汚泥の魔女は期待しない

宇多川 流

汚泥の魔女は期待しない(前編)

 淡い黄土色の壁の上から乾いた音がしたのを、魔女は敏感に聞き咎めた。見上げた薄緑の目には天井の端にある小さなに逃げ去る小さな蛇が映る。

 この遺跡は壁全体が発光しており、明るさだけなら安全な側に入りそうなほどだ。どのような魔物も害虫も、その姿を隠しだてすることはできない。しかし、魔法的なものを含むいくつもの罠がこの最深部に至るまでに仕掛けられていた。

 落とし穴、突き出す槍、毒ガス、石を指定の形に組み合わせなければ開かない扉、回転する部屋を動かして道を作る通路などを潜り抜け、長い栗色の髪を無造作に流した魔女ジーネ・クライスは最後の回廊に入った。

 道の行きつく先には、大きな両開きの扉。ところどころがひび割れた赤い石製のそれはいかにも重そうだ。

 彼女はまず魔力の有無を感知して扉に魔法がかけられていないことを確かめ、扉の下や天井に穴がないか見回し、口を毒ガス除けの布で覆う。

 本当は太いロープか何かを引っ掛けて開きたかったが彼女はロープを持っておらず、魔法もその代替になるようなものは使用できなかった。この世界の魔法の使い手はひとつから三つの魔法を発現させる。どの魔法を発現させるかは使い手にも選べない。

 目的地を前にはやる気持ちを抑え、ドアノブへと革手袋に包まれた手を伸ばす。

「あ」

 時間が止まって見えた。

 ドアノブの下に隠れるようにして開いた、小さな亀裂のひとつにしか見えない穴からかすかな擦過音が鳴り、銀色に輝く細い針が突き出す。それがほとんど全体を見せたところで停止していた。

 ジーネは終わりを覚悟する。彼女は防具として革製のエプロンを服の上に着けているが、近距離でこの勢いで刺されたら貫通して皮膚の下には達するだろうし、おそらく毒が塗られているだろう――そんな予想が頭の中を巡る。

 反応できる時間はない。彼女はただ覚悟して待つ。

 しかし、その瞬間は訪れない。

「運がいいな、魔女よ」

 異変に気がつき始めたとき、若い男の声が響く。

「あんた……誰よ?」

「我は、アルシェザート・ドンゴール。上級邪神だ」

 呼びかけに応じ、扉の横にふたつの姿が現われる。

 ひとりは銀髪に紫色の目の美しい青年。魔法的な紋様が刺繍された黒いコートに首もとにはスカーフを巻いた姿はどこか貴族のような雰囲気で、色の白い顔には挑戦的な笑みが浮かぶ。

 もうひとりは、大人の手のひら大の小さな少女。黒目黒髪に先の尖った耳、蝙蝠のような翼を持つ。身体の線が出る生地の少ない黒い服も、図鑑などにある種族の特色として掲載されている。

「そっちは女インプか。じゃあ、邪神っていうのは嘘じゃなさそうだな」

 ジーネは油断なく相手を見るが、針と同じように彼女の動きも停止しているらしく、口を除いて微動だにできない。

「さすが魔女は察しがいい……貴様にふたつの選択肢をやろう。好きな方を選べ。ひとつ、毒の贄となり朽ち果てる道。もうひとつは、我が生きる限り、我が唯一の人形となる契約だ」

