後編

 それから二日後、「Higher Ground」は世に広まっていた。「正体一切不明のアーティスト」の曲として朝の情報番組で取り扱われたりもしている。

 きっかけは『一応言っとくけど、音量注意』という忠告とともに、鮎川が共有してきたセカハンのショート動画である。地元の図書館の利用者席で勉強をしている最中だったが、手を止めて動画を再生した。

 カラフルなフォントで「ヤバい曲見つけたかもしれないw」というテロップが最初に出た後、学校の教室後方と思われるロッカーで、スマホを片手に談笑している男子高生たちの姿が中央に映し出される。よく見ると彼らは、公園で僕たちに話しかけてきた男子高生だということがわかり、声が出そうになった。オリジナル動画を投稿したアカウントは、彼らと同じ高校の女子高生のものらしい。

 ダンス部の彼らが映った直後、撮影者の携帯のスピーカーからだろうか、聴きなれたイントロが流れだす。途端に僕は椅子から立ち上がってタップダンスを踊りそうになったから、鮎川の「音量注意」の意味がわかった。少年少女たちの声が大きくなったから良かったものの、バックでかかっている曲がわずかに聞こえてきただけで異変が起きたから、僕ももうこの曲を聴いてはいけないようだ。異変が起こる視聴回数には、個人差があるのかもしれない。

 曲が流れたことで、動画内の少年たちにも異変が起こる。

 談笑していた男子高生三人はぴたりと動きを止め、一斉にダンスを始めた。振付は三人ともバラバラで、鮎川に話しかけていた背の高い少年はバレエ風、前髪を固めていた少年はタップダンスのような、もう一人の黒髪の少年はパラパラ風の振付けで踊っている。踊る彼らの手足は何度も後方のロッカーや、前方の机や椅子にぶつかっている。痛いだろうに、彼らは動きを止めることはない。

 カメラは踊っている少年たちの顔を大きく捉える。三人とも口をぱくぱくと動かし、同じ言葉を何度も発しているように見えたが、読唇術を習っていないので何を言っていたのかはわからない。しかし、なぜ撮影者は彼らを止めないのか。いじめの光景を見ているようで気分が悪くなった瞬間に動画は終わった。

 背後から響いたどさあっという音は、イヤホンをすり抜けて僕の耳に届いた。振り返ると、三階から二階の入り口へと続く階段で若い男があおむけに倒れている。他の利用者がパニックになっている中、カウンター内のベテラン職員と思わしき男性が「救急車!」と叫んだ。

 倒れた男の顔は僕がいる二階の利用者席の方を向いていた。うっとりと恍惚の表情を浮かべた彼の頭には骨伝導のイヤホンがついていた。

 女性職員が語った、亡くなる前の彼に関する証言をその日のうちに知ることができたのは、似たようなことが全国でも起きて、ネットニュースになったからだ。

『……あの人が踊り場ですごく激しく踊っていたので、注意したんです。そうしたら、「高みへ」って呟いたと思ったら、階段をひょいって飛びおりて。わけがわからなくて駆け寄ったら、すでに心臓が止まってました』

 他の地域でも、踊っていた人が「高みを目指す」というような言葉を最後の言葉にして、高所や階段から飛び降り、亡くなっていた。死因は高所からの飛び降りによる失血死か、極度の興奮状態による心臓発作のどちらかだという。


「これ、どういう意味だろうな」

 翌日の昼休み、学食でわかめうどんをすすりながら、再生数が三千万を超えた公式動画のコメント欄を鮎川に見せていた。コメント欄をスクロールすると、「中毒性高い」「これ聴くと踊っちゃう」などの凡庸な感想コメントの中から、一つだけ浮いている文を見つけたからだ。


『彼は世界により、音楽家になることを諦めさせられた。しかし、音の力を信じ、向き合った。サン=サーンスの「死の舞踏」、α波、「暗い日曜日」、ビートルズの奏でたコード。ついに彼は完成させ、高みへと飛び立った。世界よ、耳を傾けろ。これは彼の最高傑作であり、遺言であり、復讐だ。目指す場所は一つだけ、それまでは踊れ』


