10(魔女の正体)

 ――実のところ、話はこれで終わりじゃない。

 それは、ある春の日のことだった。桜もすっかり散り終わって、みんなが冬のことを忘れてしまう頃。

 わたしは夕方に図書館から帰るところで、その時はバスに乗っていた。日が暮れるのもだいぶ遅くなって、あたりはまだ昼の時間が続いている。窓の外に見える景色は、飽きもせずに遊び続ける子供たちみたいに元気だった。

 目的の停留所が近づいてきて、わたしは降車ボタンを押した。おなじみのブザー音と、車内アナウンス。約束されたことを示す、ランプの点灯。

 やがてバスが停車して出口から降りようとするとき、わたしはちょっと道を譲った。年配の女性一人と席を立つタイミングが重なってしまって、わたしのほうが少し待ったのだ。

 その人は軽くお辞儀して、そのままバスを降りていった。わたしも会釈だけ返して、そのままバスを降りていく。

 バス停の近くには公園があって、閑静な住宅地が広がっていた。わたしはまだそれなりに新鮮な春の空気を呼吸しながら、ちょっとだけのびをする。すいこんだ空気のぶんだけ、体が軽くなった気がした。

 それからいつもの道を歩きはじめて、すぐに何か地面に落ちていることに気づく。

 近づいて拾ってみると、それは財布みたいだった。状況からして、前を行くさっきの女性が落としたもので間違いなさそうである。もちろんそんな推理をするのに、ベイカー街の名探偵を呼んでくるまでもない。

 でも実際にわたしが気をとられていたのは、そんなことじゃなかった。落ちた拍子に財布は開いていて、そこには運転免許証が見えていた。その免許証に書かれていた名前のほうに、わたしの意識は集中していたのだった。

 ――そこには、「藤谷志仄」と書かれていた。

 一瞬、太陽が西からのぼって、月が東に沈むみたいな、よくわからない混乱があった。時計の針がいきなり逆に回りだして、覆った水が盆に戻っていく。

 でも、そこには確かにそう書かれていたし、わたしの知らないあいだに漢字の書きかたが変わったんじゃないかぎりは、そのはずだった。

「あの――」

 わたしはともかくとして、こういう時にすべき一番大切なことをした。

「これ、落としたみたいですよ」

 つまり、落とし物を落とし主に返すのだ。

 前にいた女性は、わたしの声に気づいたみたいに後ろを振り向いた。そうしてわたしの手に掲げているものと、自分のポケットの中身を調べてみて、唯一正しいと思われる結論にたどり着く。

「あらあら」

 と、その人は慌てたようにこっちに歩いてきた。

「ごめんなさいね……ええ、確かに私のね」

 財布を確認しながら、その人は言う。どこかの無愛想なお手伝いさんとは違って、感謝の気持ちのこもった笑顔を浮かべて。わたしも〝気にしないでください〟的な微笑を返しておく。

 ――でももちろん、わたしが知りたいのはそんなことじゃなかった。

「あの、失礼ですけど」

 と、わたしは気づいたときには訊いてしまっている。

「もしかして、作家の藤谷志仄さんですか?」

「あら――」

 そう訊いたときの、その人の顔にちらっと浮かんだ表情を説明するのは難しい。

 当然だけど、警戒。それから、疑問。相手に対する興味。事態に対する戸惑い――あとは、名前を覚えられていたことについての、かすかな喜びみたいなもの。

 その人は十秒とはかからない時間で、返答した。

「ええ、嘘をついても仕方ないでしょうから言うけど、確かに私はそういうものね」

「…………」

 その人は、わたしの知ってる志仄さんとは、年齢も容姿も性格も全然違っていた。簡単にいってしまうと、その人はその辺にいる優しいおばさんみたいだった。人あたりのよさそうな丸っこい顔立ちに、同じくらい丸い眼鏡。短い髪は自然というかラフというか、わりと自由にあっちこっちへはね返っている。その髪は特に夜を連想させるものじゃなくて、ごく普通の黒色だった。

 正直なところ、その人は全然〝志仄さん〟という感じじゃなかった。

「でも、珍しいわね」

 とその人――藤谷さんは言った。

「私のこと知っている人なんて、めったにいないんだけど」

「えと……あの、実はあなたの本を読みました。だいぶ前のことですけど」

 わたしが言うと、藤谷さんは柔和な顔立ちをますます丸くしながら言った。

「あら、それは嬉しいわね。あんな昔に書かれた本を、今でも覚えててくれる人がいるなんて」

「とても、面白かったです」

 わたしは言いながら、言葉につっかえないように気を配っていた。

「何ていうか、小さくちぎれた魂みたいで。あれって、自伝的な作品なんですよね?」

「それ、実は違うのよ。あれは、ただの思いつきで書いたようなものなの」

「え?」

 思わぬ一言に、わたしはきょとんとしてしまう。

「でも、確か解説にはそんな風に書かれていましたけど」

「うーん、そうね、どこで誤解が生じたのかしら」

 藤谷さんは砂漠の真ん中で金髪の少年に質問されたときと同じくらい、本気で悩むみたいな顔をした。

「噂が噂を生んだ、というところかしらね。発表当時から、私は何も言わないことに決めていたから」

 確かに、藤谷さんの左手には火傷の痕なんてなかった。年齢相応に使われてきて、少しくたびれた感じの、でもごく普通の手でしかない。

「――賞を辞退したっていうのは?」

 さしでがましいとは思ったけど、わたしは訊いてみた。どう考えたって、こんな機会は一度しかない。これを逃したら、宇宙船は永遠に無重力の孤独の中を旅することになってしまうかもしれなかった。

