汚泥の魔女は期待しない(後編)
机に向かい、ジーネは石の角度を変えて安定した置き方を見つけると彫刻刀を入れる。聖剣で浅く溝を入れて当たりがつけられるようになったため、格段に削りやすくなっていた。
「今までにない形状のようだ。新しい鈍器か?」
しばらく無言でテーブルの席から眺めていたアルシェのことばに、魔女は手を止めて顔を上げる。彼女が眼前にした石は今までのものより長く、これまでの作品とは一線を画していた。
「これは壺にするんだ。実用性があった方が売りやすいだろう。今までより大きなものも作っていこうと思ってね」
今までより大きなものを作ろうとしている理由のひとつは、街へ運ぶのが楽になったから、というものだ。しかし、彼女はそれを口に出さないことにした。
「なるほどな。石はまだ材料の心配はいらなそうだ。こちらはそうもいかないが」
アルシェのことばでジーネは初めて、テーブルの上に置かれた本立てに気がついた。厚めの本が十冊ほどは並べられそうな、木製の飾り気のないものだ。
彼は魔法でいくらでも木や倒木などから木材を調達できるが、本当に際限なく調達すると木々が減っていき景観も変わり、ジーネも嫌がるかもしれない――そう考え、最初に作っていたテーブルや椅子、棚などはこれ以上作るのをやめ、小型の家具を作ることにしたのだという。
「しかし……ただこれだけなら、誰でも作れそうだろう? だから装飾が必要だと思うのだが」
「ああ、確かに。誰でも作れるようなものは買わないだろうな。装飾があってもよく見る模様や神話の一場面を定番通りに描いただけ、とかなら安く買い叩かれそうだ。独創性が必要なのさ」
参考にしようとでもいう様子で棚の作品群を見ていた邪神は、独創性、ということばに顔を上げて考え込む。
「つまり……我の独自の表現、ということか」
「そんな難しくはないんじゃないか? あんたは邪神で、人間なら見ることのできないようなものも色々と目にしてきたはずだろ」
それが人間の買い手に受けるのかはわからないが、まずはやってみなければわからない。彼女は無意識に、相手の独自の表現に対して興味が湧いていた。
「なるほどな……確かに、我だけが知るモノのカタチもある。いいことを聞いた。早速やってみよう」
表情を明るくすると、アルシェは本立てを抱えて家を出ていく。
その半日ほど後。
装飾が側面に彫り込まれた本立てを手に、再び彼はジーネの前へと姿を現わしていた。
「どうだ、上出来だろう?」
テーブルに置かれた作品の装飾は滑らかで、とても人の手により彫り込んだとは思われないほど。目にした者はどれほど腕のいい職人が丁寧な仕事をしたのかと驚くだろう。
ただ、刻まれた模様や形状は大変独創的で日常に存在すると悪目立ちするに違いなかった。腕の生えたギョロリとした目の魚、棘のある不気味な植物、翼を広げる怪鳥。尋ねられた魔女は一瞬反応に困る。
確かに技術としては美しいが、これを日常生活の中に置きたがる人間がどれだけいるだろうか。一定数は趣味の合う者もいるだろうが、万人受けする物より買い手と巡り合う可能性は低くなる。
――でも、売るためだけに作るというのも違う気が。
今、彼女は売れそうな作品を作ろうとしているが、それでもそれをどう仕上げるか、どう装飾するかは彼女の持つ独創性から離れない。それに方向性は他人が決めることではない。
「い、いいんじゃないか、独特で。もう少し一般の人間にも親しみやすいといいかもしれないけど、まあ、それで個性が薄くなるよりは……最初だから、色々試してみるのも大事だし」
「本当か? わかった、もう少し色々と作ってみよう」
「色々って、まず抱えて運べるくらいにしておきなよ」
喜んで再び出ていく背中に、魔女は慌てて声をかける。まさか、すべて売れることはないだろうが、この先周囲の木々が無駄になり続ける事態は避けたい。
そう考えて、彼女はこの先も邪神と暮らし続けることを自然と受け入れている自分に気がつく。