 ポエミーな怪文を読んだ鮎川は学食の塩ラーメンを飲み込んでから、「変なこと書きこむやつも多いからな」とため息をついただけだった。

「悪いけど、あんまりその再生画面見せないでほしい」

 なんでも「視聴を禁制してるから」だという。

「また聴いたら今度こそ取返しのつかないことになりそうな気がしてさ」

「ふーん。ということは、外出るときはずっとイヤホンして他の曲聴いてるのか?」

「当たり」と鮎川はうんざりしたように頷いた。 世間では「流行の曲」として、コンビニや飲食店などの店内放送で使っているから、気を付けなくてはならないのだ。

「少し前までは、あれをイヤホンで聴いてたのになー。……なあ、やっぱりあのとき何も言わないで逃げるべきだったよな」

 鮎川のいう「あのとき」というのは、高校生たちに曲の存在を教えたときのことだろうか。

「そうかもしれないけど、アユがそこまで気にする必要はないだろ」

 別に法律に触れてるわけじゃない。

「そもそも、作ったのは何者なんだろうな」

「THEDA」の検索結果には、例の曲やチャンネル登録者へのホーム画面につながるリンク以外大した情報は出てこなかった。予想はしていたが、フリー百科の個別ページもできていない。インターネット掲示板などで、暇なネットユーザーたちがこの曲のことを話題にしていないかと探してもみたが、該当するスレッドは見つからない。本当に影の存在のようだ。

「……なあ、今ちょっと思ったんだけどさ」

 鮎川が声を潜ませる。

「このTHEDAって名前、文字を入れ替えるとDEATHになるよな」

「そうだな。で?」

「だからその、やばいやつが作ったんじゃねーかなって」

 目の前の友人が変な陰謀論にはまらないか本気で心配になった。

「それでビビり始めたら、怖がらないといけないやつ」

「が、ごまんとあるぞ」と言いかけたそのとき、学食内のスピーカーから低い「Get High」が聞こえた。

「お、おい、何でここで?」

 耳を塞いだ鮎川が勢いよく立ち上がり、ラーメン丼に載った箸が音を立てて床に落ちる。

「多分、学生からのリクエスト曲だ。放送同好会が曲選んで昼休みにかけるから……」

 放送音源は携帯の動画サイトのものを使うこともある、と聞いたことがある。

 考えている暇なんてなかった。椅子が一斉に引かれる音を皮切りに、食器の割れる音も続く。

 食堂内で十人の学生たちが踊り出していた。直前までラーメンやらカレーやらを食べていた学生たちは皆、生気のない目で椅子やテーブルや呆然としている他の学生を蹴散らしながら、個々の振付けで踊っていた。

 何々、どういうこと!? ほとんどの何も知らない学生は、踊っている一部の学生たちから避難しつつも、逃げられずに固まっている。

 肩を強く叩かれた。振り返るとフルワイヤレスイヤホンを両耳に装着した鮎川が、しかめ面で出入口を指さしていた。逃げるぞ、ここから!

 僕も両耳を指で塞いでから鮎川の背中を追った。食堂を出る直前に一瞬だけ振り返ると、テーブルの上に乗って踊っている学生が何人かいるのが見えた。

 学食での騒ぎは、騒動を聞きつけた教授だか学生が放送同好会にストップをかけるまで続いたという。食堂内では負傷者が二十人ほど出て、午後のキャンパスは大惨事だった。

 

 また外から重い衝撃音と悲鳴が聞こえた。ところかまわず踊っていた人間が、建物の屋上だか屋根だかから飛び降りたのだろう。いくつかの自治体では、「Higher Ground」を聴かないようにという注意勧告も出しているが、何の意味もない。他人が聴く音楽の制限など簡単にできるわけがない。

「……街中や公共交通機関の中でも関わらず、イヤホンで特定の音楽を聴いたことにより、突如激しいダンスを始め、高所から飛び降りる事件や事故が社会問題となってきています。この問題に関して、本日は音と人間の脳の関係性に対する研究を行う青光大学の手塚正光教授にお越しいただいています」

 チャンネルを回したニュース番組では、女性アナウンサーの紹介に続き、都内私立大学で教鞭を取っているという教授が話し出す。

「えー、この曲の音の波形を解析してみたところ、驚くべきことがわかりました」

「なるほど。では、ここで手塚教授が抽出された波形の映像をご覧いただきましょう」

 映像がスタジオの様子から動く波線に変わった後、教授の解説が始まる。

「こちら、楽曲の一分半から二分までのパートの波形なのですが、時折上下に乱高下する箇所を定期的に確認できるんですね。これらは『トライトーン』という、聴き手の精神に恐怖や不安を与える不協和音とされています。中世ヨーロッパでは『音楽の悪魔』と呼ばれ、教会でのこの音の演奏が禁止されたほどです」

