第6話 王冠泥棒
「国王陛下、万歳!」
王宮の円形広場の中を、祝祭用の晴れやかな軍服に身を包んだ兵隊たちが練り歩いてゆく。吹奏楽の一団が、「王の行進」を青空に向かって力強く奏でている。先ほど戴冠式を終えたばかりの私が白馬に乗って広場に現れると、民衆たちは国旗を振り乱して歓喜する。そう、あれはおよそ17年前のことだ。
「国王陛下、万歳!」
群衆の斉唱が、巨大な広場を埋め尽くす。私は頭上に輝く王冠の重みを心地よく受け止める。私は国民全員の貴重品なのだ。私の代わりはどこにもいない。他の誰とも似ていない、他に例えるものもいない!生きている限り、いや死んだ後まで、私の神聖さは続いてゆく。
その時だった。突然黒い人影が目の前に躍り出たかと思うと、次の瞬間、頭がすっと軽くなった。一瞬、何が起きたのかわからなかった。頭上に手を伸ばすと、王冠が消えていた。私は慌てて、手綱を振り乱しながら半狂乱で叫んだ。
「止まれ!止まらないか!」
だが私の頼りない声は、熱狂的な音楽のうねりにかき消されてしまう。
動揺を必死に抑えながら、冷静を装って必死に周囲を見渡した。
その時私は観衆達の視線が、自分から逸れて、別の場所へ注がれているのに気がついた。パレードの外側、広場の中央で、一人胸を張って行進する、一人の少年へと。
***
少年は浅黒い肌をして、短く切り揃えた金髪をなびかせていた。猫のような切れ長の瞳が、太陽にギラギラと輝いた。ちぎれて薄汚れた赤いカーテンをマントのように纏い、頭には私の王冠を載せていた。口を真一文字に結んで、堂々と一人で行進していく。
「泥棒だ!」私はブーツの先で馬の腹を力任せにどんどん叩いた。「王冠泥棒だ!」
しかし私の声は観衆の声にかき消される。
「国王陛下、万歳!」
私は耳を疑った。馬に乗っているのは私なのに、本物の絹のマントに身を包んでいるのは私なのに、パレードの中央にいるのは私なのに、王の血を引くのは私なのに。それなのに、それなのにー
観衆は一人残らず、私には目もくれず、あのみすぼらしい泥棒に向かって、あろうことか万歳斉唱を叫んでいる!
突然少年がパッと瞳を見開くと、私の方を見て、にっこり笑った。それから私に向かって、こう叫んだ。
「ぼんやり陛下、ばんざーい!」
馬が猛り狂って、私を地面にふるい落す。私の体はすんでのところでボンドに拾われる。あと数秒遅かったら、私はむき出しの頭を床に打ち付けて、馬の蹄に蹴り飛ばされ、骨を砕かれていたに違いない。
間も無く少年は兵士に取り押さえられ、どこかへ連行されて行った。手元に戻ってきた王冠には、うっすら泥が付いていた。
少年は貧民街の出身で、名前をネロと名乗った。少年は王室侮辱罪でむち打ち50回の刑を受けたが、その間、ずっと笑っていたというー
私は彼に得体の知れぬ恐怖を感じた。
それはこの世には自分よりもずっと特別な人間がいるのではないかという、どこか漠然とした、靄のような恐怖だった。
***
目覚めると、私は砂浜の上だった。手の上を小さな蟹が我が物顔で通り過ぎていく。無数の流木や、無数の魚の死骸、難破船の残骸のようなものが周りを取り囲んでいた。どうやらぼんやり陛下は、海の底へ沈み損ねて、漂流物と一緒に、押し流されてきたものらしい。
顔を上げて全景を見ようとしたが、ずれた王冠が視界を塞いだ。燕尾服はぐっしょりと水を吸って、重しのようにのし掛かっていた。私は残された力を振り絞り、緩んだロープから手首を抜いた。擦れてできた傷口に、海水がヒリヒリと染み込んだ。
あたりを見渡す気力も無いまま、数メートル先の木の根元まで体を引きずるようにして歩いて行った。肌に直接木の皮が触れるのは嫌だったので、燕尾服を脱いでクッションにすると、寄りかかるようにしてそこへ座った。もう一歩も動けなかった。私は王冠の位置を直し、海を見つめた。
海は黄金色に染まっていた。波が近くの岩礁を洗う音が聞こえ、カモメが呼び合う声が聞こえた。塩で固まった髪の毛を、海風がそよそよとなびかせた。
世界はあまりにも平和だった。私はまだ自分がバカンスの最中で、間も無く船が私を迎えに来るのではないかという、幸福な錯覚に陥ったほどだった。
不意に頭上の王冠が転がり落ちて、私を現実に引き戻した。王冠には昆布や海藻がまとわりついていた。私は一枚一枚剥がしてゆきながら、王冠の無事を時間をかけて確かめた。
王冠には傷一つ付いていなかった。私は王冠を見つめて呟いた。
「国王陛下、万歳」それからもう一度呟いてみた。「国王陛下、バンザ…」
最後まで言い切らないうちに、大粒の涙が溢れてきた。
私は王冠を抱きしめて、おいおい大声をあげて泣いた。涙は次から次へと溢れて、止まる様子はなかった。日がすっかり沈んで、一番星が輝き始めても、泣き続けた。
やがて泣くのにも疲れてしまった。先ほど捨てた昆布を拾ってしゃぶったが、かえって空腹感を強めただけだった。
何か食べるものはないかと、ようやく顔をあげ、慎重にあたりを見回した。白い砂浜ははるか遠くまで続いており、背後には島の内部を隠すようにして、灌木が分厚く生い茂っていた。おぼろげな月の光が照らすものはそれだけで、人の気配はみじんも感じられない。あとはどこまでも広がる海が、茫漠として横たわっているのみだ。