「ああ、それはね」

 藤谷さんは何だか、苦笑するみたいな表情を浮かべた。自分や、自分以外のもの、その他いろいろなものに向けられた感じの。

、というところかしらね。私も今と比べるとずいぶん若かったし、反抗心みたいなものが強かった。そんな有名な賞をとったら、それからどのくらい面倒なことになるかはわかってた。そんな面倒は絶対にごめんだって、そう思ったのよ」

「……未練とか、後悔とか、そういうのはないんですか?」

「それはないわね」

 月に例えるなら、まんまるの満月みたいな笑顔で言う。

「今でも、それでよかったと思ってる。私は私であって、みんなの道具なんかじゃないもの。そんな賞に縛られるなんてごめんだった――けど、そうね、一つだけ失敗だったなって思ってることはあるわ」

「何ですか、それ?」

で作品を発表したこと」

 藤谷さんは言いながら、どちらかというと朗らかに、くすくす笑っている。

「おかげで、ごくごく稀にだけど変な目にあったりもするから」

「すみません」

 とっさに、わたしは謝ってしまう。何しろそれは、今まさにわたしがやっていることだったから。

「あら、いいのよ。私が言ってるのは、だから。あなたみたいな人は別ね。昔を懐かしく思い出させてくれる、貴重な存在だから」

 どう返事をしていいのかわからなかったので、わたしは曖昧に笑顔を浮かべておく。でも不愉快には思われていないようなので、わたしは思いきって最後にもう一つだけ訊いてみた。

「――藤谷さんは、今でも小説を書いてるんですか?」

 それに対して、藤谷さんはすぐには答えなかった。何だか文章を考察するみたいな、推敲するみたいな、そんな間があく。

「ええ、書いてるわね」

 と、藤谷さんは言った。

「書いて、発表はしないんですか?」

 どう考えても、それは話題になるに決まっているのだけど。

「もう懲りてしまったからかしらね」

 藤谷さんは自分で自分に問いかけるみたいにして言う。

「私は私のために小説を書いていたし、それができなくなることのほうが問題だった。もしかしたら、欲がないのかもしれないわね、自分ではよくわからないのだけど。特に発表したいとは思わないし、自分の楽しみのために書くほうが大切だから。そのほうが、私が私でいられる気がするのよね」

 わたしは何となく、藤谷さんの言葉に納得していた。たぶんこの人も、自分を生きていくことにしたような気がして。

 その時、不意にどこかから声が聞こえた。何だかそれは、藤谷さんを呼んでいるみたいでもある。

「――?」

 声のほうを見ると、そこには知らない男性が一人、立っていた。髪はきちんと分けられていて、温和だけど中身のつまった感じの目をしている。年齢的には、藤谷さんと同じくらいに見えた。

「はーい、今行くわ」

 藤谷さんはその人に向かって、手を振った。それから、

「あの人、私の旦那なのよ」

 と子供が運動会で一等賞をとったくらいの、ささやかな自慢でもするみたいに言う。

「――なるほど」

 わたしは控えめに同意するみたいにうなずいた。それは確かに感じのいい旦那さんで、藤谷さんの気持ちはよくわかったから。

 そんなわたしに、藤谷さんは同じくらいささやかな秘密をもらすみたいにして言った。

「あと、実はあの人、編集者なの」

 わたしは一瞬、きょとんとしてしまう。

「私が書いた小説を発表したのも、大体のところはあの人がやったことなのよ」

 なるほど、とわたしはふと思っていた。道理で、十何年も行方不明のままでいられるわけだ。

「それじゃ、もう行かないといけないわね」

 藤谷さんは言って、その見ため通りの柔らかな笑顔を浮かべる。そこにはやっぱり、魔女らしいところなんてどこにも感じられなかった。

「久しぶりに、楽しかったわ。今じゃもう、誰も私のことなんて覚えていないのだし。どうか、元気でいてね」

「藤谷さんも、お元気で」

 わたしはそう言って、小さく手を振った。

 それから、藤谷さんは旦那さんといっしょになってどこか向こうのほうへ歩いていってしまう。当然だけど、二人は志仄さんについても、わたしの運命についても、何も知らないのだった。そしてこれからだってやっぱり、何も知らないままでいるのだろう。