「わたくし、ケーラがわかりやくす説明しますね」

 インプの少女が丁寧にことばを続けた。

「選択肢のひとつはこのまま毒針に刺されることです。毒は即効性の強力なもので、あなたは刺されて間もなく死亡します」

 それはナシだ、とジーネは思う。一番自然な結末だとしても。

「唯一の人形、っていうのは?」

「まず、あなたは永遠の命を得て助かります。ただし、アルシェさまが生きている限り、あなたを愛する者もあなたが愛することができる相手もアルシェさまだけになります」

 インプの少女のことばに一瞬だけ、魔女は拍子抜けしたような顔をする。しかしすぐに考え込み始め、やがて邪神と名のる男へ向けて口を開く。

「その……愛することができるのは物も含むのか? 例えば動物とか好きな食べ物とか」

「そこか? 制限対象は、恋愛対象になり得る知的生命体だけでいだろう」

「なら、いい。今聞いた条件で契約する。途中で変更はないよな?」

「神の契約は絶対だ。では、契約成立だな」

 目の前の一点が輝き、ジーネは目を逸らそうとしたが動けない。しかし光はすぐに消え、同時に毒針も跡形もなく消えていた。

「愛されることができる、愛することができる……とは言っていたが、愛さなきゃいけないとは言われなかったな」

 身動きが自由になると彼女は不敵に笑う。一方、邪神は不思議そうに目を細めた。

「誰からも愛されない人生は寂しいだろう?」

「愛を求める生き方をしていたら、ここにいないっつーの。それに、あんたが生きている間とも言ったよな。あんたを倒せばそこは解放される訳だ」

 罠のなくなった扉を軽く叩くと、魔女は再びドアノブに手をかける。

 倒す、と言われた側はそれが実現不可能だと思っているのか、怒ることも笑い飛ばすこともなかった。

「それはそういう条件だからな。しかし、どう倒すつもりなんだ?」

「この奥に何があるか、邪神さまなら知っていると思うけどね」

 ここは宝を探し求める者や古代の歴史に興味のある者たちの間では有名な遺跡だ。その一番深いところには、かつて英雄が封印したという伝説の聖剣、〈テューリアの剣〉が眠っているとされる。

 有名でありながら未だ発掘されてはいない。それは張り巡らされた罠の賜物か、せいぜい半分程度までしか侵入の記録はない。

「その聖剣の力なら我を倒せると? ここまで来ただけでも大したものではあるが、どうやら魔法で我を倒す、とはいかないらしいな」

「儂の魔法に、そんな力はないね」

 魔女は面白そうに、また自嘲気味にも見える笑みを浮かべる。

「どちらも戦いには向いとらん。滑らかな面に泡を発生させる魔法と、相手の視界を少し塞ぐ魔法だ」

「それはそれは……」

 邪神とインプは顔を見合わせる。本当にそのふたつしか使えないならば、魔法の力を借りずにここまでやって来たということだ。凄まじい判断力と知識、慎重さだ。

「しかし、伝説を知っているなら理解しておろう。聖剣は誰にでも抜けるものではない。それに、その扉も凡人の力では開くことも――」

 嘲笑うような声を背後に、ジーネは片手で押し付けるようにしてぶ厚い扉を開いた。重い物が擦れ合う音がズズズ、と響く。

 その光景には人ならざる者たちも目を見張る。

「なんだと……力強いな!」

「これだけが取り柄でね」

 扉を開け放ったそこは半球形の、広大な空間になっていた。中央には台座があり、その中央に白く輝く両刃の剣が突き立つ。剣が放つ魔力の強さは、魔法の使い手の目にはあきらかだ。

「あれがテューリアの剣だ。ここまで辿り着いた者は三人目だったか。前の二人は抜けなかったそうだが。その二人は人間ではなかったから、人間でここまでいただけでも大したものだな」