私はしばし呆然とした。少年の頃に読んだ漂流物語の主人公は皆、サバイバルの知識か、もしくはそれがなくとも並外れた勇気を持ち合わせていて、それを武器にして生き残って行くのだった。だが私はそのどちらにも当てはまらない。私にあるのは、この王冠だけなのだ。
その時、膝をくすぐるものがあった。私は小さく悲鳴をあげてそれを払った。よく見ると、なんのことはない、ただの小さな蟹だった。
蟹は驚いて、海に向かって駆け出した。私が蟹の前に手を置くと、カニはくるりと向きを変え、今度は森へ向かって進もうとした。私は蟹を閉じ込めるようにして、砂の上に冠をおいた。蟹は王冠の中で右往左往し始めた。
私は蟹の前に二本指を突き出して、指を歩かせると、「どけどけ、王様のお通りだ」と呟いた。そしてハサミを持ち上げて向かってくる蟹の声を代弁して、「国王陛下、万歳」と叫んだ。そうしていると、蟹が本当に、私に向かって万歳しているように見えてきて、嬉しくなった。私は目を閉じ、こちらに向かって一斉に万歳をする民衆達の姿を思い描いたー
突然、指先に鋭い痛みを感じた。蟹が私の指を挟んでいた。その痛みは、私を現実へ連れ戻した。
激しい憎悪と、悲しみが湧き上がってくる。
私は反射的に勢いよく蟹を振り払うと、その体を王冠で潰した。
「ちくしょう、ちくしょう!」
それは今まで一度も口にしたことのない言葉だった。私はどこかで家臣たちが見ているのを頭の中に想像して、そんなことを言ったのだった。家臣たちが見ていたら、汚い言葉を言う私を見て、きっと顔を歪めたたに違いない。私はそれで少し気持ちがよくなった。私はこんな無人島に漂着してもなお、どこか演技じみていたのだった。
蟹の甲羅は見た目よりもずっと脆く、あっという間に飛び散った。蟹はまだ小刻みに震えていた。彼は弱くて脆い生き物だった。狂おしいほどの哀れみが胸に巻き起こってきた。
早く楽にしてあげなくては。早くー
私は力を振り絞って、一思いに蟹を潰した。その拍子に、飛び散った蟹の中身が私の口に飛び込んだ。私はそれを無意識のうちにしゃぶった…そして奇しくも、それが生まれて初めて、私が蟹を口にした瞬間だった。
私はそれをしゃぶり、なめて、ごくんと、一思いに飲み込んだ。かすかな身が、食道を通り抜けて、ゆっくりと胃の中に落ちてゆく。
私の全身はしびれ、震えた。柔らかで繊細、それでいて爽やか!天上の舌触り、天にものぼる甘さ!あの硬い無骨な、一見とりつく島もない殻の中に、神はこんなに素晴らしいものを隠されていたのか!
私は潰れた蟹の身を、震える指で拾い上げては、無我夢中で口に運んだ。かけらまで残さずしゃぶり尽くした。蟹への哀れみはすっかり消えていた。
私は薄暗い夕闇に目を慣らしながら、じいっとあたりを見渡した。砂の上に点々とうごめく、無数の影がちらほら見えた。激しい食欲が、疲れた私を立ち上がらせた。
その時、すぐ後ろで、草がこすれあう音がした。はっとして振り返ると、大きな金色の塊が、ヒュンと風を切って私目がけて飛び込んできた。身をかがめる間も無く、それは軽々と頭上を飛び越えて、私のすぐ後ろに、砂を撒き散らしながら着地した。私は恐る恐る振り向いた…
大きな毛むくじゃらの猿が、海を背に仁王立ちしていた。長い両腕がだらりと気怠そうにぶら下がり、むきだされた牙がヌラヌラと光っている。だらんと垂れ下がった赤い舌は、貪欲な狼を思わせる。毛の間から、鋭い眼光がぎらぎらと輝く。
***
猿はこちらへ近づいてくる。私は恐怖のあまり逃げ出すこともできない。ただその場に崩れ落ち、頭を抱えて、ダンゴムシのように丸くなるのみだった。
砂を蹴る足音がして、鼻息がだんだん大きくなってくる。すえた糞尿の匂いが漂う。私はギュッと目をつむり、「どうか命だけは、命だけはお助けを」と呪文のように呟いた。
足音がすぐそばで止まった。そろりと顔を上げて様子を伺うと、猿の巨体が視界を埋め尽くしていた。次の瞬間、頭がふわっと軽くなった。私は驚きのあまり、後ろへ弾かれたようにとびのいた。
猿の手にぶら下がっている王冠を見て、私の息は止まりそうになった。
猿は王冠の、地球をあらわす球体部分の上に聳え立つ十字ーそれは神の命による世界統治を表しているのだがーその十字の部分に、汚らしい指を引っ掛けて、バナナの皮でも持つように持っている。私はふらふらと立ち上がると、猿の腕にすがりつこうと手を伸ばした。
「どうかそれだけはー」
猿は目をカッと見開くと、もう片方の毛むくじゃらの拳で、私を思い切り殴りつけた。それは私が生まれてはじめて経験する、他者から与えられた肉体の痛みであった。頬の痛みそれ自体よりも、他者に殴られたというその事実が、何より私を打ちのめした。血の味が、口いっぱいに広がった。
猿は唇をめくり上げ、ツバを四方八方に撒き散らしながら、王冠を抱えて一歩一歩私から離れて行き、とうとう森の奥へ姿を消してしまった。
後に残されたのは、王冠の正面を飾っていた、「王家の涙」との呼び名を持つ、親指大ほどのブリリアントカットのダイヤと、一本の首紐、それだけであった。
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