最初にアルシェと出会い数日が過ぎていた。まだ短い間なのに、もう日常の中に二人の姿があることを当たり前のように感じている。もう周りに人のいない環境が一番落ち着く体質になっているものだと思っていたが、今の環境も思いのほか自然に感じる。子どもの頃に祖父母と暮らしていた時代のように。
――まあ、永遠の命があるならずっと話せる友人の一人もいたっていいか、便利だし。
そう考えることにして、彼女は作品の仕上げに取り掛かった。
「ふむ、これはまた個性的な……」
白髪に白髭の、頭に茶色のバンダナを巻いた家具屋の店主は、ルーペを手に机の上の作品をまじまじと眺めた。身長に指先で手触りを確かめ、遠く置いて眺めたり匂いすら嗅いで確かめる。
その様子を、作品を持ち込んだ二人は固唾を飲んで見守る。
「そうだね……アルシェさんと言ったね」
「あ、ああ、そうだ」
いつも通りを装うとしているものの、邪神の声はわずかに上ずっている。
「この家具の外見は、店先に置いておいても趣味の合う人の手に渡る可能性は低い。でも、わたしはこういった系統の物を気に入りそうな人物を知っている。その人に見せて、気に入れば買ってもらえるかもしれない」
今回、アルシェは七つの家具をこの店へ持ち込んだ。店主が言うにはその中の三つだけ買い取り、残りはそれが売れたときに改めて購入したいという。残り四つは店で預かり、売れたら売上をもらうことになる。
「最初だから、お試しということか。我――わたしはかまわないぞ」
上着の内側で突かれる感触に反応し、彼は一人称を言い直す。
「とりあえずひとつ二〇〇〇で、計六〇〇〇リアラだ。ジーネの花瓶は一六〇〇でどうだ」
相場のわからないアルシェは承諾し、想定していた範囲の値段だったジーネも同意する。
代金を手にして二人は軽い足取りで家具屋を出た。
「最初にしては上手く売れた方じゃないかい。儂、じゃなかった、わたしより稼いだろう」
「いい値段なのかわからん。それに、ジーネは確か雑貨も作って売れていただろう?」
「今日はまあまあ、高く売れたね。店主が同じ種類の駒を作ってくれたら知人から買ったいい石を譲ってあげようと持ち掛けてきたくらいだし」
この国の中流以上の人々の間では最近、マス目のある石板の上で小さな人形のような駒を動かして〈上がり〉を目指す、という遊戯が流行していると聞いていた。そのため彼女は石板や駒を何種類か作っておいたのだ。
「必要とされるものを作る、というのもやっぱり大切だ。でも、作りたいものを作れないならつまらないから、その辺の兼ね合いも大事だね」
「必要とされる……なかなか難しいな」
通りの端を歩きながら二人は会話していた。周囲から人の気配が遠くなると、そこにもうひとつの声が加わる。
「忘れてませんよね? 服を買うんですよ」
布越しの小さな声に、ああ、と魔女は思い出したような声。
「普通の服を買うんだったね。上質なのじゃなくて」
彼女は、前回購入した上質な服を着ていない。それでも前回の汚れも落とし切っていない服装とは天と地の差がある。服はしっかり洗濯し、温泉に入って身体を清め髪も整えている。ブーツだけは新しく購入したものを履いていた。
ジーネは安い服屋を覚えていた。何年か前に一度だけ、買い物をしたこともある。
「前のとは、かなり趣が違いますね」
アルシェの襟もとから覗き見て店がまえを目にしたとき、ケーラは驚いたような当惑したような声を上げた。
店の並びではなく住宅街にあるその店は古い木造住宅を改装したもので、それもかなり年季が入っている。お洒落や流行から連想する外観とはほど遠い。
「ここは古着屋なんだよ。普通の服を買うなら充分だろ。意外と掘り出し物もあったりするけど、いい物は古着でもまあまあ値が張る」
店のドアを開けると、ずらりと吊られた服が並んでいる。そして正面にいた店主らしき男は客らの姿に驚いたらしい。
「いらっしゃい! ここは、上級市民が着るような服は少ないよ」
「いや、普通の服を買いに来たんだ」
言って、アルシェは女物の服が並ぶ一角に目を留める。彼が手を伸ばそうとしたのはフリル付きの白いエプロンだ。