「確かに、力量はありますけども」

 部屋の中心部へ歩き出すジーネの後ろで、感心するアルシェのことばにケーラはやや不満そうな声を返す。

「本当に、このかたで良かったのでしょうか? 見た目はまあ良いし頭も悪くなさそうとはいえ……」

「なんだ、我の選択の何が気に入らない?」

「だって、アルシェさまを倒そうとすることは百歩譲って良いとしても、独りでここまでくる人間という時点で変人だし、ことばは粗暴で自分のことは儂ですよ、儂」

「少し変わった人物の方が飽きが来なくていいと思うが」

「少しじゃないですよ! すっごく田舎の荒くれ物の家の人間だと思います。歩き方ひとつとっても品性の欠片もない――」

 ジーネが立ち止まって振り返り、ギロリ、と睨む。思わずインプは、ヒッ、と喉を鳴らした。

「おい虫! 黙らないと真っ先に叩っ斬るよ!」

「はいっ、すいませんでした!」

 ケーラは逃げるように今までより高く飛び上がる。

 魔女は剣の突き立つ台座へ向き直り、剣の柄へと手を伸ばす。白い翼を模した美しい装飾のついた柄は弾力のある革製のベルトが巻かれている。

 しっかりと両手に握り、力を込める。

 しかし、頬が紅潮するほど力を入れてもわずかに傾いただけで抜ける気配はない。

「さすがに無理か」

 握る手のひらに柄が食い込むほど握りしめても動かず、アルシェが少し残念そうに言う。

 だが、魔女はあきらめてはいない。

「仕方ないな」

 軽く手を剣の柄の端に置き、精神を集中する。邪神とインプには魔力が台座周辺へ集中していく流れが視えていた。

 ポンッ。

 気の抜けるような音とともに、辺りが泡まみれになる。それも、茶色く濁った泡だらけに。

「うわ、掃除には使えそうかと思ってましたけれど、この汚さじゃそれも無理ですね」

「しかも何だこの匂いは……油?」

 剣と台座を覆う泡を前に、邪神は鼻をつまんで後退る。

「こいつのおかげで儂は〈汚泥の魔女〉の異名をつけられてな……まあ、そんな魔法でも使いようはある」

 再び魔女は剣の柄を握る。滑らないよう、布越しではあったが。

 力を込めると、ギギギ、と何かを擦るような、先ほどはなかった音が鳴る。

「おお……」

 剣の位置がずれていくように見え、人ならざるふたりも身をのり出す。

 やがて。

「わー!」

「は……?」

 インプが驚嘆し、邪神は唖然とする。

 聖剣が抜き放たれて魔女の頭上に振り上げられていた。――台座ごと。

「ぬ……抜けた!」

 わーわー叫び続けるインプと立ち尽くす邪神の前で魔女はニヤリと笑う。

「なんだあの怪力……もしや、あれが第三の魔法なのでは?」

「ああ……常時発動型の強化タイプですか?」

 やっと我に返ったアルシェのことばにケーラも正気に返る。

 そこへ、台座に刺さったままの剣をかまえてジーネがにじり寄る。

「さあ、邪神退治の時間だ」

 アルシェは相手のことばに、挑戦的に笑みを向けた。

「その不格好なモノで我を倒せると?」

「やってみなけりゃわからないだろ」

 邪神の手には赤い光が集束しつつある。魔力を感知すればそこに強い魔力が増幅されていくことを認識できただろう。

「おもしろい、我が目に留まっただけのことはある。かつて読んだ本にも、殴り合って愛を深め合う者たちが書かれていたからな」

「それは、男同士の友情の話だったと思いますけど……」

 後ろからの控えめな指摘は、邪神には聞こえなかったか、もしくは気にしないことにされたらしい。

 笑みを浮かべながらそれぞれの得物を手にかまえ、対峙する二名。

 案外、似た者同士かもしれない――もはや完全に他人事目線で眺めながらケーラはそう感じていた。

「そりゃあー!」

 雄々しい気合の声を上げながら先に動いたのは魔女の側。

 しかし、人間より大きな石塊付きの剣など、攻撃の軌道は見え見えだ。それはいかに怪力とはいえ、巨大な石を持ち上げながら高速で振る、とまではいかない。アルシェは簡単に大振りの一撃を避けて光弾を放つ。

 反射的に、ジーネは光弾を剣で受ける。

「イテッ!」

 バラバラと石つぶてが飛散し、彼女は顔を背けた。

「あ」

 アルシェは光弾を放ったままの格好で動きを止める。

 彼が放った光弾は魔女が手にする剣が刺さっていた、石の台座だけを砕いていた。残されたそこには雪のように白い聖剣テューリアの刀身が淡く輝ている。

「これは好都合だ」

「そんな、聖剣を手にできるなんて……英雄の素質を持っている人間ですか?」

「いや、聖剣の力を開放しきってはいない。力任せに引き抜いただけだ」

 と、ドクロの石がついた指輪をつけた指が白い聖剣をさす。

「それでもかまいやしない。丈夫で切れ味もよさそうだし、邪悪なものは寄せつけない、それくらいの力はあるらしいしな」

 周りのものを追い払おうというかのように魔女は剣を振る。

「質のいい剣としては使えるだろうが、そのためにわざわざここまで来るとはな。聖剣を使いこなせそうな相手に心当たりでもあるか、それとも売って金にするのか?」

「いいや」

 相手のことばに彼女は首を振る。

「儂はこれでも彫刻家なんだ」

 そのことばはすんなりと受け入れられる。この世界の人間が使える魔法は多くて三つであり、どの魔法が使えるのかも選べない。専業の魔術師はほんのひと握りだ。多くは大工に有利な魔法が使えれば大工に、料理に有利な魔法が使えれば料理人に、と魔法の特性に合わせた職業に就く。