 世界の多くについて、わたしたちが何も知らないのと同じように。



 ずっと以前に、わたしは自分で書いた小説を志仄さんに見てもらったことがある。

 それはあの、世界中の扉が閉まったみたいな雨の日に、志仄さんとわたしが約束したことだった。わたしはその約束を、果たしたわけだ。

 もちろんその小説は、わざわざ人に読んでもらうほどのものじゃなかった。その辺のがらくたを集めて、でたらめに組みたてただけの、いいかげんで独りよがりなだけの。

 でも――

 志仄さんは、そんなわたしの小説を読みたいと言ってくれたのだった。たぶん、世界中の誰よりも、真剣に、純粋に。

 その小説は、こんな風にはじまるのだった。


「――嵐の気配が迫っていた。

 コクリリは翼に力を入れて固くし、それから力を抜いた。これからのことを考えて、自分の翼の具合を確かめておきたかったのだ。頼れるものは、その軽くて薄い二本の羽しかなかった。

 風は不吉な音を立てて、その鋭さを増しつつあった。眼下に果てもなく広がる海には、すでに荒々しく白い波が逆まいていた。

 これから先にあるものについて、コクリリは考えた。そこには激しく吹く風と、冷たく降る雨と、光を遮る厚く黒い雲があるはずだった。

 コクリリはたった一人で、その嵐に挑まなくてはならなかった。

 本当なら、そこには仲間がいるはずだった。長い時間を共に過ごした、お互いをよく知る仲間たちが。様々な問題や困難に、いっしょに立ちむかえる仲間たちが。

 けれど今、コクリリは一人だった。

 何故なら彼は翼に怪我をして、出発が遅れてしまったからだ。その傷が癒えるまでは、南に向かうその旅に出ることはできなかった。その翼では仲間たちについていくことも、長く苦しい行路に耐えることもできなかったのだ。

 そもそも、もっと早く旅立てていれば、こんな嵐に遭遇することはないはずだった。あるいは、経験豊富な先導役であるリーダーさえいれば、こうなる前に進路を変更できていたかもしれなかった。

 風はますます強くなって、死神の鎌に似た不吉な音を立てていた。巨大な壁を思わせる黒い雲が、すぐそこまで近づいている。やがてコクリリの体を、雨の最初の一滴が濡らした――」


 小説の主人公である渡り鳥は、それから激しい嵐に翻弄されることになる。吹きすさぶ強い風、のように体を打つ雨、先を見とおすこともできない深い暗闇。

 果敢に戦いを挑むのだけど、やがて翼は疲れ、その体は力を失ってしまう。朦朧とする意識の中で、仲間たちのことを思い出す。まるで、別れでも告げるみたいに。

 けれど気づいたとき、その体は穏やかな光に包まれている。雲間に隙間ができて、そこからまっすぐに光が射してきたのだ。

 その光に力を取り戻すと、再び翼をはばたかせる。このまま、どこまで行けるかはわからない。それでも、行けるところまでは行かなくてはならなかった。

「――ここに書かれているのは、あなたの悩みや恐れ、迷いそのものみたいね」

 と、志仄さんは言った。

 わたしたちはいつもの光と緑の部屋で、コーヒーとお菓子を前にして座っていた。その部屋にはわたしたち二人だけしかいなくて、世界は月と同じくらい遠いところにあった。

「とてもよく書けてると思うわ。描写はしっかりしてるし、文章だって悪くない。文学賞をとれるかどうかは知らないけど、興味深く読ませてもらったわ」

 志仄さんはごく単純に、本心からそう言っているみたいだった。いくら志仄さんが謎めいた人だからといったって、それくらいのことはわたしにだってわかる。

 そんな志仄さんに向かって、わたしは訊いてみた。こうなった以上、自分の気持ちを隠していたって仕方がない。

「やっぱり、わたしは弱い人間なんでしょうか?」

 わたしは小さな石ころを一つ、蹴とばすみたいにして言った。

「悩んだり、迷ったり、そんなことばかりで。少しも、自分では決められていない――」

「…………」

 志仄さんは少しのあいだ、黙っていた。コーヒーが飲みやすい温度になるのを待つみたいに。

「それでいいのよ」

 と、やがて志仄さんは言った。

「え?」

「悩んだり迷ったりするほうが、正しいの。苦しんだり恐がったりするほうが、正しいの。逆にそんなものが少しもないほうが、あたしにとっては怖いわね」

 そう言って、志仄さんは静かにコーヒーを口にした。

 世界はどこまでも透明で、くっきりして、形がはっきりしていた。わたしはたぶん、この時のことを死ぬまで忘れはしないだろう。ううん――もしかしたら、死んだあとまでだって。

 志仄さんが何者だったのか、本当のところはわからない。ちょっと変わったお金持ちだったのか、まんまと大金をせしめた詐欺師だったのか、それとも――本物の魔女だったのか。

 でも結局のところ、そんなのはどうでもいいことなのかもしれない。嘘も本当も、たいした違いなんてないのかもしれない。それはどっちも根っこでは自分とつながっていて、自分以外のものになんてなりっこない。

 わたしにとって、志仄さんはあくまで志仄さんであって、それ以外のものになんてなれはしないのだった。

 ――今でも、そしてこれからも。

 魔女の棲む家で過ごしたあの時間のことを思うと、わたしは何故だか少しだけ自分自身でいられる気がするのだった。

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魔女の棲む家 安路 海途 @alones

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