 心なしか教授の話し方は憤っているように聞こえた。

 教授の激しい力説に反して、女性アナウンサーは「音楽の悪魔だなんて、怖いですねえ」と冷めたように相槌を打つ。

「この楽曲では、終始トライトーンが何度も繰り返すように使われています。聴き手に自覚はなくとも和音が人の精神に与える影響は絶大なのではないか、と私は考えています。だからこそ、断言する。この曲を聴いてはいけない!」

 視聴者に向けるように、教授の目線がカメラを正面から捉え、睨む。それまで何とか落ち着いて話していた教授の声のボリュームは、激昂で大きくはねあがっていた。

「どこの誰だかは存じ上げないが、この音楽を作ったのは人間ではない! 文字通りの悪魔だ!」

「て、手塚先生、落ち着いて。どうか冷静に……」

「私は冷静だ!」

 なだめようとする女性アナウンサーを振り払い、こめかみに青筋を浮かべた教授が大股でカメラに近づき、声を張り上げた。

「私はまだ、かろうじて正気を保っている! だが、この曲の検証に携わった学生たちは、何人もこの悪辣な音で正気を失っていった! 私は、この作曲者を断じて許さない!」

 数秒後、「責任を取れ!」「即刻この世から消せ!」とわめく教授を取り押さえる出演者やスタッフたちの姿が流れたあとに、「しばらくお待ちください」と書かれた青空の静止画がテレビ画面に現れた。

 つまらなくなってテレビの電源を消すと、テーブルに置いていた僕の携帯が震えた。

『……よう、聞いてくれ』

 鮎川からの電話だった。

「アユか、もしもし」

『上へ』

「はっ?」

『もしくは『高みを目指せ』かな。オレもようやく気づいた』

 鮎川の言葉には抑揚というものがなかった。

「お前、聴いたんだな!」

『聴くに決まってるだろ、良い曲なんだから。――それに、本当に大切なことに気づけたんだ。感謝しなくっちゃな』

「今、どこにいるんだ? まさか、どっか屋上じゃな……」

『そんなことはどうでもいいんだよ!』

 携帯から聞こえてきた鮎川の怒鳴り声に肩が震える。

『考えるなよ、お前が気にしてるのなんか些細なことだ。大事なことは、この音楽を聴くことでオレたちみんな幸せな天上へ行けるってことなんだ』

 鮎川が虚ろに笑った。いや、泣いていたのかもしれない。

『すごく幸せな気分だよ、お前も聴いてみろって。こんなに良い曲聴かないで人生過ごすなんて馬鹿だしさ。あっはっはっは!』

「アユ、今どこにいるのか教え」

『目指す場所は一つだけ、それまでは踊れ』

 シューズの底が擦れるような音の後、重い音が地面に落ちたような音が聞こえた。やがては何も聞こえなくなった。

「……そういうことだったのか」

 鮎川の最後は僕の脳内を刺激した。

 儀式なんだ。皆、高みを目指して踊り、恍惚と共に最後は飛び立つんだ。

 謎のユーザーの残した怪文。音楽家として挫折した人間が狂気の音楽を作った挙句、本人も憑りつかれてどこかから飛び降りたとしたら? そしてその友人が世界への復讐を込め、「DEATH」として曲を公開したとしたら?

 いや、もうどうでもいい。そんなのは全て霧のように脳内で消え、「上へ、上へ」という言葉だけが脳内を埋め尽くしていく。

 ポケットにはワイヤレスイヤホンのケースが入っている。充電は十分だ。

 耳にイヤホンをはめたら動画サイトを開き、あの曲を再生するだけ。そして、ひたすら踊りながら目指すのだ。

 低い「Get High」の声が耳朶をつき、電子音がビートを刻み始める。

 ああ、こんな快感を僕はずっと我慢していたなんて! 何て馬鹿だったんだろう?

 僕らが踊るのは、高みへと行ける喜びを表現するためだったのだ。ただ、目指すだけではつまらない。喜びは舞踊で表現しなくちゃならない!

 足を軽く弾ませていけば、アパートの屋上なんてもうすぐだ。

 目指すんだ、今まで経験したことのない高みへ。

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天上音楽 暇崎ルア @kashiwagi612

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