第4話 王様の記憶04

彼はよく知っているはずだった。私がこの冠を、片時も離さずに暮らしていることを。お風呂に入る時も、眠る時も、肌身離さず持っていることを。


「冗談でございますよ…」


 ネロは少し身をかがめて、私の瞳の奥を覗き込んで、唇をまっすぐ左右に引き伸ばして、にっこり笑って見せた。それはまるで、慈善事業みたいな微笑み方だった。安心しろ、君が恐れることは何もない。そういうような微笑みだった。だがそれは私を訳もなく不安にさせた。私は力なく笑いかえした。


***


「さあ、昼食にいたしましょう」


 ネロが空いたグラスを爪で弾いて鳴らすと、待機していた給仕が一斉に進み出てきて、私の前の円卓テーブルに、新しい皿を次々に並べ始めた。

 

 私はゆっくり起き上がった。太陽のまっすぐな光線が私の目を刺した。一気に酒が身体中に回ったようだった。


 「私はもう懲り懲りです」隣で椅子に座りながら、ボンドがブツブツ言うのが聞こえた。「帰ったらすぐ、こんな仕事はやめさせて頂きます」

 

 私は好きにするがいいさ、と答えた。今まで何回同じ言葉を聞かせられたことだろう。

 

 そうしている間にも、フォークやナプキン、グラスや花かざりが手際よく並べられていった。ネロがテーブルにつくと、料理長が中央に置かれた銀の蓋を開けた。中心に巨大な渡り蟹を乗せた、黄金のパエリアが現れた。

 

 ちらりと横を見ると、案の定ボンドが眉をひそめていた。王室のものが甲殻類を口にするのは良く無いこととされていた。食あたりするリスクが、他の食べ物に比べて高いという、馬鹿げた理由からだった。

 

 私は一生分の蟹を食べてやるつもりで、力強くスプーンを持った。


 「立派な蟹でございましょう。このあたりの海は、巨大蟹の宝庫と呼ばれておるのです。しかしこれほどの大きさのものは、なかなかお目にかかることができませんよ。さあ、存分に召し上がってください」


 ボンドがげほんと咳払いをした。構うもんか、と私はネロの差し出した小皿を受け取った。そこには金色に輝く米粒と、真っ赤に茹で上がった甲羅が乗っていた。私はそのすこし悲しげな、澄んだ瞳をじっと見つめるうちに、一つ、ネロに聞いてもらおうと考えていた話を思い出した。


「実はね、今、温めている計画があるんだ」


「なんでございましょう」ネロはせっせと蟹の中身を掻き出しながら言った。


「この前、とある屠殺場へ視察に行ったんだが。そこで、豚の屠殺を見た」


「なるほど」


「君は、豚がハンマーで殴りつけられる時、どれほど苦しむと思うかね?」


 ネロは空っぽになった鋏をゴミ箱に捨てると、答えた。「いいえ、陛下。それほどとは思いません。全ては数秒のうちに終わります」


「その通りだ。そこで、私はこういう風に思ったのだ」私はスプーンの柄で、宙を何度もつついた。「豚が一番苦しみを感じるのは、屠殺台までの途上ではないだろうか?」


「そう思います、陛下」ネロは神妙にうなづいた。「始まってしまえば、なんということはありません」


「それでね、私は思ったんだ。新しく、屠殺マシンなるものを作ってみてはどうだろう。その名も『幸福屠殺機』だ。見た目は大きな白い箱でね。

 

 その中に入った豚は、大きなベルトコンベアに乗って、ゆっくりと屠殺台まで運ばれてゆく。その道のりで、彼はいくつもの小さな部屋を通る。そこには、母豚の絵が飾られていたり、兄弟たちの楽しげな声が流れていたりするんだ。つまり人工的な走馬灯なんだね。

 

 そうして、幸福な子供時代の思い出に浸りながら、豚は機械の繰り出す、人間には真似できないくらいの、強い一撃で死ぬ。」


 私が言い終わるのを見計らって、ボンドが不愉快そうな咳払いをした。しかしネロはずいと身を乗り出し、


「確かにそれなら、殺す方も随分気が楽になります」と言った。


「そうだろう。今、蟹の瞳を見て思い出したんだがね。彼がこんな風にだーそう、こんな風に、世を呪う目じゃなくて、もっとこうー満足げにニコニコ笑っていてくれたら、食べるこちらもより、食事を楽しめるというものだからね。豚に関しても、全くそれと同じ論理だよ、君」


