汚泥の魔女は期待しない(中編)

 見渡す景色は魔女の家の周辺と大して変わりがなかった。どこも人の手が入っておらず、草木は伸び放題で遠くの原野には鹿が三頭、並んで歩いているのが見える。

 魔法で転移した直後、三名は空中に浮いていた。とはいえ地面まではせいぜい大人一人の背丈ほどの高さだ。アルシェはできるだけ長い草の少ない、平らな地面を選んで着地する。

「へえ、ここなら人は入って来なそうだ」

 見渡す限り町も建物も、道が作られたような痕跡もない。周辺に生き物は自然の中のものだけだ。

「埋めるのはこの辺りでいいか。下に別の悪魔石があったとかいう事態が起きないといいな」

「そこまで運がないならあきらめるわ」

 邪神の人差し指が下を向く。ずぼぼ、と聞いたことのない音が鳴り、すぐに下へ遠ざかって聞こえなくなる。音が消えたそこには、悪魔石がすっぽり入る幅の穴が開いていた。底はまったく見えない。

「これくらい深ければ当分の間は大丈夫だろう。そのうち浄化の方法が見つかるまでは封印され続けることになる」

「地震で割れて封印が解かれる、みたいなことは?」

「その可能性の低い地層を選んだから大丈夫だ」

 言われて、ジーネはそっと布ごと悪魔石を穴へ入れる。

 手を離すと青い泡のような球体が悪魔石を包み、ゆっくりとそれを運び始めた。石に極力衝撃を与えないようにとの配慮らしい。

 石が見えなくなってしばらく後、穴が塞がる。元の、雑草が生えた地面の姿へ。

 終わった――

 危険物を手放して、魔女は心から安堵した。自然と長い溜め息が出る。

「あとは、近くの街で売ったり買ったりですね。近くはないですが」

「なに、転移魔法なら一瞬だ。と、その前に」

 アルシェは近くに根を張った低木を値踏みするように眺めてから、その木の枝のひとつに目をつけた。そして、パチン、と指を鳴らす。

 すると、枝は短くなり代わりのように足もとに、木の鞘とベルトが現われる。

「鞘の内側には封印の紋が刻まれている。聖剣にはただの木の鞘では不足だからな」

「あ、ありがとうよ」

 少しためらいながら礼を言い、魔女は鞘に聖剣を納める。大きさも丁度だった。彼女はその剣をベルトで背負う形にする。

「じゃあ、次の目的地だ」

 パチン、と再び指が鳴る。

 次の瞬間には町の門を見上げていた。

「ホント、邪神……っていうか、魔法って便利だな」

「人間はここまで自在には操れまい」

 アルシェが胸を張る。

 ジーネの方は、転移を門番に見られなかったか気になっていた。出現の瞬間を見られなくても、それまでの移動を見られていないことで突然現れたように見えるかもしれない。

 門番とジーネは顔見知りだ。幸い門番は転移について怪しむことはなかった。

「珍しいな。古い知人かい?」

 相手は同行者に驚いた様子だった。ケーラはアルシェのコートの内側に身を隠している。

「ああ、そんなとこだよ。お疲れさん」

 同行者が口を開く前にジーネは手を引いて進む。

 門を抜けたそこは、直前までいた辺境とは別世界だ。通りを人が行き交い、脇には店が並ぶ。呼び込みをしている屋台や椅子とテーブルを外に並べた飲食店などもある。

 邪神は物珍しそうに見回すが、ジーネが真っ直ぐ店のひとつの扉をくぐると慌てて後を追う。

 そこは雑貨や日用品を扱う店のようだ。恰幅のいい店主がパイプを片手に驚いて顔を上げる。

「ああ、ジーネ。今回は早いね。しかも二人連れかい?」

「まあ、色々あってね。こっちのことは気にしないでくれ」

 店主がまじまじと銀髪の青年を見る視線を奪うように、ジーネは鞄から出した五つの作品を置いた。二つは人物像で、もう二つは小物入れになる装飾が彫られた箱型の作品、最期のひとつは大きな杯を掲げた女で、杯に物を載せられる構造。

