第7話 カニの葬列

 私は砂浜の隅に仰向けになって、巨大な星空を見上げた。まさに、神が夜空にばらまいた宝石だ。あの燦然たる輝きに比べれば、私がなくした王冠など!


 私はネロが船上で仲間たちと祝杯をあげているところを思い浮かべた。そうだ、ネロは祝福されるべき偉業を成し遂げたのだ。無能な王様をまんまと騙して追放し、社会の底辺から這い上がるという、すべての国民に勇気と希望を与える偉業を。誰にもできることじゃない、素晴らしいことだ。まさに後世に語り継がれる人間だ。


 君は想像もつかぬ辛酸をなめながら、踏みにじられて生きてきたのだろう。考えられぬほど汚い部屋の、涙も凍るような寒さの中で、何度眠れぬ夜を過ごしてきたのだろう。君はかつて海賊だった。奴隷のように働かされ、仲間が明日には裏切るかもしれないという、恐ろしい緊張感の中で、君は人間的に、強く進化していったのだ。誰にも負けない精神力を持って。



 その間、私は何をしていたか?何もだ、何もしていなかった!

 

 私はただ王冠をかぶり、王座に座って、演劇を見るようにして、会議を眺めていただけだ。そして回された文書に、ハンコを押していくだけだった。苦手なスピーチも、いつも弁士に代弁をお願いしていた。私は人の前に出ることを恐れていた。いや、正確には、人の前に出て、声が震え、それを見抜かれることを恐れていた。


  私は知っていたのだ。自分の本当の価値がどれくらいかを。運動はまるで駄目。勉強は中の下。芸術の才能もない。そして何より、私には民衆を惹きつけるだけの魅力がなかった。私にあるのは、この血統だけだった。

 

 それでも皮肉なことに、私は生まれながらにして、国民の頂点だったのだ。

 

  私は成長するにつれ、家臣たちの目を恐れるようになった。彼らが私を無能な王様だと、見下しているのに気づき始めたのだ。彼らが私にひざま付けばひざまづくほど、私はますます見下されていく気持ちがした。私は彼らの目の奥に潜む声を聞くような思いがした。「この陛下は王兄殿下とは大違いだ。あの人が生きていてくださったら…」

 

 私は無意識のうちに自己防衛策に出た。家臣たちにできるだけ優しくした。そして自分を卑下するような、面白い冗談を言ったりした。家臣たちはたいてい上手に笑ってくれた。たとえそれがつまらない冗談だとしても腹を抱え、身をよじり、時にはやりすぎだと思うくらいに笑った。だがいつもボンドだけは古い大樹のように構えてピクリとも笑わなかった。ボンドは彼らの態度を「ご追従笑い」と呼んで軽蔑した。

 

 そんな風にして、私は気づけば兄とは正反対の王様になっていた。家臣にこびへつらい、自分を下げ続けたのだ。なぜそんなことをしたか。答えは簡単だ。私は特別になる方法を模索していたのだ。何もできない代わりに、「面白い王様」になろうとしていただけだった。けれども結局それも失敗に終わった。

 

 私はたちの悪い落ちこぼれだった。誰よりも低いところにいるくせに、誰よりも高位であることを示す王冠をかぶり続けてきたのだ。あの恐ろしい戴冠式のパレードの日以来、ずっと。

 

 けれども王冠さえ失った私は、ただの落ちこぼれになったのだ。そして今、こうして世界の果てに、ゴミのように横たわっている。

 

 私はこうなるのを待ち望んでいたような気さえした。涙は枯れ、立ち上がるのも面倒だった。私は瞼の力をゆっくり抜いていった。


                  *     


 その時、目の前で二匹の蟹がハサミを振りかざして戦い始めた。彼らはその図体に似つかわしくない、巨大な乳白色のハサミをボクサーのグローブのように体の前に携えて、しきりにぶつけ合っていた。片方の体は大きく、もう片方の倍ほどもある。

 

 私は音もなく戦う蟹を邪魔しないように、身を硬くしてじっと見つめた。彼らは月の光をハサミに受けて、泥臭く、そして黙々と静かに戦い続けた。がんばれ。がんばれよ。私は心の中で、小さな蟹の、奇跡の勝利を祈り始めた。

 

 小さな蟹の上に大きな蟹が馬乗りになった。あっ。やられる。と思った瞬間、小さな方が突然ハサミを脱ぎ捨てて、海に向かって猛スピードで逃げ出した。残された大きな方は、戦利品であるらしい穴の中に、素早く潜って姿を消した。

 

 遠ざかって行く蟹を見つめるうち、私の中に、激しい空腹感が蘇ってきた。

 

 私は蟹を追いかけてよたよたと走り出した。蟹は砂浜の上をあっちへ行ったりこっちへ来たりしながら全速力で駆けてゆく。一瞬、穴の中に逃げ込んだと思ったが、すぐに飛び出してきた。家主の蟹が追い払ったらしかった。

 

 突然蟹はターンして、私の足元を潜り抜けようとした。私は機を逃さずかがみこむと、その細い足をひょいっとつまみ上げた。私はその真っ黒な目玉を見据えて、こう告げた。


「お前は弱い。この先生きていたって仕方がない。食べてやるのが情けというもの」


  だが蟹はこの後に及んで手足をバタバタさせて抵抗した。私は目玉をひんむいて、蟹の耳(と思わしき部分)に向かってこう叫んだ。


「潔く死なないか、弱虫の、負け犬の、ろくでなしの、グズめが!」

 

 蟹は残された方の、それはそれはちっぽけな、玩具のお人形みたいな柔らかい、出来損ないのハサミで、私の指をぎこちなく、それでも懸命に挟むのだった。


「それでも本気か?ちいとも痛くないぞ!」


 私は蟹を持つ手を離してみた。蟹は落ちそうになりながら、私の小指に、必死にぶら下がっていた。私は蟹を見据えた。蟹は点のような瞳で私を勇ましく見つめ返していた。


 「いいぞ、気に入った」私は蟹を優しく両手で包み込んだ。「お前はどこぞの間抜けな国王陛下とは違うのだ。お前にこそ、このダイヤがふさわしい」

 

 私はそのまま先ほど猿にやられたところまで戻っていって、落ちているダイヤと紐を拾い上げると、それを蟹の甲羅に固く括り付けた。それがちょっとやそっとのことでは緩みそうにないのを確認すると、ようやく蟹を放してやった。


 蟹はダイヤの重みによろめきながら、そそくさと海に向かって逃げていった。私は海に向かって万歳すると、「国王陛下、万歳」と叫んだ。蟹が見えなくなってしまっても、何度も何度も、飽きるまでそれを繰り返した。


  それは葬送の儀式だった。死んだのは、国王だった私である。彼は今、蟹の背に乗って、大海原に帰ったのだ。さようなら。さようなら。小さな蟹があとを追うようにして海へ向かって横歩きしていく。星々に照らされて、蟹の葬列はどこまでも続いた。

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