「しかし、最近手に入れた石が固くてな。力を入れてもノミの方が曲る始末」

「それで伝説の剣を……? やっぱり変人じゃ」

「その石とはどういう石だ?」

 再び睨まれて黙ったインプをよそに尋ねるアルシェの様子に、ジーネは首をかしげる。

「そんなことが気になるのかい? アトリエの近くから掘り出した、白い石だけど」

「そうですよアルシェさま、石なんて」

 まったく気にするところではないのでは。という顔の女二人だが、邪神は大真面目に言う。

「何を言っている、あの怪力でも彫れない石だぞ。石自体、普通じゃないに決まっている」

「確かにあんな硬いの出会ったことなかったし……石自体、ほんのり輝いて神秘的ではあったけど」

 ジーネは思い出しながら話す。剣をかまえたままではあるが、完全に毒気を抜かれた表情。

「我はその石を見てみたい。オリハルコンの可能性がある」

 オリハルコン、別名賢者の石。その石を手にすると無尽蔵の魔力、無数の魔法が使えるようになるという。魔法の使い手ならば誰もが知り、それを手にしたいと願う。

「オリハルコン……ホントか? 触れても何も感じなかったが」

「オリハルコンには何度か触れたことがあるが、明確に呼びかけねば起動しない。我が触れたのは不完全な代物で頭の中に流れ込んでくる魔法の種類も五〇程度だったが」

 かつて、完全なふたつのオリハルコンが存在したという。しかしひとつは過去の神々の戦いにより砕けてバラバラになり、完全なるもうひとつともども、行方不明になっていた。

「確認した方が早い。見せてくれたら使い方を教えてやろう」

「そう言って奪うつもりじゃ……しかしこうしてる間にも、誰かに盗まれる可能性が」

 ジーネは少しの間口の中でブツブツ言っていたものの、やがて決心したらしい。

「わかった、確認してもらおう。ここからそう遠くはない」


 遺跡は、小山の山頂近くにある。緩やかな下り坂の獣道を抜け、草原に出ると視界は晴れるが人里からはかなり遠い。見渡す目に映るのは丘の草原を囲う森と海、遠くの山並み、そして雲がまばらに散る空。

 緑の中を、ひどくその風景に不釣り合いな大きな黒衣の姿と小さな黒衣の姿がひとつずつ、栗色の髪の魔女の後を追っていく。

「まったく無いではないが、異世界に来たような気分になるな」

「そりゃ、アルシェさまは引き篭もり生活が長かったですからねえ」

 新鮮な様子で辺りを見渡し吹き抜ける風を吸う邪神を、ジーネが珍しそうに振り向く。

「引き篭もり……邪神も魔女と大した変わらないな」

「ち、違うんです」

 誤解を解こうというようにケーラはジーネの前に飛来し首をブンブン振る。

「アルシェさまは長年、大図書館の管理を任されていらっしゃいました。決してほかの邪神とのつき合いが苦手だとか、他人より本と向き合っていた方がずっと好きだったとか、会話の仕方がわからないとかではないんです!」

「待てケーラ、そう力説すると逆に怪しいだろう。我はただ早く出世するために忠実に、人類の社会や思考傾向を分析するという業務をだな」

 主従のやり取りに少しの間ジーネは沈黙し、

「どうにしろ邪神も世知辛い世界なんだな……」

 とつぶやいた。

 邪神とインプの言い合いは長くは続かない。草原が下り坂になると目的地はすぐに目に入る。

「ほら、あそこだ」

 彼女が指さす先にあるのは、古い倒木と朽ちかけた木板を組み合わせたようなほったて小屋だ。脇にある桶と水がめがかろうじて生活の痕跡を見せる。近くには小川と大きな木、少し離れたところに岩肌をさらす岸壁も存在する。