「いい仕上げだ。しかし、日常使いには少し重いかな。前よりはマシになっているが」

「石である以上、そこは仕方ないな」

「まあ……お客さんもいるようだし、少しイロをつけてあげよう。七〇〇〇リアラでどうだい?」

 いつもより何割も高めの売値だ。作品の作り手が満足していると、

「それで一週間生活ができるのか……?」

 店内を見回していたアルシェが疑わしそうに覗き込んでくる。

「いや、頑張れば何とかな。これでもいつもより多いし」

 とは言うものの、食費と日用品にかける金を切り詰めながら購入する程度だ。家具も食料の大部分も自給自足はできるが、普通の人々の生活水準には到底届かない。

「ここは別に、石の作品だけを買い取る店ではないのだろう?」

 言うと、邪神はいくつか着けている指輪のひとつを外す。赤い玉石が神秘的な輝きを放ち、金色の龍が周りを囲う細工は精緻だ。

「一応、護符のような力があるらしい」

 受け取った店主の目が光る。

「妙に重い、と思ったら純金か。これだけでも相当なものだよ。しかしわたしには魔力は見えないから、正確な価値は出せないよ。ここで買い取るなら、二〇万リアラといったところだ」

 それでいい、とアルシェは承諾する。見たことのない金額に魔女は目を見開いた。

「いいのかい、それは売っても?」

「倉庫に似たようなものがいくつも転がってるからな。それに」

 店主から渡された袋入りの金を受け取り、ずっしりとしたそれを持ち上げて見せる。

「買い物、とやらをしてみたいと思うのだ。いいだろう?」

 買い物も他人に愛をささやくこともしたこともなく、知識は本で得たものばかり。初めて人間社会に触れた邪神は子どものようにも思えるが、ジーネはひとつ思いつく。初めて庶民の生活に触れた高貴な者にも思えるのではないか。

「どうやら、そちらさんは階級が違うようで……ジーネ、しっかり案内して差しあげなさい」

 実際、店主はそのような誤解をしたようだった。

 店を出ると、ジーネはもらった七〇〇〇リアラを大事に鞄の中の小袋に入れる。

「買う物が決まってないなら、市場に行くかい? 食料もあそこが安いんだ」

「そうだな、色々な商品が見られる方がいいな」

 周りの屋台や飲食店にも目をやりながら、邪神はとりあえずは市場に向かう気になったようだ。

 辺境の街なので人混みがあるほどではないが、規模はこの辺りとしては大きい。二人が通りを歩きだすと周囲がざわつく。

「誰? あの綺麗な人……この辺りで見たことない」

「なんであんな汚らわしい娘があんな美男子を連れているの?」

 ざわめきから聞こえる声は主に若い女のもの。

「聞こえてます? アルシェさま」

 邪神の襟元からケーラが問う。

「気にしないよ。連中とは住む世界が違うさ」

 魔女は先回りするように、自嘲するような口調で言った。

 町の娘たちは皆、それぞれに自分を引き立てるような服装、流行りの服装をし、アクセサリーを身に着けている者も多い。

 一方のジーネは蜘蛛の巣や土埃くらいは落としてきたものの、それでも土や植物の液で汚れた服に防具の革エプロン、古い鞄にブーツと背中には武骨な剣だ。髪はボサボサで飾り気もひとつもない。