「いや、あんたの服を買うんだろ」
「そうは言っても、自分で着る物より貴様に着せたい服に目が行ってしまう」
「着せ替え人形だと思ってるのかい、わ……わたしを」
「人形も面白そうだが……そうだな」
腕を組んでいた邪神は何か思いついた様子で続ける。
「こちらは貴様に似合う服を三つ選ぶから、貴様も我に似合うと思う服を三つ選べ。そうしたら代金は出してやろう。という取引はどうだ?」
等価交換には程遠い取引だが、彼は好きでやっているのだ。断る理由も思いつかないので、ジーネはそれを受け入れた。
しかし今回は〈普通の服〉を買いに来たのであり、それが似合うかどうかは別問題だ。両者を満たす服を選び出すのにジーネは少し苦労した。
結局選んだのは袖に飾りのあるシャツや上品そうなベストなど、一般人の服から外れてはいないが、少々育ちがよさそうな雰囲気のあるもの。
一方のアルシェは最初に手にしたエプロンに、動きやすそうなロングスカート、袖口にフリルと襟にリボンのついたブラウス、エプロンに合いそうなヘッドドレスも選んでいた。
「それと、ああいうのも必要じゃないか?」
と指をさす先の壁には、さまざまな種類の鞄も並んでいる。
作品を運ぶのにも使うジーネの鞄は取れない汚れを隠したり、ほつれた糸も直せる部分は直してあるものの、くたびれていることも古いことも誤魔化し切れていない。
とはいえ、そこまで買ってもらうことに彼女がためらっていると、
「そうだ、鞄はジーネが持つ必要はない。わたしが大きな鞄を買う。代わりに、ジーネは街の中で持ち歩いて違和感のない鞄を選ぶがいい。道をすれ違う女たちは、もっと小さい鞄を持っているだろう」
軽く手を打って、邪神は思いついたように言う。
「街の女たちは近所に住んでいるから小さい鞄でいいんだよ。それに、どうせ大きい荷物は避けられないしな」
魔女は聖剣を背負って持ち歩いていた。鞘ごと布で包み、剣だとはわからないようにしていたが。
「ふうむ、さすがにそれはわたしには持てないな。普通の剣なら伸縮自在になる魔法をかけておくこともできるが、その剣はわたしの魔法を受けつけない」
「へえ、強力な剣だから不便になるなんてこともあるんだね」
ジーネが溜め息を吐く間に、アルシェは自分用の鞄を選び出した。ジーネのものに似た茶色の飾り気のないショルダーバッグだが、もう一回りほど大きい。
「ジーネさん、新しく買う服に似合う鞄を選びましょう」
小声でケーラがそう促してくる。
「もう山道を登りおりする必要はないので、この町は近所のようなものです。作品はアルシェさまが持ちますし」
そう言われれば、ひとつくらい小ぶりの鞄を持っても良いような気になってくる。それでも財布や護身用の石ナイフや手袋なども入れたい――などと考えているうちに、大きめの本が入るくらいの大きさの鞄を選んでいた。それでも今持っている鞄とは比較にならないほど小さく、青いリボンもついており若者向けには見える外観だ。
「着替えて行かれますか?」
アルシェが代金を払うと、店主はカーテンに囲まれた一角を手で示した。本来は試着の後で購入するのだろうが、すでに買った後だ。それでも〈普通の服装をする〉という目的のためには着替えは早い方がいい。
二人は着替えて店を出ると、人の気配のない小路に入る。
「いいじゃないですか、お二人ともお似合いですよ」
ケーラはアルシェの上着の内側に変わり、大きな鞄の中に身を隠して顔をのぞかせていた。彼女の評価に邪神も魔女も安堵する。
ジーネは買ったばかりの白いブラウスに茶色のロングスカート、ショルダーバッグを身に着けている。元の鞄はアルシェの鞄の中に収納できたが、相変わらず背中には細長い包みがあった。しかし、第三者からは中身はうかがい知れず、楽器や釣り竿、望遠鏡や大型の傘などいくらでも想像の余地はある。
アルシェはシャツにベスト、ズボンだけは今までのものだが特に違和感はない。大きな鞄を脇に抱える姿はとなりのジーネの格好と相まって、旅行者か何か作業を行う予定のある二人連れに見えるかもしれない。
