まなざし

 それは、世界中の誰よりも愛おしい少女だった。どこにいても、何をしていても彼女は僕の目を引くので、ありきたりだがこれが恋なのだろうと思った。恋に世の人は障壁を求めたがる。簡単にうまくいく人生は面白くないからだ。僕の恋は決してコンテンツではないのだが、それに似たり寄ったりな障壁があった。

 僕が恋した彼女は奴隷だった。そして、僕は奴隷を見張るのが仕事だった。奴隷に恋愛感情を抱く者など、物笑いの種だ。だから、ほとんどの人には恋愛の意味すら知らない貧しい少年を演じてみせた。馬鹿にされる、されない以前に、奴隷に余計な知恵を与えかねないと貴族に判断された人間は任を解かれて、路頭を迷うことになる。僕は少女を愛していたが、それと同じくらいこの仕事で与えられる金で生きることが大切だった。

 障壁はもう一つあった。彼女が僕に目もくれないことである。確かに恋というのは一日二日で成るものではない。僕にもそれは理解できた。けれども彼女は奴隷だ、明日にはどこの誰かもわからない貴族に買われていくのかもしれない。僕にはそんな形で誰かが彼女を手に入れるのが、何よりも耐え難かった。僕の、風が吹けば飛んで消えそうな財産では、彼女を買うことなどできそうにもない。だから、せめて彼女の心だけは射止めておきたかった。

「おはよう、今日はお花を買ってきたんだよ」

「……花、ですか?」

 彼女は僕の差し出した花を見るなり、嫌そうに顔をしかめた。檻の隙間から彼女の華奢な腕が、器用に花を薄汚れた地面へ叩き落とした。真っ白な花弁に泥がはねた。

こういう気の強いところも愛おしい。そう思うのは恋ゆえだろう。僕は、彼女が時折見せる魂の力強さが秘められたような美しいまなざしが好きだった。

「私を捕らえることで得たお金でしょう。そのお金で与えてもらう花に喜ぶ女がどこにいますか」

 見るものを圧倒する、膨大な怒りを孕んだ目。彼女の気持ちを僕に向かせるには、あまりに抱かれている憎しみが大きすぎた。それは理解していたが、諦める気にはなれない。ごめん、と気持ちの籠らない謝罪を口にした。

「どうすれば、君は僕のことを好きになってくれる?」

「どうって……」

 彼女は質問の意味をわかりかねると言いたげに、視線をさ迷わせた。僕が口にしたことはあくまで言葉の通りで、そこまで考えることでもないだろうに。そうは思いつつも、彼女に一蹴されなかったことが嬉しくて仕方がなかった。彼女は顔を上げて、言った。

「なら、私達をここから逃がしてください。私だけではなく、ここに売られている人すべてです」

「そうしたら、僕を好きになってくれるの」

「ええ、どこまでもご一緒します」

 言われてすぐに、彼女にそんな気がないのはわかった。僕がどれだけ上手く事を成し遂げたとしても、最終的に彼女は僕の手をすり抜けてどこかへ行ってしまうのだろう。彼女の目を見つめる。自ずと、僕の答えは決められていた。こればっかりは、彼女に惚れた弱みなのだろう。

「いいよ」




 怒号と銃声、少しだけ血の臭いがする。僕は地面に横たわりながら、事の成り行きを静かに眺めていた。僕が一部の奴隷を逃がし、逃げだした奴隷を黙らせようとして誰かが放った銃弾が、僕の腹に当たった。起きたことはそれだけだ。

 檻を抜け出した老若男女が一つの方向に駆け出す姿は、昔一度だけ見たパレードの光景を彷彿とさせた。今起きていることは実際のところそんなに良いものではなかったが、人々の生きたいという渇望が作り出す流れは僕にとって美しいと断言できるものだった。奴隷達の波から一人、こちらへすたすたと歩いてくる人がいる。彼女だった。あ、と醜いうめき声が喉の奥で鳴った。

「半分しか逃がしてあげられなかった。ごめんね」

 彼女を視界に入れた瞬間、自然とそんな言葉を呟いていた。謝る一方で、もう充分だろうと囁く心があった。

 彼女の目を見つめる。罪悪感の一つも浮かんでいない、いかなる時も気高く強くあろうとするその目。別に、彼女より整った顔をした人などこの世には何百人といるだろう。彼女より声の澄んだ人などこの世には何千人といるだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。僕が恋をしたのは他の誰でもなく彼女だった。恋とは、そういうものだ。

 霞む視界の中で彼女の目ばかりが鮮烈に映った。もはや満足ですらある。愛する人の顔を今際の際に見ていられる人間など、この世にどれほどいるのか。

「ありがとう」

 彼女が笑った。拒まれたあの白い花によく似た笑み。僕が初めて見た表情。笑い声になり損ねた息が、唇からこぼれた。彼女は美しかった。

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白紙 水野ミコト @Mizuno_3510

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