「あんな美しい人のそばによくいられるわね。〈汚泥の魔女〉らしい汚さだわ」

 誰かがそう言うと、アルシェはそちらを振り返り目を吊り上げる。

「何を言う貴様、失礼だろう!」

 怒声に女らは凍りつき、思わず「ごめんなさい」と口にする者もいる。

 そのまま、邪神は驚いて振り勝った魔女の腕を取った。

「あれだ、異様品店とやらはどこだ?」

 「はぁ?」とジーネが困惑すると、黒いコートの襟もとから補足が飛ぶ。

「衣料品店です、アルシェさま」

「それなら一番近いのはあそこに」

 魔女が指をさすと、彼女の腕を引いたままアルシェは衣料品店へと突入していく。

 そこは流行の衣服も扱う若者向けの店のようだった。人の体系を模した木組みがいくつもあり、衣服と靴、帽子やアクセサリーがそろって展示されている、ものもいくつもある。

「と入ったはいいものの、女の衣服の良し悪しなど我にはわからん。ジーネはどれがいいと思うんだ?」

 問われて面食らったものの、魔女は真剣に考え、

「この中で一番防御力が高そうなのは……」

「ちょっと待ってください!」

 言いかけたものを店員に聞こえないよう抑えながらではあるが、ケーラが遮る。

「防御力とか考えるところじゃないですから。わたくしが決めます。アルシェさま、腕を上げていてくださいね」

 こうか、と左腕を上げるその陰から、少しだけ黒目黒髪の小さな顔がのぞく。

「ああ、あれがいいです。あの青と白の」

 と小さな手が示したのは、ワンピースのスカートだ。白地に青いフリルが華を添え、縁取りと刺繍も美しい。スカートは幅も大きく、形もジーネの普段着にも近い。

「ああ、あれなら動きやすそうだし丈夫そうな……でも、三万リアラだぞ?」

 値段に魔女はギョッとする。彼女からすれば一ヶ月は食べていける金額だ。

「我が買うのだからいいだろう」

「ええ、それにいざというときのために、一着はこのような服を持っておいた方が良いかと」

 いつの間にかにこやかな女が目当ての服のとなりに現われ、その手にいくつかの装飾品やクシを持っている。

「また、この服に似合う髪飾りかリボンはいかがです? 髪をまとめるのもお手伝いしますので! よろしかったら靴の方も」

 熟練の店員が進めるのをアルシェはどれも受け入れ、手持ちの金の半分近くを消費した。

 衣料品店を出る際のジーネの姿は、入るときとは大きく異なっている。

 真新しいワンピースのスカートに飾り紐のついたブーツ、髪は左右の一房ずつを後ろでまとめて大きな青いリボンで留めている。頭上には小さな白い帽子が飾り羽を揺らしていた。背負っていた剣は鞄と一緒に脇に抱えている。

「いいですね、どこかの令嬢のようです。素材はいいから、きっとジーネさんは磨けば光る人なんですよ」

 店を出る際、ケーラは小声で絶賛していた。

「軽くて動きやすいけど、防御力のなさは気になるが……」

「町を出たら着替えればいいだろう。それに、我のとなりは安全だ」

 二人の足はもともとの目的地である市場へ向かっている。行商人も布一枚敷いただけの店を出せる自由市場だ。

「ねえ見て、あの二人」

 道行く者たちが振り返り、噂する声が届く。

「二人とも綺麗ね。こんな田舎じゃなかなか見かけないわ」

「貴族の旅行かしら。あの剣はよくわからないけど」

 姿を隠したままケーラはグッと拳を握って突き上げ、ジーネは急に異国に来たような、狐につままれた顔をした。


 買い物が終わったときには、すでに山並みの縁が黄金色に染まり始めていた。

「絶対食べきれないだろう、それ」

 ジーネがあきれた目を向ける横で、邪神は山積みの荷物を軽々と運んでいる。そのほとんどは食べ物だ。

「見ているうちに、これはあの本にあった食べ物だ、あれに出てきた料理だ、と思い出してきてな。本を読んだだけじゃ味はわからないだろう?」

「それはそうだけれども」

 門を出ると、人の目がないことを確認してアルシェが転移魔法を発動する。

 目の前に現われる、自然の中にポツンと建つ小屋。

「ほんと、よくここに一人で住めますね」

 インプが空中へ姿を現わす。見渡すそこに小屋を守るのは、申し訳程度の木柵くらいだ。

「たまに獣は寄って来るけど、今のところどうもなっていない。儂の魔法でも獣を驚かせるくらいのことはできるしな」

「とはいえ、あの家だけでは荷物を置くこともできん。とりあえず」

 邪神がことばを切ると、ズボッ、と大きな音がして、草が刈られた周辺を囲うように石垣が地面から生えた。さらに、庭にどこからか木の棒や板が集合し、テーブルと長椅子を備えた三角屋根の東屋を作りあげる。