「アルシェさまも違和感ないですね。ジーネさんはどうですか?」
「結構動きやすいし、悪くないんじゃないか。白は汚れが目立つ心配はあるけど、街の中で着るだけなら大丈夫そうだ。この鞄の大きさは作品を運ぶことを考えなければ使いでが良さそうだし、板を入れておけばいざというときの盾にもなるな」
魔女の感想を受けて、インプの少女は一瞬不満げな顔をする。
「そういうのじゃなくて……見た目の話です。飾りが綺麗とか可愛いとか、この色の組み合わせはいいとか、そういう感想はないんですか?」
それはジーネにとって難しい質問だ。彼女は「そう言われても」と考え込む。一方、となりでアルシェは声を上げて笑った。
「フハハハハ! それは無理というものだ。なにしろ、我々は体の大きさも違う、インプのケーラに評価してもらわなければ良し悪しなどわからないくらいだからな!」
身も蓋もないことばだが、ジーネにはそれが事実に違いないことは痛いほどわかっている。
「開き直らないでくださいよ……ほら、好きな色とか形とか模様とか、そういうのはあるでしょう。作品を作るときにも優先順位はあるはずですし」
「自分の格好と他の者の格好を考えるのは違う」
「そうそう、そこは別だからね」
並んで反論する二人に、インプはあきれ顔。
「こういうときは気が合いますね……まず買うべきものがわかりました。あの家には鏡がありません。客観的に自分を見られるものがまず必要だったのです」
確かにケーラの言う通り自宅には鏡がない。ジーネはようやくそこに思い至る。子どもの頃に買ってもらった小さな手鏡をしばらくは使っていたが、不注意で十年近く前に割ってしまい、以後は自分の顔を見る必要があるときには水がめの水面を使い、特に不自由は感じていなかった。
「自分を客観的に見るのなら、姿を象った像を作ってもいいだろう。等身大なら服を着せ替えて客観視できるぞ。帰ったら作ってやろう」
胸を張って言う邪神に、ジーネは「なっ」と一度声を詰まらせる。
「服を着せ替える、ってことはその像は裸ってことでしょうが。誰が見せるかっての」
「生まれたときは全裸なのに何を気にすることがある? まあ、わざわざ実際に見なくても大体の体系を真似るくらいは訳ないが。ちなみに、我が像を作るときにはいくらでも脱いでやるぞ」
「脱ぐな。というか、こんな街中で言うな」
いくら人通りのない小路にいるとはいえ道の脇には家が並び、少し移動するだけで大通りと合流する程度の位置だ。ジーネは慌てて周囲を見回すが、こちらへ視線を向けるような姿はない。さすがに、家の窓のカーテンの向こうはうかがい知れないが。
「とにかく、鏡は買うから像はいらないよ。あとは食料と、カーテンや毛布も欲しいな」
家も服も家具も、すべては最低限の用事を満たせばいい。そう思っていた少し前までと違い、彼女は〈買い物をする楽しさ〉を理解しつつあった。同じ年頃の町娘たちがなざ笑顔で通りを歩くのか、ようやく納得している。
「テーブルクロスにもう一枚毛布、敷物と袋も追加していいだろう。あとは……別の種類のケーキも買わないとな」
木製と石製の物は作れるため、必要な家具や道具は主に布製品が中心となっていた。ジーネは縫製品を扱う店を目ざし、再び大通りへ出る。そのとなりを大きな鞄ををさげた邪神も歩く。
行き交う、老若男女さまざまな姿――その中にあって、二名の姿も今までより溶け込んでいるようだった。たまに振り返る者はいるものの、馬鹿にする者も殊更声に出して褒め称える者もいない。
「ふふん、どうだ。すっかり馴染んでいるだろう」
中央広場でジーネが足を止めた瞬間、邪神は得意げにささやく。
「悪くはないんじゃないの。こっちも、前みたいな悪口は言われないね」
「当然だ。前野は、少々服や鞄が汚れていて髪も乱れてみすぼらしく見えていただけだ。格好さえきちんとしていればジーネほど美しい人間はいない」
「は、はあ……あんたにはそう見えるってことね」
アルシェに対して意地を張ることに意味はない。今更ながら魔女はそれを思い知る。