「陛下は変わっておりますな!」ネロは米粒を飛ばしながら豪快に笑った。

 

 私はすっかり満足して、「そんなことはないさ!なあ、ボンド」と言いながらボンドの肩を揉んだ。ボンドは答えずに、黙々とパエリアを食べていた。よく見るとそれは私の分だった。私は蟹を食べ損ねたことに、ひどくがっかりした。



***


続いて出てきた料理は、人食いザメのパスタ、海鳥のソテー、シマウマのフライであった。面白みのない宮廷料理にすっかり飽きた私にとっては、どれもが刺激的な味であった。


 それから我々は沈みゆく夕日を見つめながら食後のコーヒーを飲んだ。お供に出されたのは何かのフライであった。口に入れると、弾力があって、とても噛み切れる硬さでない。これは何であるかと尋ねると、ネロは革の鞄をちぎってあげたものでございます、と答えた。海賊ヘンリー・モーガンの船が座礁した時、これを食べて生き延びたという、伝統的な一品でございます。


 私はネロの見ていない時を見計らって、それをボンドが差し出した両手に向かって吐き出した。

 

 ネロが頭上の見張り台の男に向かって、「何か歌ってくれないか」と注文をした。男は「お安い御用だて」と答えると、頬にある三本線の傷を考え深げに撫でてから、酒をぐいっと飲み干して、得意げに歌い始めた。


 天使長、天使長

 聞こえていますか天使長

 もしも願いが叶うなら

 おいらの命を戻してください

 冥土をさまよい数十年

 おいらはすっかり疲れちまった


 天使長、天使長

 感謝してます天使長

 もひとつ願いが叶うなら

 おいらを王様にしてください

 金に女にダイヤに権力

 おいらは全部が欲しいんだ


 天使長、天使長

 ひどいもんです天使長

 もしも願いが叶うなら

 おいらを霊に戻してください

 王様になって腐っちまった

 今じゃ死んでいるような毎日だ


 ネロはその奇怪な歌を聞いてわははと笑った。私もつられて、わははと笑った。ボンドだけが怒りに震える声で、こう言った。


「あれは海賊の歌ではありませぬか」ボンドはネロを睨みつけた。「おたくの船には海賊が乗っているのですか?」


「海賊というのは、下手な役人よりもよく働くものでしてね」ネロは涼しい顔で答えた。「実を言うと、私も海賊出身なのですよ」


「ご冗談を」ボンドはつめたい笑みを浮かべた。


「冗談ではありません。」ネロはおしとやかに笑い返した。「私は自らの手で、この険しい道を切り開いてきたのです。血統や、お金や、人情に頼ることなく」


「海賊出身の海軍ですって?」ボンドはあかるく笑った。「では、これは海賊船ということですか?」


「キッド、キッドくん」私は海へ突き出した細い板の上に飛び乗り、小魚を夢中で見つめる猫に向かって、大きな声で注意した。「落ちないように気をつけなさい」


「さようです、これはでございます」


 ボンドは静かにカップを置いた。そして、まじまじとネロを見つめた。


「それは真実ですか?」


「ええ、もちろん。ここにいる乗組員も、実はほとんどが海賊なのですよ。船外に気を取られるあまり、お気づきになられませんでしたでしょうね」


「キッド、キッドちゃん、聞いてるのかい」私はチッ、チッ、と口を鳴らした。「海に落ちたら、もう二度と、助けてやれないよ」


「それが真実なら」その顔からは、笑みがさっぱり消え失せていた。「我々は1秒でも早くこの野蛮な船から下りねばなりません」


 陽は傾き始めていた。海風がそよぎ、私の額の汗を震わせた。キッド船長がどこかへ消えてしまったので、私はもう聞こえないふりをすることができなくなった。コーヒーはすっかり冷めていた。


 ネロは味わいながらコーヒーを飲んだ。飲み終えると、ナプキンで口を拭って、いった。


「デザートはいかがですか?ウミガメのプディングをご用意しておりますが」


「海賊の出すものなど!」


「良いですか」ネロは落ち着いた声で言った。「航路は変えられないのです。船は目的を果たされなければなりません」


「目的とはー」


「陛下の暗殺です」


  私はじっとしていた。声を荒げたり、驚いたりしなかった。何か恐ろしいことがやってきたら、いつも黙って受け入れた。なぜなら私は、そういうものと常に待ち合わせするような気分で生きてきたからだ。

 

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