「へえ、これは良さそうだ。そこで夕食にしようか」

「ああ、今日のうちに食べろと言われたものがいくつかある」

 ジーネはいつも購入する干し肉やパン、日持ちする物を買い、礼にと食事のひとつも振る舞うつもりでいた。アルシェが食料を大量購入するまでは。

「せめて食器とお茶を用意する……ついでに着替えるから、ここで待ってろよ」

 ジーネが家へ戻る間にも、アルシェは買った物を整理して食料をテーブルに並べていた。その中で早めに消費しようと皿に載ったのは鶏の串焼き、キノコと豆のグラタンタルト、川魚のハーブ蒸しを葉野菜で包んだもの、そしてベリーソースを塗ったチーズケーキだ。

「こんなご馳走もらっていいのか?」

 他人の金で奢られるというのも、彼女にはなかなかない経験だ。

「当然だ。邪神が愛した人間を飢え死にさせたとか、どういう後世の笑いものか……いや、死なないが。死なないからこそ飢えは辛いぞ」

 飢えて身動きも取れないまま生き永らえる。ジーネは昔読んだ物語の、腐り果てた身体のまま永遠に生きて苦しむ元賢者のことを思い出して動きを止める。

「わかった、できるだけ健康でいないとな」

 夕日に照らされながら、人間とその向かいに邪神とインプ、という構図で夕食を取る。ケーラはどうしてもテーブルの上に座ることになるが。彼女の大きさに合わせて料理を切ってもどうしても具材は大きくなってしまう。そのため小さく切り分けた後、アルシェが魔法で小さくしていた。

「美味しいですね。キノコの味が染みていて」

「この串焼きは以前食べたハーピーの肉に似ているが、もっと柔らかくていいな」

 人ならざる者たちの舌にも、人間向けの味付けは合っていたらしい。ジーネも普段は口にできない料理をしっかり味わって食べていたが、特にチーズケーキを口にしたときには目を見開いた。

「ケーキなんて十年以上ぶりに食べたけど、本当に美味しいもんだねえ……もう食べられないだろうに食べたくなっちゃうよ」

 しみじみと言う魔女の様子に、どれどれ、とケーキを口にしたインプも目を丸くする。

「美味しいです! ケーキは何度か食べましたが、地上のはさらに美味しいですね」

「そんなに食べたいなら、またいつでも買ってくるぞ? ケーキは他にも色々と種類があるようだしな」

「いつでも?」

 意図せず、女二人の声が重なる。

「いつでもってことは、本当にここで暮らすつもりかい? どう見てもあんたの今までの生活水準にならないし、寝床もない、身体を洗うのも川で拭くくらい、娯楽もないし……儂は世話なんてできんよ、自分の面倒で精一杯だ」

 心のどこかで目を逸らそうとしていたが、邪神は自分を愛し、確かにずっとそばにいようとしているのだ――それをはっきり認識してしまい、ジーネは急にいたたまれなくなる。

「大体、なんで邪神が人間に一目惚れするんだよ。邪神には邪神なりの仕事かなんかあるだろうし、人間のいる場所に来る意味もわからないし……遊びか? 遊びのつもりで一目惚れした、ならわかるが、恋愛ごっこのつもりなら――」

「まさか」

 アルシェは心底心外だ、という声を上げた。

「我は真面目だぞ。真面目で忠実で、だから一万の石柱を建てろと言われればそうしたし、百年図書館を管理しろと言われても千の魔法石を集めろと言われてもそうしたのだ。その結果……我は自由になった」

 彼は少しことばを選び、考えを巡らせてから話した。

 自由になってまず、何をするか。それを考えて頭に浮かんだのは、人間たちの書いた本で何度も目にした〈愛〉についてだ。人間の書く物語、あるいは伝記や手記などでも、愛し合う喜びや素晴らしさ、切なさ、ときには残酷さもよく描かれていた。