――でも、そうだとするなら目立つはずじゃないか。
しかし、周囲の人の流れはほとんど途切れることはないように見えた。広場の端に並ぶ一組の男女を見咎めるように足を止めるものなどいない。
そう、足を止めはしないが、それらは人の流れの向こうから急速にやってきた。
「いたぞ、あそこだ!」
声が上がるとジーネも気がつく。
一直線に向かってくるのは二人の男。一人は白い法衣と帽子を身に着け、首から銀色の有翼の女神を象ったペンダントをさげている。神に仕える、法力を身に着けた神官か何かのように見えた。
もう一人は警備兵か兵士のような武装姿。
「そこから動くなよ!」
気のせいなのではない。恰幅のいい法衣姿は明確に魔女と邪神の方を指さし、その一点を目的地として走り寄って来る。もう一人は彼に従っている様子だ。
逃げるべきかどうかの判断もつかないうちに二人はジーネの前に立ち止まる。広場の人の流れも乱れ輪を作るように遠巻きに眺める野次馬たちも増えていた。
「やはり間違いない。我が目は誤魔化せんぞ!」
鋭い目を向けて指さす相手は、ジーネではなくアルシェだった。
「貴様、邪神だな。その禍々しい魔力、地上の生き物ではありえない。なぜここへ現われた、何を企む!」
――そうだ、これはあり得ることだった。
今更ジーネは痛感する。邪神が聖剣の力を感知するように。神の力の一部を授かるという聖職者の中にも邪悪な力を感知する者がいるのだ。
これをどう切り抜けるか、魔女はとなりを横目で見る。邪神はどうやら、二人の男が遠くから走って来るのを目撃したときから事態を予想していたようだった。冷静に男たちを迎えると、背筋を正して口を開く。
「おっしゃる通り、確かにわたしは邪神として長い時間を生きてきた者です。しかし、ここにこうしていることには企みなどございません」
あまりによどみのないことばにジーネは驚き、聖職者は内容の方に驚いたようだった。
「企みがない? ことばだけではどう信用できよう。ならばなぜここにいるのだ」
「簡単には信用いただけないでしょう。しかし、わたしはこちらの聖女さまに屈服させられ、この命を捧げると誓ったのです」
聖女、と突如水を向けられて魔女は目を見開くが、すぐに気を取り直す。ここは話を合わせなければ。
「ほ、本当です。この剣を見せたら、こちらの邪神はわたしに仕える気になったようで」
と、彼女は背負っている包みを取り外して布を開く。布がずらされて現われた剣の姿に、法衣姿は少し仰け反るほどに驚いた。彼にはその聖剣がまとう聖なる力が視えているはずだ。
「これはまぎれもなく伝説のテューリアの剣! これをどこで……?」
いくつかの質問に、ジーネは素直に答えた。どこの遺跡の何階のどんな扉の奥にどのように設置されていたか。嘘を吐く必要もないのでありのままを話すだけでいい。
「信じられん、すべて神殿のみに伝わる伝説の通りだ。それにこの剣の力、聖剣に間違いない」
「と、なると……どうするのですか?」
警備兵らしい男はとなりで目を白黒させている。
「聖剣を抜くことがきるのは聖剣に認められたものだけ。ならば、確かに貴女は聖女なのだろう。信用しよう」
――聖剣を抜いたというか、無理矢理引っこ抜いたというか。
そこは嘘のような気がして内心動揺するが、ジーネは極力平静を装た。幸い相手は疑問には思わず、彼女の住居の場所を聞いたうえで自分の神殿を教え、紋章のついたペンダントを聖女と認めた証として渡す。
「しかしいくら聖女とはいえ、邪神を長くそばに置くのは不安もありましょう。もし良ければ我が神殿で預かることも一考してください」
「それは心配無用ですよ」
引き離されることを心配してか、好青年そのものの外見の邪神は好青年そのものの口調でことばを挟む。
「わたしはもう長くはない命。聖女さまと一緒に過ごす時間は一年程度になりましょう」
荷物を運び、とはいえ多くはアルシェが鞄に入れ、移動も瞬間移動のために誰かが重さを感じるようなこともなかった。魔女宅のテーブルには食料や布製品、金属製の道具などが山積みになる。
