い、蟹汁の匂いが漂って、それは私という人間と、蟹という甲殻類生物の境界線をぼやかした。

 

 口にするのは蟹だけだった。だが一口に蟹と言っても、様々な種類の蟹がいた。私は砂浜と岩礁のあたりを這いつくばりながら、ひたすら蟹を採取し続けた。そして彼らを様々な角度から見たり、その特性を観察した後、石で叩き潰して食べた。


 頭の中に様々な姿の蟹の記憶だけが増え続けていった。中にはヤドカリやヤシガニなど、蟹と呼んでよいのかどうか定かではない生き物も多数含まれていた。つまりハサミのある甲殻類であれば何でもよかった。

 

 寄生虫に当たったことも何度かある。だが私は火を焚く術を知らなかった。何度か木をこすったり、ガラスの破片を使って太陽光を集めようと努力はしてみたが、何もうまくいかなかった。それでも生の魚や、不気味な色の実を食べるよりは安全だった。

 

 1日30匹は蟹を食べた。もう美味しいともなんとも思わなくなった。ただ生きるために食べていた。私はこの砂浜の蟹を食べつくしてしまわないか心配だったが、ここは蟹の楽園だった。次から次へと蟹が湧いてきた。見つからない時は、木の棒で穴を突っつくと、怒り狂った蟹が力強く棒をひっつかんで飛び出してくる。あまりに大きなものは、指を切られるのが怖いので諦めた。

 

 そういう風に、ただ無心に蟹を探し続け、それを口にすることが、私の日々の仕事となった。それは考えても仕方がないことを考えるという私の悪癖を、いくらか和らげるのに役立った。 

 

 毎晩眠りにつく前に、洞窟の奥の、木の枝をクロスさせてこしらえた十字架に向かって祈りを唱えた。私は朝には、どうか今日も蟹が見つかりますように、と唱え、夜、眠る前には、どうか眠ったまま楽にしてくださいと唱えた。神様はさぞかし混乱したであろう。だから私は、哀れな身の上に免じて、どうか矛盾だらけの私を許してください、と付け加えるのを忘れなかった。


               *


 翌日は朝からどしゃ降りだった。私はカビ臭い燕尾服にくるまりながら洞窟の中で震えていた。21本目の線を刻む力は湧いてこなかった。意識は朦朧として定まらず、私は夢と現実の間をいったりきたりしていた。

 

 天井から滴り落ちる雫のしと、しと、という音が、誰かのささやき声に聞こえて、私は恐ろしくなった。するとどこからか、歯のない人の笑い声のような、シュルシュルいう音が聞こえてきた。

 

 みると、大きな黒い蛇が、私のすぐ横を這っていた。彼は目を煌々と光らせて、私の周りをゆっくり這いずり回っていた。細い鼻息が私のすぐ耳元で聞こえたー蛇は私を飲み込めるのか、そうでないのか、静かに採寸しているのだった。私はあまりの恐怖に動けなくなった。

 

 私はいつか動物園で見た、ライオンとニシキヘビのショーを思い出した。


 全身筋肉のようなその蛇は、まだたてがみの生え切らないライオンの胴体に、ぐるぐる回りながら巻き付いてゆく。抵抗して牙をむき出しにするライオンを、恐ろしい力で一気に絞め殺すと、じわり、じわりと、味わうようにしながら、ゆっくりと、体の中に納めてゆく。けれども蛇は随分まずそうにライオンを食べた。それは晴れ渡った日曜日には似つかわしくない、不穏で静かなショーだった。

 

 泣き出す子供や、興奮のあまりガラスを叩き始める子供もいた。観客はひどく苦い顔で、一人、また一人と立ち去り始めた。皆、このショーの結果をどう受け止めていいかわからない、といった様子だった。きっとライオンが勝つと信じていたのだ。

 

 私は隣の動物園参与に向かって、いつも蛇が勝つのか、と尋ねた。彼は蛙みたいな顔をしていた。彼の首からは、蛙の死体を干して作った、不気味なネックレスがぶら下がっていた。

 

 動物園参与は、そうとも言えません、と答えた。ライオンが勝つ日もあるし、おあいこの日もあります。けれども、と彼は言葉を区切った。どちらでも同じことです。子供のライオンとニシキヘビは同じ値段ですから。

 

 参与がジョークを言ったのだと思い、私は笑った。けれども彼はニコリともしなかった。周囲の家臣たちが、少し遅れて、私に気遣ったような笑い声をあげた。

 

 ひょうたんのように変形した不恰好な蛇が見えた。蛇はひどく虚ろな目をしていた。後日、蛇が消化に失敗して死んだという話を聞いた。

        

                *


 不意に蛇のザラザラしたトグロが、私のふくらはぎに触れた。私はその冷たいとも、生暖かいとも思える温度に戦慄した。蛇は私の背中を這い出した。ゾワッと肌が粟立った。まるで人間を背負っているように重かった。あの時聞こえたはずのない、ライオンの骨の砕かれる音を、私は聞いたような気がした。


 私は蛇が、ゆっくり腹の下に侵入し始めたのを感じた。私の体を一周して、ぐるりと巻きつこうとしているのだった。私は失禁した。股間が熱く湿って、かゆみが一層激しくなった。

 

 もう耐えきれない。そう思った時、激しい雷鳴が轟いた。大地が引き裂かれるような、バリバリという音だった。蛇が驚いて、巻き付けていた体が一瞬のうちに解かれた。

 

 私は全身に力を込めて立ち上がると、蛇の尾を握り、なるたけ遠くに投げようとした。しかし思うようには行かず、蛇はすぐ足元に落下し、素早くこちらに向かってきた。私は甲高い雄叫びをあげて、床を這う蛇の顔を盲滅法に踏みつけた。しかしその強靭なゴムのような体は、私の攻撃をもろともしなかった。

 

 私はもう必死で、今度は蛇を掴んで頭上に掲げると、そのロープのような長い体を左右に引っ張って、真っ二つにちぎろうとした。怒り狂った蛇は手首に絡みつき、注射針のような細い牙をむいた。私は声にならない悲鳴をあげて暴れ狂い、蛇をやっとの事で払いのけると、入り口に向かって一目散に駆け出した。

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伊勢カニ転生 ほしがわらさん @kometaro

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