「とはいえ、これが愛かは我にはわからん。もしかしたら愛着かもしれない」

「なら、あんたはもっと色々な人間に会えばいいんじゃないか。もっと好みの娘がいるかもね」

「少なくとも、あの町にはいなかったな」

「あのう」

 遠慮がちにケーラが口を挟む。

「わたくしが心配しているのはですね。ずっとここで暮らして買い物をするならお金が必要ということです。倉庫の物でしばらくは大丈夫でも、永遠に物を売り続けられるわけでもありませんし」

 インプの指摘は現実的で、アルシェは動きを止める。

「そ、そうだな……所持金が尽きる前に稼ぐ方法を考えておこう」

 真面目で忠実な邪神が人間の金を稼ぐことに悩む姿に、ジーネは内心、不可解さと面白さを同時に覚えている。

「まあ好きにやってくれ。儂は他人に期待しないから、そちらも儂に期待しないでくれよ」

「大丈夫だ……寝床と風呂も作れるしな。風呂は後で温泉でも、というか、確かこの辺りの地形なら掘れば温泉が出るという記述を見かけたはずだ」

「そうなのか?」

 つい期待しそうになって首を振る。しかしアルシェは気にしない。

「出来たら好きに使え。我の物は貴様の物ゆえにな」

 見下したような口調とは裏腹に、邪神は明らかにほほ笑む。

 陽は山並みに大部分が沈みつつある。夕食を片付けると、アルシェは小屋の近くにある木の枝の上に小さな足場と小屋を作った。足場は枝に負荷をかけずに支柱に支えられている。梯子で地上とつながる小屋はジーネの家より小さく、本当に寝床だけの目的のもののようだ。

「森の倒木や落ちた枝を分けてもらった。家具を作って売るのもいいかもしれない。あまり洒落たものはできないが」

 それから彼は思い出したように購入した包みの一部を抱えて魔女宅へ向かう。

「どうする気だい?」

「もののついでだ」

 パチン、と指が鳴る。すると、ベッドが木枠と寝台を備えたものに変化した。ベッドの上段に収納がついた機能的な構造で、今までより大きい分物を片付けられるようになっている。そこにアルシェは町で買った、やや薄手のマットを敷く。

「毛布の一枚も追加すれば良かったか……まあこの次だ」

「あ、ありがと。今までより快適そうだ」

 枕とツギハギだらけの毛布を並べ、彼女は歯切れ悪く言う。

 アルシェは気にせず、調味料や瓶詰などをテーブルに並べていた。

「棚を作った方がいいか……それだと手狭になるか? むしろ、家を広くするのが先か。ジーネはどうしたい?」

「最近、アトリエも小さく感じて……いいや、今日のところはもう休みたいところだ」

 できることが、叶えられる願望が多いとわかると、つい期待をかけてしまう。魔女は自分の心境に戸惑った。

「そうか、考えてみれば人間の体力では今日の行動範囲は広いからな。早めに休むのも良いだろう。我はもう少し工作しておく」

「ああ、おやすみ」

 ジーネにお休みと返して、邪神は出ていく。

 ベッドに腰かけ、その感触を確かめながら、彼女はここで誰かと挨拶を交わすという経験にも驚くほど心地良さを感じていた。


「ほら、こっちですよ」

 インプに案内されて剣を背負った魔女が登るのは天然の違和の階段だ。行く手には作品の材料を採取するために何度も通っている岸壁があるが、いつもの現場とは少しずれている。

 周りから木々が途切れると、目的地はすぐに目に飛び込んでくる。

 岸壁沿いに湯気を昇らせる岩風呂に、四隅の支柱に支えられた屋根。左右は足首の高さから板が何枚か等間隔に並べられて渡され目隠しになっていた。風呂の手前側には木板を敷いた足場があり、岩の角が足に触れないようになっている。

