後編

   後編 AGE49



 月曜日――週の初め、世の勤め人たちが憂鬱と嘆く曜日。

 藤堂にとっては、相変わらずコンビニでジャンプを買い、公園で読みふける曜日だった。

 今では紙の雑誌で読むのは藤堂だけになっていた。娘は高校進学で電車通学になったのをきっかけに電子版を定期購読し始めたし、それに伴って妻も同じアカウントで電子版を読むようになった。

 藤堂だけが、ルーティーンのように紙のジャンプを読み続けている。それはこの幸福な生活が始まるきっかけになったのが、公園でジャンプを読むという行為だったからだ。

 だが藤堂ほどの男が知らないはずもなかった。過去というものはこんなとき、幸福の中で弛緩している者をこそ追ってきて、牙を剥くのだということを。



 思えば最近不吉なことが重なっていた。ジャンプで家族三人全員が気に入っていたスポーツ漫画が立て続けに終わったり、家に食用タランチュラが配達されてきたり。藤堂は無論神仏の類いなど信じていないが、公園ジャンプのルーティーンを欠かさないことからもわかるように、「運」という概念は無視できないと思っている。

「お父さん! 家に誰かが入ってきた!」

 娘からその電話が来たとき、藤堂は自宅から片道一時間は離れた場所にいた。妻は市外に出ている。娘が生まれてからなるべく作らないよう心がけていた、両親が揃って家を空けている状況だった。

「サクラ、落ち着くんや。見つからんようにパニックルームを目指せ。できるな?」

 散々人を殺してきた身だ。降りかかる火の粉どころか業火が迫っても対処できるような備えはしていた。閑静な郊外に家を建てるとき、この国では珍しい、侵入者に対して立てこもることができるパニックルームを設置したのも、こうした事態に備えてだ。

「ダメ……ここから見つからずにあそこまで行けない」

「待っとき! お父さんがすぐに行く。それまで、どうか……」

「お父さん、怖いよ……震えが止まらない」

 藤堂は必死で走った。なるべく体力を維持するよう努めてはいても、彼は既に四十九――己に腹が立つほど遅く感じられる疾走だった。

 繋がったままの電話から、銃声が響く。――ああ、どうか、どうか。



 滝のような汗を流しながら家に着いた藤堂は、震える手で玄関のドアを開けた。

 娘はすぐに見つかった。血まみれの、蒼白になった顔と生気の失われた双眸(そうぼう)を見て、藤堂の目に涙がにじんだ。

「サクラ……」

 藤堂が涙を流すのは、覚えている限り人生で二度目。娘が生まれたとき以来だった。

 何があっても揺るがない強い女と思っていた妻が、男の自分には想像もつかない苦痛に長時間呻き続けながら、この世に生み出した一つの命。藤堂と葵の未来。

 散々命を踏みにじってきた鬼のような人間である自分が、生命の誕生に立ち会って、どこにでもいる平凡な優しい男であるかのように、自然と涙を流したのだ。

 あのとき誓ったのに。どんな敵からも、災いからも、この子を守ると。

「すまん……サクラ。怖かったよなあ。お父さんが守ってやれなくて、こんな……」

 娘を抱きしめて泣く藤堂の背に、そっと腕が回される。

「うん……怖かったよ。初めて人を殺すのは」



 子供に戦う術を教えるという方針は、夫婦で一致していた。

 いくら近くで子供を守ってやりたくても、七十年も八十年もずっとそばにいてやれるわけではない。結局のところ、自分で自分の身を守れるように育ててやることが、真に身を守ってやるということなのではないか。

 最強の殺し屋の父と、暗殺一家の筆頭の母。遺伝子も教育もこれ以上のものはないだろう。実際に娘は両親が驚くほどの早さで戦闘の技術を学んでいった。

 そして両親も、完全に市井に紛れ、普通の人間として生きる道は選ばなかった。既に人を殺しすぎた身だ。今更罪は消えない。それならば、せめて唯一無二のその力を正しく使おう。悪人しか殺さない殺し屋――それが二人の選んだ道だった。

 正義の殺し屋――現実にそんな都合のいい存在はいないし、少年ジャンプの主人公なら人を殺す正義など認めないだろう。だが自分たちは自分たちの正しさを探せばいい。そう二人で話し合って決めた。



「入ってきたのは何人や?」

「七人。一人はパニックルームに逃げ込んじゃった」

 パニックルームは閉じるだけなら中に入ってボタンを押すだけだが、中の金庫に入った武器は暗証番号を知らなければ取り出せない。

 それにしても、サクラの手から硝煙の匂いがしないということは、パニックルームの銃火器どころか、子供部屋の枕の下に隠した小型拳銃さえ使わず、肌身離さず持つよう言いつけている小型のナイフだけで襲撃してきた七人を制圧したことになる。末恐ろしい子だ。