「フルーツケーキもチョコレートタルトも楽しみですね。でも、どうせなら夕食をお店で食べてきても良かったのでは」
やっと空中に解放されたケーラが嬉しそうに、邪神が購入してきた二種類のケーキの近くを飛ぶ。
「ジーネのことだ、ケーラに気を使ったのかもしれないだろう」
アルシェはそう予想していた。
町で二人の男たちと別れて以降、魔女はことば少なく必要なものを手早く買うことに集中していた。できる限り早く帰ろうとしているように。
しかし、彼女がここへ早く戻ろうとした理由はそうではない。
「あのとき言ったこと……本当かい?」
彼女が尋ねると主従は驚き、さらに表情を、これは不味いことになった、というわかりやすいものへと変える。
「まさか、それを信じてしまうとは思いませんでした」
「いや、その場しのぎをするにしても別のやり方があるだろ。すっかり服従しているから心配ないとか、消えると言われればいつでも消えるとか。でも一年と区切ったことも含めて、とっさについた嘘じゃなくてとっさに出た事実にしか思えないな」
「素晴らしい洞察力――」
と言いかけ、アルシェは背筋を伸ばし咳払いをする。
「質問の答だが……本当だ。そう直接質問されると嘘はつけない」
「じゃあ、アルシェしか愛せない、っていうのも最初から一年限りだったってこと?」
「そうだ。ただ、永遠の命はそのまま残る。もちろん、貴様が望めば解除も可能だが。悪い話ではないだろう……?」
命を救い、永遠の命を与え、愛することができる者も愛されることができる者もアルシェのみ、という制限も約一年経てば解除される。確かにあまりにも優し過ぎる話だ。
しかし、ジーネはやり場のない怒りと落胆を抱いていた。
――まさか、儂は何かを期待していたのか。
内心、彼女は驚く。邪神が一年ほどでいなくなることが許せないのなら、それはつまり、一年よりももっと長く一緒に過ごしたいと期待していたということだ。
「……とにかく、邪神に寿命なんてあるのか? 病気もないだろう」
「確かに、普通は邪神に寿命はない」
しかし、重い傷を受けたり力を使い過ぎるようなことが続くと、傷の回復が間に合わず死へ向かうこともある。
「それは我ではなく、より高位の邪神のことだが。長きに渡り神々との戦いを繰り返し、我など足もとに及ばぬ知識と魔力持つ強大な神だ」
その死は、邪神たちにとって代え難い損失となる。そのため、次々と任務を忠実に成功させ力をつけてきた有望な邪神を魔力ごと吸収することで回復し、寿命を延ばそう――それがその他の邪神たちの決定だった。
「なにそれ。それで大人しく従うと?」
「好きでこうなった訳ではないぞ? しかし上位の邪神を失うことが大きな痛手になることは事実だし、長年仕えてきた者として愛着もあるし、我にとってはこれまでの任務はそれなりに楽しめたものだし」
それは彼の本心らしいが、ジーネだけでなくインプの少女も不満を顔に出す。
「でも、そういうアルシェさまの性格をいいことに、上司の邪神はやりたくないことを押し付けてきただけですよ。それがたまたまアルシェさまには苦痛じゃなかっただけで」
「そうだよ、ずっと言いなりのままでいる気か? 邪神王に我はなる、とか思わないのか?」
「邪神王ってなんだ? それに手負いとはいえこれまで重ねた年月も魔力も違い過ぎる、返り討ちにあうだけだ」
ならば従うしかない。命令を受け入れたアルシェに、一年の自由な時間が与えられた。その時間でアルシェは人間たちの本で何度も読んだ愛について探求しようと地上に降り、ジーネと出会う。
「ん? 一年って神の時間の感覚にしてはかなり短いと思うけど……」
魔女が疑問を口にすると、ケーラも察したらしい。
「アルシェさま。上司のかたの寿命って、どれくらいなんでしょうか」
「ああ……確か、もって三年と聞いたな」
思い出しながらのことばに女たちは一瞬固まり、
「じゃあ、別に戦ったりする必要もないじゃないか」
「そうですよ! 三年逃げ続けましょう」