「へえ……眺めもいいし良さそうだね」

 湯はどんどん湧き出してあふれ出し、周りの岩を伝い下へ還っていくようだ。

「温度も成分も問題ない。ここのことが知れたら、『山奥の秘湯を巡る』とやって来る命知らずがいそうだな」

「儂らだけの秘密にしとかんとね」

 岩に座り待っていたアルシェに言うと、ジーネは手を湯に入れてみる。温泉としてはそれほど高温ではなく、丁度良い温度だ。

「入るときは手前側に布かすだれでも吊るすか。覗くなよ?」

「人間の女の裸に興味は、ないこともないが」

「素直だな」

「しかし、構造的には神のものと変わらないだろう」

 と、邪神は思案する。

「古い神には全裸が至上主義者もいて見慣れているからな」

 何だそれは、と魔女に問われ邪神は説明する。

 最初は皆全裸だった。初めて衣服を作り出したのは人間だ。神は防御も暑さ寒さも虫も問題としない。服が人間たちから輸入されたのは、それが芸術性を備えてからだ。

 だから神々が服を着たのは人類よりずっと後だが、全裸こそ最も美しい、あるいは単純に面倒だから着ないという主張のものも少なからずいると。

「わたくしたちが生まれた頃には、着る方が優勢でしたけどね」

「どりゃあ良かった」

 魔女は心の底から思う。アルシェが全裸至上主義だったら永遠の命よりも毒針での死を選んでいたかもしれない。

「服……そうだ、貴様の家のことだ。我は全体的に広くなればいいと思っていたのだが」

 思い出したように口を開き、彼は頭上に目を向ける。

「絶対、寝室があった方がいいと思うんですよ! クローゼットも必要でしょう」

 小さな手で拳を作り力説する。ジーネもアルシェと同じように考えていたが、言われてみれば納得する。昨日購入した服や帽子などもまだ鞄の中にあり。どうしようか迷っていたところだ。

「確かに収納が増えた方が作品の置き場も増えるだろうし、服の置き場もあれば便利だね。石も今までより置いておける」

 言うと、背負っていた聖剣を抜いて右手に握る。

「どうした、その剣?」

「これはな……」

 と、彼女は岸壁の、すでに切り出した跡のある辺りへ歩み寄った。そして剣を突き出すと、簡単に岩は切り抜かれる。

「やっぱり、聖剣の切れ味は格別だな」

 ご満悦という様子の魔女を眺めていた人ならざる二名は、顔を見合わせた。

「なんだか、おいたわしいと言いますか」

「まさか伝説のテューリアの剣とその作り手も、あのように使われるとは夢にも思わなかっただろうな」

 そのやり取りをよそに、楽に石を手にした魔女は軽い足取りで引き返す。しかし、家に入る前に足を止めた。

「先に改築を済ませてしまうか。まず寝室を作り、手前と奥、寝室の逆側へ残りを広げるといいだろう」

「中のものは大事に扱ってくれよ」

 ジーネのことばを聞くか否かのうちに、小屋の周りに木材が現われ、自らあるべき場所へ収まっていく。

 カタタンとあちこちで音が鳴り部屋が増え、屋根が飛び上がり壁も次々はがれては作り替えられてより大きくなって再びはめられていく。腐りかけていた板や折れたものは新調されたようだ。

 出来上がった家は新築に見えた。

「外観は整っているけど、中はどうかな」

 ジーネは作品振動が悪影響を与えていないかが一番の気がかりだった。

 新品のドアを開けると、すれ違うのも一苦労だったテーブル周りの広さが目立つ。左側の壁にドアがあり、その奥の寝室に移動したらしくベッドは見えない。新しいかまどに水がめの他机と収納も増えている。今までテーブルで料理をしてきたが、今後は机を利用できるだろう。