「あれが……」

 インプが表現することばに迷う。とても女独りが暮らす家とは思われない。

「辺境に暮らす変わり者の芸術家が暮らす家としては……あり、なのか?」

「なのか、じゃないですよアルシェさま! この人をアルシェさまの住居に迎えないのなら、我々もあの家で暮らすんですからね」

 インプのことばに、他二名は衝撃を受けたようだ。

「儂一人でも手狭なんだぞ、アトリエもあるし」

「そうなるのか……? 確かに地上に拠点はないが」

「やはり人選に失敗してますよ!」

 小さな両手で拳を作り、インプは力説する。

「家だって、アルシェさまのお屋敷ならもう少し飾り気……はなかったかもしれないけど清潔だったし、居心地よ……くはなかったかもしれませんが、少なくとも崩れる危険は感じませんでしたよ!」

「歯切れ悪いな! 涼しくて快適だっただろう? 他人に見せる家じゃないからいいんだ、あれで」

「なら、儂の家も同じだろ」

 ジーネは主従を置き去りに坂を下る。それを慌てて人ならざる者たちも追った。

「儂はいいんだよ、石を確認してもらえればそれで。その後はどこかへ失せな。こちらはひとりしか愛せないし愛されないが、そちらは違うんだろう?」

 邪神の行動には制約がかけられるわけもない。誰を愛するも愛さないも自由だ。

「しかし貴様にはすでに永遠の命がある。誰に愛されもせず愛することもできず……では寂しくないか?」

「それは人との交流を求める者の考え方だろ。儂も魔女だ、永遠の命について考えたことはある」

 もし、命が永遠ならば永遠に時間を喰らわなければならない。周りのものは死に逝き朽ち果て、歴史は移りゆく。その中で生活し、朝起き夜眠るのを続ける――それは限りなく続くのだ。友も血縁者もいなくなり、忘れ去られるかもしれない。

 それでも自分は〈永遠〉に耐えられる、と彼女は思った。彼女にはやりたいことが尽きないからだ。

「儂は他人に期待しない。だからこういう生活をしている」

 家のドアに辿り着くとドアノブを回す。

「貴様は孤独を感じないわけか」

 邪神は律義に「失礼する」と声をかけてから続き、物珍しそうに狭い室内を見回している。

 孤独を気にするということは、彼自身もそれを気にするということなのか――ジーネの脳裏でそんな疑問がよぎるが、口に出すことはしなかった。

 家の中は実に単純だ。テーブルに椅子、石を組んだかまど、桶と小さなベッド、本棚。それらの向こうは天井から吊るした布で仕切られている。

「本当に飾り気のない……」

 インプはベッドに寄ると、それが干草と網にシーツを被せただけのものだと気がつき表情を歪めた。

「掃除はしてあるようですがアルシェさま……本当にこの人で大丈夫ですか? そもそもどうしてこの人を選んだんです? 他にも死にかけていた女性はいたと思いますが」

 どうやら、邪神は好きなところに現われることができるらしい。

「それは、今の人類のことばでいうところの〈目撃バキューン〉というやつだ」

「は?」

 初めての単語を耳にして、ジーネとケーラの目が点になる。

「いや、通じなかったか? 最近の人間の本で、初めての見た目の衝撃で相手に強い関心を持つことをそう表現していたと思うのだが」

「たぶん……一目ぼれ、ってことですよね」

 ケーラが補足すると、邪神は「そうとも言う」とうなずく。

「本を沢山読み過ぎて拾う語彙が多過ぎます。というか、もっと一般的な単語じゃないと通じませんよ」

「はあ、なるほど……そういうこともあるんだね」

 言って、ジーネは鞄を下ろして息を吐く。念のため、聖剣は左手に握ったまま。

 そして早く用事を済ませてしまおうと吊るした布を横へずらす。隠されていた奥の光景がさらされる。

 作業台に椅子、その向こうに並ぶ棚、そして棚の大部分にほとんど隙間なく並べられた石の加工品。いくつかは一抱えほどの大きさや親指大のものもあるが、ほとんどは手のひらふたつ分ほどの大きさだ。モチーフは人物から動物の像、伝説上の名剣や魔法道具、花瓶や筆立てのような実用的なものまでとさまざまだった。

「おお……」

 まるで玩具を目にした子どものように、人ならざる主従の二人は目を輝かせる。

「これは『英雄スケイドルの旅路』に出てくる、剣の誓いの場面だな。こちらはあの有名な『ヴェロ大陸開拓史』の湖の主との戦いだ。鱗までよく彫られている。おお、『ハルビオン族の始祖の預言』の一幕もある」