「よし、じゃあ開けよか」

 パニックルームは暗証番号さえ知っていれば外から開けることができる。それを内側から停止する機能もあるが、それは部外者が一見してわかるようにはなっていない。

 重厚な金属製のドアが開くと、待ち構えていたように男が飛び出してきた。

 四十九の藤堂から見ても、あくびが出るほど遅いナイフの閃き。それをよけながら、前のめりになった男の左脚のふくらはぎを素早く蹴る。――カーフキック。筋肉の薄いふくらはぎを蹴ると、一時的に神経にダメージを与え、簡単に立てなくできる。

 呆気なく崩れ落ちた男の背中を押さえつけ、背後から首を絞める。

「誰に雇われた?」

 男はすぐには口を開かなかった。藤堂は大げさにため息をつく。

「あのな、わいはもう拷問とかそういうのは嫌なんや。子供がいるんでな。残酷なことはほんまに嫌やねん。今の蹴りだって、おまえの膝を曲がっちゃいけん方向にへし折ることもできたのを、後遺症のないカーフ蹴ってやってんねんで。ほら、早く喋れば五体満足で帰れるで。それともあれか? 心と体に一生残る傷をつけんとわからんか?」

 藤堂の持論として、情報を引き出すための尋問に多くの場合凄惨な拷問は必要ない。むしろ大事なのは、今ここで全てを話してしまえば、無事に元の生活に戻れるという希望の方だ。もちろん時にはそんな生ぬるいやり方では口を割らない者もいるが、人体に不可逆な破壊を加える拷問はその段になってからでも遅くはない。

 この男は簡単に全てを吐いた。まとめると、どうやら葵のの生き残りが藤堂一家を狙っているらしい。

 十八年前のあの日――海外で仕事をしていて仁居戸にいと家の屋敷にいなかった男。藤堂も噂で聞いたことはあった。若くして仁居戸家の暗殺術の指南役として、数多の殺し屋を育て上げていたという、通称「先生」と呼ばれている殺し屋。

 海外から帰ってきたこいつは、弟子たちを集めて「死国」という殺し屋集団を組織したらしい。

 その中でも特に名の通った奴が、「美食家グルメ」と呼ばれる若手の殺し屋だ。こいつも風の噂で聞いたことがある。

 資産家の息子ながら道楽で殺し屋をやっているイカれた野郎だが、実力は確からしい。強い奴しか相手にしない、スリルを楽しむためにあえて使いにくい得物を使う、そんな戦闘狂ぶりで美食家扱いされているらしい。

 深紅の派手なチェーンソーを振り回し、本人は「緋鋸ひのこ」と名乗っているこの男が「死国」のナンバー2ということだった。

「ありがとな。ほなもうええで」

 拘束した男の頸椎を捻って絶命させる。本当に解放されると思っていたなら気の毒だが、家族を襲った敵を許すほど藤堂は腑抜けてはいない。

 男は殺し屋としての技量の低さとは裏腹に、それなりに情報を持っていた。これならこちらから打って出ることも可能だ。家族の安寧を脅かす敵は、可及的速やかに排除せねばなるまい。

 そのとき藤堂の携帯端末が振動して着信を告げた。知らない番号からだが、迷わずに出る。

「もしもし」

「その様子だと、襲撃は失敗したようですね。今の藤堂さんなら、子供が殺されて平気な声で電話に出られるとは思えませんから」

 誰やおまえ――そう聞きかけたが、その必要はなかった。

「おまえが『先生』か」

「はじめまして。伝説の男とお話できて光栄です」

「こっちは話したくないけどな」

「そんなつれないこと言わないでくださいよ。昔こそ最強と呼ばれるあなたを目障りに思ってましたが、今の俺は純粋に藤堂さんのファンなんですから」

「ああ?」

「昔の――うちの葵と出会う前のあなたは、正に青い果実でした。殺し甲斐がなかった」

「何やと?」

「おっと、誤解しないでください。、これ以上ない相手でしたよ。でもあの頃のあなたには死ねない理由がなかった。じゃないですか」

「先生」の声がだんだん熱を帯びていく。

「でも葵と出会い、家族を作り、守るものができたあなたは……美味しくくれた。幸福な暮らしを覚えて、死ねなくなったあなたが、殺されるときにどんな顔を見せてくれるのか……俺がどんな思いであなたが一番熟すときを待っていたか、わかりますか藤堂さん?」

 ――なんやこいつ、ヒソカみたいなこと言いよって。藤堂はそう思ったが口には出さなかった。ジャンプ読者かわからない者に『HUNTER×HUNTER』ネタを振ってキョトンとされたくない。