 テーブルの奥に椅子がひとつ増え、その奥には部屋を仕切る長机。奥のアトリエも棚がひとつ増え、一角は空いている。並んでいる作品も見たところは異状はなさそうだ。

「これまでより沢山作って保管できそうだな」

「そうだろう? 転移魔法なら沢山運べるし、沢山売れもする。どうだ我は便利だろう」

 邪神は得意げに胸を張る。しかし、頭上でインプの少女は納得いかない顔をした。

「便利って誉めことばではありますが、どちらかと言うと物のような扱いと言うか……アルシェさまはそれでいいんですか、都合の良い存在で」

「とは言われても」

 彼は腕を組んで考え込む。

「愛されたいならまず見返りを求めない愛を与えるべし、と読んだからな」

 彼が口にした一節にはジーネも覚えがある。むしろ、この大陸の人間でその一文を知らない者の方が珍しいくらいだろう。

「それは『光神の預言書』に出てくる第一の教えだろ。いいのか邪神がそれに従って」

「なっ、本当か? いや、いい、たまたま割れの信条と光神の考えが一致したのだ」

「それはそれで駄目な気がしますが」

「まあ、それに従ってるなら、一応アルシェは愛されたいと思ってるんだな」

 言われて、邪神は再び首をひねる。

「邪神に家族はおらず、ずっと孤独なのが普通だ。しかし……好意を向けた相手が知的生命体なら、確かに相手からも好意を向けられたい……それが自然、と思う」

 実感の伴っていない曖昧な口調だった。本人にもよくわかっていないらしい。

「まるで子どもだねえ……いや、孤独から出発してるんだから、人間の子とは出発点が違うか」

 掘り出してきた石を木箱に入れると、ジーネは調理器具を取り出し新しくできた棚へ並べ、最後に手にした鍋に水を入れかまどの上に置き、火打石でかまどに火を入れる。

「人間は孤独から出発しないのに、ジーネは孤独を気にしない。他人には期待しないのは昔からなのか?」

 アルシェは椅子のひとつに座り、軽く立てた人差し指を振った。テーブルの中心に町で購入したハムとオムレツのサンドイッチ、それにクッキーが麻袋ごとの状態で現われる。そろそろ昼食どきだ。

「子どものころはもちろん違ったさ」

 付近でとれる山菜を町で購入した干し肉や豆と一緒に切り、鍋へ入れてかき混ぜる。

「儂は遠くの町で両親と三人の弟妹と暮らしていた。両親も魔法が使えてな。魔術師ではなかったけど」

 両親とも、使える魔法は日常生活で少し便利、という程度のものだ。それでも魔力を持つ血筋に違いないらしく、弟二人と妹は十歳前後にもなると次々と魔法の使い手になり、それも親よりも強力な魔法を発現させた。弟たちは魔術師への道も進路に入れたほどだ。

 四人の中でジーネが一番魔法の発現が遅かった。しかし家族の誰もが、彼女が強力な魔法を発現させることを疑わなかった。弟妹たちの世話をしながら、心のどこかで期待と不安を抱いた末――妹に遅れること二年後、そのときは訪れる。

 ジーネが使えるようになった魔法を知ったときの両親の顔を、彼女は忘れられない。父は「お前には何も期待しない、好きに生きろ」と不機嫌そうに言い、母は「かわいそうに」と憐みの目を向ける。それまでジーネの作る料理を美味しそうに食べていた弟や妹たちでさえ、どこか見下すようになっていた。

 家に居辛さを感じたジーネは学校卒業とともに、山間の田舎の村にある母の実家の祖父母の家で暮らすようになった。

「一番がっかりしたのは、自分でも自分に期待して、それを裏切られたと思ったことだね。どんな魔法が発現しようと自分は自分、一生つき合っていかないといけないのに。ま……悪いことばかりじゃなかったけどさ」

 祖父母は彼女を色々な場所へ連れていた。そこには魔法が使えなくても楽しく生きる者、素晴らしい技術を持つ者も多くいた。技術を磨いて生きる糧にしようと――そう決意した彼女は祖父母が亡くなると独り立ちして今へ至る。

