秋風が運んでくる木蓮の涙。

神崎 小太郎

全1話 風が運ぶもの


 このエッセイを読んでいるあなたが、心の奥底に眠る大切な思い出を振り返る瞬間は、どんなときだろうか……。僕にとっては、冷たい風が身にしみる季節に、かつて巡り会った思い出がよみがえる刹那かもしれない。そんな青春の蹉跌となる苦い欠片の扉を、ゆっくりと、そしてそっと開けさせてください。



 ✽


 東京の街角に吹く秋風は、過ぎ去りし日の懐かしい足音を運んでくる。大学キャンパスの正門に一対で配置されているモミの木は、クリスマスで光り輝く機会を待ちわびるかのように、風の冷たさなど気にせず寄り添っている。


 モミの木の葉は、冬の訪れを告げる秋の深まりとともに朱色や黄金色に染まり、空は透き通るような青さが広がっている。秋の名残を惜しむように舞い落ちる葉のささやきが、まるで何かを語りかけるようだ。


 大学の正面には、一年を通して煉瓦造りの二階建ての建物が彩り豊かな蔦で覆われており、シンボル的な時計台が百年前から悠久の時を刻みながら学生たちを迎え入れている。


 僕は初めて手にする厳かな雰囲気が漂う聖書を抱え、緊張しながらも心の奥底に嬉しさが込み上げてきた。その歴史ある煉瓦造りの門をくぐったときのことを、今でも覚えている。 


 都会にありながらも、喧騒を忘れさせ、四季折々の花を楽しめるキャンパスの景色は、幾度も映画やテレビドラマの恋愛物語の舞台で描かれている。


 そんな異国情緒あふれる美しいのどかな風景の中で、僕は百合子との遠い昔の出会いを思い出す。それは初恋ではなかったが、清らかな春の訪れと共に芽生えた、この上なく大切な思い出だったのは間違いない。


 百合子は、いつもポニーテールの黒髪を可愛らしいリボンで飾りつけていた。キャンパスの芝生に横たわりながら、その大きな瞳で雲の流れゆく先を温かく見つめていた。百合子の存在は、周囲を明るく照らす灯火のようで、その笑顔ひとつで僕の心は穏やかな喜びで満たされた。


 僕たちは運命に導かれるように大学の図書館で出会い、春風に揺れる木蘭の花の下で初めて言葉を交わした。それは、まるで春風が運んでくれた贈り物のように感じられた。その花は青空に向かって咲き、大きな花びらが風にそよぐ様子は、凛々しい美しさとともに儚さを感じさせるものだった。



 百合子は文学部で習う紫式部の古典をこよなく愛し、僕は新聞記者を目指す社会学部の学生で、ゼミやレポートに追われる日々だった。けれど、彼女との会話はいつも僕の心に安らぎを与えてくれた。


「紫式部の『源氏物語』、読みました? 本当に素晴らしいですよね。ゆっくりでよいので、最後まで目を通してください」と百合子が僕を見つめながら口にした。


「そうだね。僕はまだ最後まで読んでいないけど、あの時代の文化や人々の感情が細やかに描かれていて、感動するよ」と僕は照れ隠しをするように、たどたどしい口調で返事をした。


 正直なところ、口には出せないが、古典文学のセンスが乏しい僕には、その物語を読み進めるのはけっこう厳しいものがあった。


「特に光源氏の恋愛模様が、現代のラブストーリーにも通じるものがあると思うの」と百合子は僕をからかうように微笑んだ。


「確かに……。愛する恋人たちの心は時代を超えても変わらないんだね」と僕は深い恋の感じなど分かるわけもないのに、そう言葉を返すのが精いっぱいだった。


 ✽


 学食のカフェでコーヒーを共にしながら、百合子は「木蘭の涙は風音とともに」という自作の詩を僕に教えてくれた。その詩は僕たちが多くの時間を共有するきっかけとなり、詩の一節一節に込められた意味を深く語り合った。


 風の音とともに

 木蘭の涙が落ちる

 キャンパスの小径に

 君と歩いた日々が

 今も心によみがえる


 風に揺れる木々の囁き

 君の笑顔と重なり

 切なさが胸を締め付ける

 それでも君を想う


 彼女の優しい言葉の端々が僕の心の奥底に響き渡り、まるで詩の如く切ない思いが共鳴するかのようだった。彼女の声は、静寂な夜に響く風の音のように、僕の心を優しく包み込んだ。



 ある日、僕たちは授業が終わると、キャンパスの近くにある小さなカフェで温かいココアを飲みながら、窓の外にちらつく雪を眺めていた。カフェの中は一足早いクリスマスの飾り付けで彩られ、暖かな雰囲気が漂っていた。


「祐介さん、ほら、あれ見て。まだ秋なのに初雪かもしれないね。雪が降るとなんだか心が落ち着くんだ」と百合子が微笑みながら口にした。


「本当にその通りだね……。雪の白さが、まるで心の中の雑念を洗い流してくれるような気がするよ」と僕は答えた。僕は秋の季節をこよなく愛していたが、最近はその存在が薄れてしまったように感じていた。


 すると、彼女は照れくさそうにバッグから小さな包みを取り出し、僕に手渡した。

 

