第5話 王様の記憶05
ボンドは私の肩を叩いた。彼の手はかすかに震えていた。
「さあ、お立ちください。大丈夫。私の後ろに。陛下には傷一つだってつきません。こんなこともあろうかと、実は警護の兵をたくさん連れてきてあるのです」
私はボンドの顔を見た。老いぼれた右の瞼がヒクヒクと痙攣を繰り返している。
「残念ですが、大臣。貴下が許可なく持ち込まれた兵士は、すでに私の側に寝返っております」
ネロの高らかな宣言に、ボンドはつり上がった瞳で甲板全体を見渡した。兵士たちは一人残らず私に向かって黒い穴ぼこのような銃口を向けていた。
しかしボンドはため息をついただけだった。すっかり疲れ切ったと言った様子だった。私は何をしていたかというと、震える手で、服についた猫の毛を数えていた。それは一本一本が、針のようにピンと尖っているのだった。
「彼らは自ら望んだのです。新しい時代の到来を。陛下、国が弱体化しつつあることを、お気づきになられませんでしたか。なられませんでしょうー
あなたはいつだって、毎朝決まった時間に、王座に座ることにしか興味を持たれない。だからご自分が議会に操り人形のように利用されていることにも、彼らがまんまと甘い汁を吸い続けていることにも、そのせいで国民が貧乏で苦しんでいることにも、一向にお気づきになられない。
いえ、お気づきになろうともしないのです。豚の幸福屠殺機だって?そんなものがなんだというのです。もっと考えるべきことがあるはずなのに」
29、30、31…私は分からなくなって、何度も初めからやり直さなければならなかった。猫の毛を数えるのは、いつもいつだって難しい。
「我々は悪しき王権制度をここで断ち切るため、無能かつノロマなアランドラ王を追放し、政権奪還することをここに宣言いたします」
ネロは机の上に何か光るものを置いた。それは猿の紋章が刻まれた、銀製のピンバッジだった。この国で知らぬものはない、革命軍のトレードマークだ。私はぶるっと身を震わせた。
「ネロ、君が、革命軍を…」私はその先を継ぐことができなかった。
もちろん間抜けな私だって、革命軍の存在くらいは知っていた。だがそれはいつまでも地下から抜け出せない、害にもならないドブネズミの決起集会のようなものだと、家臣たちからはそう聞かされていた。だがそれは甘い考えだった。もしくは私を騙すための嘘だった。
ネロが私の方へ歩みを進めた。ボンドが私の前に立ちはだかろうとしたその時、切り裂くような銃声がして、ボンドと私の間の床に小さな穴を開けた。
「動くでねえ。次は王様の頭をぶち抜くど」
見張り台の男は目を爛々と光らせて、私に狙いを定めていた。だがボンドは握りしめた短剣を捨てようとはしなかった。私は血走った目でボンドを睨みつけた。お前は短剣一本で何をしようというのか。
私が剣を捨てろと叫ぶ前に、屈強な水夫が後ろからボンドの体を抑え込んだ。床に引き倒されて両手を縛られる間も、ボンドの目玉は一人でも味方を探そうと右へ左へ彷徨っていた。しかし手遅れであった。ボンドの体は空き樽のように、ゴロンと床に転がされた。
ネロが王冠に手を伸ばした。私はその手首を払い退け、「頼む、やめてくれ、お願いだ」と悲鳴に近い声で懇願した。だがネロは私の手から強引に冠を分捕った。私はネロがもう、演技をやめたのだと悟った。
次の瞬間、私は誰かに後ろ手を掴まれ、硬いロープできつく縛られた。そしてそのまま舷から5メートルほど海へ突き出した、細い板の上を歩かされた。それは先ほどキッド船長が歩いていた細い船板だった。私は押されるままに前に進んだ。目隠しはされていなかった。
足元の海は、どこまでも深く、黒々としていた。一歩進むごとに、板はしなり、軋んだ音を立てた。私は早く落ちたいと願った。ようやく終点までたどり着くと、すぐ後ろでネロの声がした。
「悪く思わないでくださいませ、陛下」
私の心臓は驚きで跳ね上がった。彼の声は澄み渡っていて、まさに英雄のようだった。そして私はといえば、のろまな悪役のようにみっともなく震えていた。
突然私はゲップをした。それは私にどうとできるものでもなかった。背中越しに、ネロが感情を害したのが感じられた。ネロの劇場はまだ続いていた。彼が用意した完璧な演目を、私が台無しにしてしまったのだと思った。私は反射的に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
ネロは私の襟を強引に掴むと、くるりと後ろに振り向かせた。板が激しくしなった。落ちる寸前の私を、ネロがものすごい力で引き止めた。
ネロは私の無礼には一切触れずに、こう言った。
「陛下、約束いたします。私めが新たなリーダーとして、きっと国を立派に守ってみせましょう」
それから彼は私が落ちないようにバランスをとらせてから、襟を掴んでいた手をそっと離した。それから両手で王冠を私の頭上に優しく乗せた。絡まった王冠のヒモを丁寧に解きほぐしてまっすぐ伸ばすと、私の顎に固く括りつけはじめた。
されるがままになりながら、私は17年前の戴冠式の光景を思い出していた。あの時私に冠を被せたのは大主教であった。手に触れる、やわらかな絹の法衣の手触りをまだ覚えている。私はあの時まだ13歳であった。自分は神様に選ばれし人間なのだと、そう信じて疑わなかったあの頃ー
「さあ、どうです」ネロがきつく紐を結んだ。「これで海の底でも、魚の骨と、陛下の骨とを見分けられるでしょう」
私は反射的に「ありがとうございます」といった。すっかり頭が混乱していて、そんなことしか言えなかったのだ。
ネロは「とんでもない」と優しく返事をすると、慣れた足取りで来た道を引き返し、軽やかな身のこなしでさっと甲板に降り立った。
私は板の始点に、先ほどの給仕の少年が立っているのに気がついた。彼は私をじっと見つめて、誰にも聞こえないように、そっと口を動かした。彼は私にだけ伝わるように、声を出さずに、こう言っているのだった。
「国王陛下、万歳!」
その大きな瞳は、涙に濡れていた。私はハッとしたー
次の瞬間、彼は板を勢い良く外した。私の体はバネのようにあっけもなく弾かれて、海の底へ沈んでいった。
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