「だから、儂は勝手に期待しない。期待しなければ裏切られたと思うこともない」

 話しながら、調味料を鍋に入れる。その調味料はアルシェが購入して棚に置いておいたものだ。

「なるほどな。なら、貴様は我に期待してもしなくてもいい」

 そのことばは、第三者から見れば意味をなさないとされてもおかしくないものだ。それでもなぜか、ジーネはどこか解放されたような気がした。

 ――自分を縛っていたのか、儂は。

 今更それに気がつくも、邪神はさらに続ける。

「期待を裏切られたと思ったら怒ってもいいしあきれてもいいし……そうだな。殴ってもいい」

 思わず、手にした調味料を大きく傾けて大量に入れそうになり、魔女はどうにかこらえた。

「殴るってそういう趣味があるんじゃないだろうな」

「趣味? 何を言っている。愛する者からの痛みを受け入れろ、とも本にあったぞ」

「だからそれ、神の預言のことばですよね? 力づくでも我が物にする気はないんですか?」

 インプの疑問にアルシェは真顔で応じる。

「力づくでどうこうするのは見かけ上は自分のものになるかもしれないが、心は離れるだろうから真に我が物にしたとは言えないだろう」

 ケーラは目を丸くする。

「あ……圧倒的正論ッ……! アルシェさまは思慮深いおかただと思っていましたが、これほどとは」

「なんか……邪神、ということばの定義を疑いたくなるね」

 あきれと感心の混じった顔で満足そうな相手を眺めていたジーネだが、鍋の中のスープがグツグツと煮え立ってきたことに気がつき、棚から皿を取り出す。この家には食器もフォークもスプーンも石製の物がひとつずつしかなかったはずだが、今はアルシェが用意したらしい木製のものが三つずつ並んでいる。

「まあ、過去のことは気にするな。我が貴様の魔法となろう。貴様の家族もどの人間も持ち得ない力だ」

「確かにまあ、便利には違いないけどね」

 言いながらも、魔女は認めたくない気持ちがあるのは否定できない。しかしスープはしっかりと三人分を並べた。それは食料や家具などに対する、ささやかな礼のつもりでもあった。

 アルシェは椅子に腰を下ろし、サンドイッチとクッキーを分ける。ケーラの分は大きさにあった状態へ変化していた。

「あ、そういえばジーネさんの魔法はふたつあるんですよね」

 用意された小さな皿に入ったスープへ息を吹きかけ、冷まそうとしていたところでインプの少女は顔を上げる。

「ひとつは汚い泡を出す魔法なのは知っていますが、もうひとつ、視界を遮る魔法っていうのはどういうものなんです?」

 いつかはきかれると思っていた質問だが、それにも関わらず、魔女はああ、と応じてから言いにくそうに一拍置いた。

「ふたつ目の魔法は……対象の右目の視界の右隅に、一日中常に儂の顔が貼りついて見える、という」

「なんだ、我には苦にならない魔法だな」

 邪神は拍子抜けしたように言う。ジーネは妨害にならないという意味に受け取ったが、ケーラの続くことばで自分の誤解を知る。

「それは少し変態っぽいような……うーん、一目惚れしているならそうでもないんでしょうか」

 釈然としない様子でスープを彼女専用のスプーンですくう。すると口に運んだ途端に目が見開かれた。

「美味しいです。彫刻だけでなく料理も上手いんですね。あとは、その儂を直してもらえれば。一文字足すだけじゃないですか」

「文字数の問題かい。もう十年以上これが癖になっとるよ」

 祖父母のもと、周りの大人に自分を〈儂〉と呼ぶ者が多く、しっかりそれが彼女にも染みついていた。

「我は別に気にしないが。ありのままを受け入れるぞ」

 アルシェはじっくりとスープを味わっている。

「何を言ってるんです、ずっとここにいるならともかく町で聞かれたら、また妙な目で見られますよ。それにジーネさんだけでなくアルシェさまも同じように直しが必要です」

「なっ……そんなに人間の中では不自然か?」

 邪神は驚き手を止める。

 言われてみればアルシェの一人称や口調は人間の町を歩くのに向いていない。まじまじと向かいの席を見て、ジーネは納得した。

「そうだ、帰る必要があるな。なに、自分を呼ぶのに一文字変えて一文字足すだけだ」

「儂じゃないのか」

「それはアルシェさまには似合いません。あと、服もそれでは目立ちますね」

 ケーラの指摘通り、アルシェの服装は高貴な身分の者を思わせる。町では非常に目立つには違いなかった。

「今度町へ行ったら、我の服も買うことにしよう。人間の一般人の服とやらにも興味はあるからな。ジーネ、貴様の服も買うので案内してくれ」

「交換条件か。いいよ、前のところより安い服屋も一軒あるからな」

 承諾してクッキーを口に入れ、魔女は久々に食べたそれの美味しさに少し驚いていた。

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