「まだ少し早いけれど、これ、クリスマスプレゼント。開けてみて」


 包みを開けると、中には手編みのマフラーが入っていた。柔らかな毛糸で編まれたそのマフラーは、百合子の温かさが伝わってくるようだった。


「ありがとう、百合子。とても嬉しいよ」と僕は感謝の気持ちを込めて言った。


「実は……このマフラーを編んでいる時、あなたのことを思いながら編んでいたの。だから、少しでも温かさが伝わればいいなって」と百合子は恥ずかしくなったのか、照れくさそうに微笑んだ。


 その瞬間、僕は彼女の優しさと愛情を強く感じ、胸が熱くなった。彼女の存在が、僕にとってどれほど大切なものかを改めて実感した。



 雪が降りやむと、僕たちは黄昏のキャンパスを歩きながら、過去の思い出やこれまでの出来事について語り合った。彼女からの手編みのマフラーで首元を温めながら見上げる空は、この世の穢れがすべて祓われたかのように澄み渡り、美しかった。


 黄昏の空が少しずつオレンジ色に染まり、木々の影が長く伸びる中、僕たちの足音が静かに響いていた。夕焼けに染まる空の下、僕たちふたりの心にも新たな思い出が刻まれていった。 


 ✽


 秋の終わりを告げる色なき風がそよぐ中、僕たちはプラタナスの枯れ葉が舞う鈴懸の径を訪れた。公園のベンチに座りながら、過ぎゆく時の流れを感じつつ、ふたりは未来の夢や希望について語り合った。


 百合子は、いつか自分の詩集を出版したいという夢を語り、僕は彼女の夢を応援することを誓った。その時、彼女は僕に一冊のノートを手渡した。それは彼女が書き溜めた詩が詰まったノートで、彼女の心の奥底にある感情が綴られていた。


 詩集には、百合子の幼少期の思い出や、家族との絆、そして未来への希望が描かれていた。特に印象的だったのは、彼女が初めて恋をした時の詩だった。その詩には、初恋の甘酸っぱい感情や、相手への切ない思いが美しく表現されていた。


 初恋の甘さと苦さ

 心に刻まれた君の笑顔

 遠く離れても

 君を想う気持ちは変わらない


 また、百合子が自然の美しさに感動した瞬間や、友人との楽しいひとときも詩に綴られていた。彼女が綴った詩は、まるで彼女自身の心象風景を描いたかのようで、読むたびに目頭が熱くなった。


 季節の風に揺れる花々

 友と笑い合うひととき

 その瞬間が永遠に続くように

 しっかりと心に刻む


 そして、クリスマスが近づくと、僕たちは大学のキャロリングに参加した。キャンドルを手に、クリスマスソングを歌いながら、キャンパスのある街中を練り歩いた。


 チャペルからは厳かな賛美歌が校内に響き渡り、モミの木はイルミネーションで光り輝いていた。在校生たちが集まり、聖歌のメロディーに乗せて街中を練り歩くその光景は、まるで神に仕える天使たちが戯れる夢のような世界だった。


 百合子と手をつなぎながら、僕たちは一緒に歌い、笑い合った。その刹那、僕たちの心はひとつになり、クリスマスの喜びを共有した。けれど、それは僕の儚い夢であり、幻だったのかもしれない。


 耳元に届く風の音が運んでくる季節の移ろいと共に、僕たちの関係も少しずつ変化し、最終的には別れを迎えることとなった。ふたりが別れた原因は、互いの将来に対する考え方の違いだった。


 百合子は詩人として文学の道を強く望み、夢を追いかけるためにヨーロッパへの留学を決意した。一方、僕は日本でのキャリアを築くことを選んだ。お互いの夢を尊重し合う中で、未来への道が、僕たちの関係に影を落としていた。


 彼女がキャンパスを去った後も、僕は母校を訪れるたびに、凛々しく切ない思い出が心によみがえる。百合子の笑顔や声、そして共に過ごした日々は、僕の記憶に深く刻まれている。


 冷たい風がそよぐ季節を迎えると、毛糸のマフラーとともに彼女の温かさを思い出し、僕の心は少しずつ癒されていく。大切な青春の思い出は、僕の心の中で人知れず永遠に輝き続けるだろう。彼女と過ごした時間は、僕の学生時代の中で切なくも忘れられない宝物となった。



 ✽


 あれから数十年の歳月が過ぎ去り、僕たちはそれぞれの道を歩んでいる。風の便りで百合子が元気にしていることを知り、ほっとしたものの、今どこでどんな生活を送っているのか、ふと気になることがある。


 そんな思いに駆られると、百合子の笑顔がはっきりと脳裏に浮かび、胸が温かくなる。その笑顔は、まるで昨日のことのように鮮やかで、僕の心に深く刻まれている。


「ありがとう、百合子。君が幸せでありますように……」


 どこかで彼女が幸せに過ごしていることを願わずにはいられない。ふたりの恋は報われなかったが、その思い出は、僕の人生の宝物であり、百合子に出会えたことに心から感謝している。そして、彼女の幸せを限りなく祈りつつ、僕もまた自分の道を歩んでいく。



✽.。.:*・゚ ✽.・゚ (終幕)・゚ ✽.。.:*・゚ ✽


 家族にも知られることなく、真実に近い過去の思い出を綴った拙いエッセイではありますが、最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

 お気づきの点がございましたら、どうぞ遠慮なくコメントでお知らせください。心よりお待ちしております。

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