「きっっっっしょく悪いやっちゃな。もう待たんでええ。わいの方から始末しに行っちゃるわ」

「――わいじゃないでしょ。『わいら』でしょ」

 怒りの声で割り込んできたのは、横で通話を聞いていたサクラだった。止める間もなく藤堂の手から携帯端末が奪い取られる。

「『先生』だか何だか知らんけど、あんたなんか、うちのお父さんが出るまでもないわ。あたしがぶっちめてやるから覚悟しな」

「ふふっ、元気なお嬢さんだなあ。君を目の前で殺したら、お父さんはどんな反応を見せてくれるんかな。怒りと憎しみで、仕事の殺しなんかよりもずっと本気で、殺しに来てくれそうなんよな。ふう……どうしてくれるんですか藤堂さん……俺もう収まりませんよ」

 苦虫を噛み潰したような顔のサクラから、端末を奪い返す。

「これ以上変態と話してると子供の情操教育に悪いんでな、ほな切るで」

 返事を待たず通話を切る。顔を上げると、サクラが真剣な眼差しで見つめてきた。嫌な予感が胸をよぎる。

「お父さん……戦いに行くなら、あたしも連れてって。戦えるのは証明したでしょ? あたしだってみんなを守りたい」

 藤堂の悪い予感は大体当たるのだ。そして藤堂家の女は、一度決めたらてこでも動かないことを彼はよく知っていた。

「今だけ、あたしに殺し屋をやらせて」




   真編 AGE17



 帰ってきたお母さんは、まず家の惨状に悲鳴を上げた。あたしがお母さんの実家の「先生」との戦いに参加することを表明すると、もっと大きな悲鳴を上げた。

 説得には時間がかかったけど、結局はわかってもらえた。お父さんはいつ攻撃してくるかわからない敵に怯えるより、こっちから叩きに行く方を選んだ。その間あたしが一人で待っていたら、「先生」はあたしの方を狙ってくるかもしれない。それなら一緒に敵を倒しに乗り込む方が安全だ。

 或いはお母さんがあたしと一緒に残る? それは無理だ。お父さんのことを大好きなお母さんが、一番危険な敵との戦いにお父さんを一人で送り出せるはずがない。

 だから家族三人一緒に戦う。これが『たったひとつの冴えたやりかた』ってやつだ。

 お父さんは今パニックルームにこもって作業をしている。お母さんの愛銃を見せて、これとお揃いの刻印をあたしの銃にも入れてほしいと頼んだからだ。

「刻むのはSakuraでええんか?」

「あだ名刻んでどーすんねん。そこはちゃんとフルネームでしょ」


 Todo Aoi


 お母さんのためにお父さんが刻印した、世界に一つだけの銃。みんなで戦うんだから、あたしもお揃いのやつが欲しかった。

「さあ、お父さんが作業してる間に荷造りしましょうね。やるとなったら善は急げ。サクラちゃんも、しばらくスマホは自由に使えないから、今のうちに連絡とかは済ませておいてね」

「あーあ、せっかくフォロワーも増えてきたのに、しばらくXもお休みやな」

「サクラちゃん、SNSのことなんだけど、ゲテモノ喰い投稿でフォロワーを増やすのはやめた方が……タランチュラが届いたときは、お母さん心臓止まるかと思ったのよ」

「それだけで人気なわけじゃないからね! 毎週のジャンプ感想も評判いいんだから。それに元はと言えば、お父さんがサバイバル訓練とか言って蛇やら虫やら食べさせたのが悪いんだよ」

「お父さんはいいけどお母さんはああいうの無理なの! 都会派の殺し屋だったんだから……まあ顔を出して踊ったりするよりは安心だけど」

 お母さんの言うように、周りの友達はTikTokで踊ってフォロワーを増やすのに熱心だ。でも親譲りで昔から音楽に興味がないあたしには性に合わない。X(旧Twitter)の方が居心地がいい。

 だからフォロワーのみんなと会えなくなるのは寂しいけど、すぐに全部終わらせて、生きて帰ってきて、平和な暮らしを取り戻すんだ。

「おう、お待たせ。刻印、終わったで」

 お父さんがものすごい早さで作業を終え、あたしの銃を持ってきた。

 お母さんと同じグロックの銃身に、同じように刻まれた名前。


 Todo Oka


 これから始まるのは、殺し屋藤堂桜花おうかの最初で最後の仕事だ。

「さあ、仁居戸家の『先生』も『緋鋸ひのこ』も、一人残らずやっつけに行こう! ……最後まできっちりとね!」



                END

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殺し屋藤堂最後の仕事 宮野優 @miyayou220810

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