「へえ、本を沢山読んだってのは本当みたいだな。他はともかくハルビオン族の伝承まで知ってるとは」

「当然だ。この狼の毛並みの表現も素晴らしいな。祭壇の装飾も思い描いた通りだ」

 少し興奮気味に目にした作品を称えるアルシェには、ジーネも気を良くしたらしい。

「凄いですね、彫刻の腕は確かだと思います」

 一方のケーラは実用品の方に惹かれたようだった。椅子を模した小さな台は、彼女にとって本物の椅子となる大きさだ。幅広の小物入れは湯を入れれば彼女用の湯船になりそうだった。

「でも、これらが作品のすべてではないですよね? 日々の糧も必要でしょうし」

 彼女のことばに、ああ、とジーネは肯定した。

 週に一度、魔女は売れそうな作品を持って一番近い町へと売りに行く。

「大した有名でもないし、せいぜいやっと暮らしていける程度だけどね。それでも気楽だし、好きなことに集中できるから、気に入ってるよ」

「そういうものか。高く売れても良さそうだが」

 と、邪神は不満げに棚を見渡す。

「あ。それで、例の硬い石というのはどこに?」

 インプが最初に本題を思い出した。

「そうだった。これだよ」

 部屋の角にいくつか木箱があり、被せてあった布を取って、木箱のひとつからそれがテーブルの上へと移動させられる。

 石は四角柱で白く滑らかな表面を持ち、淡く輝いているうえに傷のような赤い線がところどころに入っている。

「オリハルコン……で合っているのか?」

 顔を上げ、魔女は主従が唖然と目を見開いていることに気がつく。

「こっ、これはアレですよね、アルシェさま……?」

 動揺のためか、インプは舌を噛みそうになっている。

「ああ、これは悪魔石だ」

「悪魔? 『悪魔伝』に出てくるような?」

 『悪魔伝』は短い伝承だ。人類がいるかいないかもわからないような太古の昔、地上には悪魔と呼ばれる凶悪な魔物たちがはびこっていた、という。

「人間に伝わる情報はそれくらいだろうな。あれがいたのは人類が生まれる前だという」

 邪神が説明を続ける。巨大で凶悪な鬼、それが悪魔と名づけられた。彼らは同族内でも争い喰らい合い、当時わずかにいた動物たちも根絶やしにされかけ、地形すら大きく変わるほどの力が振るわれた。

 見かねた創造神とその使いが悪魔たちを封印した。当時の一大大陸は七つの火山があり、悪魔たちは七つの石に封じられてそれぞれの火山の火口へひとつずつ投げ込まれたという。

「今は地中深く眠っているはずだが……前にも一度だけ、長年の地殻変動などの影響で浮き上がってきてな」

 五〇年近く前、とある国の泉から変わった石が浮き上がった。たまたま発見した魔法の使い手が〈刻む〉魔法を持っており、石を少し削ってみようとして傷つけてしまった。

「本来その程度では傷つかないのだろうが、封印の石も劣化するのだろうな……」

 結果、泉は一瞬にして毒の沼と化した。魔法の使い手は即死し、近づく者は不調を訴え、そこからさらに国中に疫病が流行する。有力な魔術師らに泉のある森ごと封印してもらうまでそれは続いた。

「ああ、その事件、どこかで読んだな……聖剣で浄化、とかは無理か?」

 石から離した右手をおっかなびっくりゆっくり下ろしながら、魔女は左手に視線を落とす。

「やめといた方がいいと思いますよ……聖剣の力を開放できてるわけでもないし、できたとしても通じるかさえわからないし。半端に傷つけて封印だけ解けるかも」

「オリハルコンでないのは残念だが、ノミで傷つくほどには劣化してなかったのは幸いだったな」

 どうにかその石を削ろうと、思い切りノミを押し付け切りつけようとし――あるいはひとりでここへ戻ってそのまま聖剣で斬りつけようとしていたら。そう想像して、ジーネは背筋に冷たいものを感じる。