口々に興奮した様子で言うことに、邪神は目を丸くする。
「それは……いいのだろうか?」
「いいんです、義理立てすることはありませんよ。邪神の世界はアルシェさまからも奪うことしかしません。しかし、我々は違う世界を知ってしまいました」
主従が人間たちと関わるようになってから、まだ長くない。それでも、もともと本からの情報を得ていたのもあって、インプのことばは邪神に何かを思わせたらしい。
考え込む相手に、ジーネは畳みかけるように言った。
「あんた、今までのことばに嘘がないなら迷うことはないだろ。あんたを都合よく使う上司のために、わたしを捨ておくつもりかい?」
「否、今までのことばに嘘はない。そうだ、生きるほかに道はない」
三年なら待てる――
そのことばにアルシェの意思も決まったようだ。彼としてはジーネも一緒に来てほしかっただろうが、追っ手がかかれば危険な逃亡の旅となる。魔女が待つというと、無理に誘いはしなかった。
「ジーネ、魔法をかけてくれないか。常に貴様の姿が見えるのだろう?」
「視界が遮られるのは逃げるのに危ないし、どうせ一日しかもたん。これでも持っていけ」
と、彼女が渡したのは手のひら大の石像だ。彼女自身を象ったもの。
「これはなんと素晴らしい……大切に、常にそばに置いておく。そして、こちらからも贈り物を授けよう」
喜びの末にアルシェが取り出したのは、木製の笛だ。角笛に似た形で、息を吹き込めばひとつの音が出るという単純なものだ。
「それは吹くと我に通じるようになっている。それが吹かれたときにはどこにいようと瞬時に駆けつけよう」
「他人の心配してる場合かい? まあ、ありがたくいただくけどね」
主従はすでに旅立ちの準備を終えていた。もともと人間ではない二人のことだ。食料もほとんど必要とせず移動も瞬間転移を使えばいい。それでも魔力は極力使わない方が発見されにくいが、徒歩で障害になるようなものもほとんどなく、荷物は購入済みの鞄や服など少しだけだ。
「三年は長いが……寂しがることはない。その後はずっと一緒にいるのだから」
「むしろせいせいして、忘れて自由を満喫するかもな」
「いや待て。忘れないように温泉の脇に我の像を建てておこう」
「ちょっ、邪魔過ぎるだろ」
――この賑やかさもあと少しか。
ことばと裏腹に、ジーネは自分が寂しさを感じる予感を抱いていた。今はもう、他の誰かとことばを交わし共に暮らすことに慣れ過ぎているから。
しかし、そんなことはおくびにも出さない。
「ジーネさん、どうか三年の間もお元気で」
ケーラが別れを切り出す。一緒に過ごしたのは十日にも満たない程度の時間なのに、まるで長年の友人のように馴染んでいた。
「まあ、そっちも捕まるなよ」
「心配するな。必ず逃げ切って戻って来るからな。ジーネ、また会おう。そのときは今までより沢山の種類のケーキを食べ、沢山の服を着て、もっと高く売れる作品を作れるようになるぞ」
彼のことばに思わず魔女は破願する。
「ああ、こっちもさらに腕を磨いておくよ」
賑やかな日々を失う空気を誤魔化すように、彼女は工房のテーブルの上の石塊に向かったまま、笑顔で主従を見送った。
ジーネとアルシェらが別れ、ほんの三日後。
笛の力で呼び出されたアルシェとケーラは急いで魔女の家の前に瞬間転移すると、ドアを開けてジーネのもとへと駆けつける。
「ジーネ、無事か!」
アルシェが声をかけたとき、ジーネは工房で立ち尽くしながら必死の表情を向けた。
「やっぱり儂も一緒に旅をさせてくれ! ここからできるだけ遠くまでだ」
彼女の脇のテーブルには他の石塊とはつやも輝きも違う、雑貨屋の主人から譲られた石が布の包みをほどいた直後の状態で置かれている。
その石には傷のような赤い模様が走っており、感じ取れる気配も以前ここで見たものによく似ているのだった。
〈了〉
汚泥の魔女は期待しない 宇多川 流 @Lui_Utakawa
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