 この石が悪魔石だというのは嘘で、主従がオリハルコンのような貴重な石を奪おうとしている。もしくはジーネの家へ入ることが目的なのではないかというのも彼女の脳裏には浮かんでいた。しかし彼女の目には主従がとっさに口裏を合わせていたようには見えない。聖剣が手もとにある彼女に下手な嘘をつくとも思えなかった。

「それで、これはどうしたらいいんだい? 傷つけたら不味いなら、破壊して解決ってものでもないし」

「今のところ、地中の奥深くに埋めるしかないな。庭を借りるぞ、我が魔法で――」

「いや待て。そんなところに埋められても困る」

 たとえ普段目に触れず、そのうえで生活しても問題ないほど足もとの遥か下に埋められているとしても、知ってしまったからにはやはり気になって仕方がなくなるだろう。

「そういうものはできる限り、ここから離れたところに埋めてくれ」

「ここから遠い、できる限り人里から離れたところか。しかし、我はあまり地上の人間の生息地分布には詳しくないぞ?」

 言われて、魔女はこめかみのあたりを抑える。

「うーん、そうか。わかった、儂が案内する。それを掘り出した責任は儂にあるからな」

 提案してすぐ、地図をテーブルに広げて場所の当たりをつけた。井戸はアルシェの魔法で簡単にできるというが、その前にジーネは休憩を求める。脚を少しは休ませたかったし、移動のついでに買い出しをしたいという狙いもある。

 得体のしれない相手ではあったが命を救われたのは事実であり、彼女はこのとき、この来客に茶を出してもいいという気にはなっていた。

「いい匂いですね、このお茶」

 カップ代わりの瓶の蓋を両手に抱えて傾け、ケーラは満足そうに味わう。

 この辺りに自生するハーブを干した茶葉は、たまにジーネも作品と一緒に町へ売りに持っていくことがある。そのときに石製のカップや茶器を作品として選ぶことが多いが、ほとんどの人間には実用的ではない。

 アルシェは石製のカップの重さも苦にせず、片手で扱っていた。

「その剣、鞘が要るんじゃないか。抜き身では不便だろう」

 ハーブティーを入れる間にジーネが聖剣をテーブルに立てかけていたそこに、邪神は目を留める。

「そうは言ってもね……布は石を包むのに使うし、鞘なんて買えるほど裕福でもないからな」

「それなら、道中で我が用意してやろう。鞘に使えそうな木の一本も生えているだろう」

「それは助かるが……」

 落ち着いて思い返せば、自分はもらってばかりだ――ジーネはそんなことに気がつく。命を救われ、悪魔石についても危ないところを回避することができ、さらに悪魔石の処理、聖剣の鞘までも。

 ジーネに親切にしたところで、邪神に得はないはずだ。人間を騙して何かを手にしたいなら、もっと力や富、人脈のある者を選べばいい。一目惚れ、というのは本当かもしれない。

「……邪神っていうのも、飲み食いは人間と変わらないのかい?」

 カップを手にのんびりと作品を眺めているアルシェに声をかける。お茶の一杯では礼として釣り合いが取れない気がしてきたのだ。

「それはそうだ。神が自分たちに似せて人間を作ったのだから、食べるものも大した変わらないぞ。食べなくてもそれほど弱らないが……いや、ここは『愛人の用意する物はすべて美味い』と言うべきか?」

 ごぶっ。

 ケーラが飲んでいたお茶を噴き出す。

「アルシェさまは未婚でしょう! 一番やっちゃダメな間違いですよそれ」

「いや……『愛する人、と書いて愛人と読む』と、どこかの本で書かれていたはずで……」

「参考にする本間違えてますから! どうせどこかの浮かれ男が書いた日記か、それとも物語の中の一節でしょう」

 本を参考にするということは、邪神には誰かに愛を語った経験はないらしい。それに、欲しいものは力づくで手に入れる、そばに置いておきたい人間は無理矢理連れ去っていくという従来の〈邪神〉の印象からは、このアルシェザート・ドンゴールはかけ離れているようだ。

 そこまで考え、ジーネは首を振る。相手につい興味が湧いたことを自覚する。

「賑やかなことだ……とにかく、まずはその物騒な物と早くオサラバすることにしよう」

 立ち上がり、彼女は溜め息をついて布に包まれた悪魔石を抱え上げた。

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