後編


「昨日の夜、大変だったみたいですね。大川さん」


 翌日出勤すると、永坂さんが眉を寄せて声をかけてくれた。きっと昨夜入力しておいた電子カルテを読んでくれたのだろう。胸がちくっと痛んだ。


「すみません、不甲斐なく」

「いえ、私が患者さんとの相性をはかり間違えただけです。気にしないでください」


 今後、池上さんの担当は永坂さんにお願いすることになった。


「そのかわり、私が担当する予定だった患者さんをひとり、大川さんにお願いできますか?」


 もちろんですと答えたが、内心、不安でたまらなかった。また失敗したらという思いが、ヘドロのようになって心臓にべたりとはりついている。


 永坂さんに渡されたカルテを確認すると、患者は男子中学生だった。おき真琴まこと、十五歳。軽い不眠を感じ、母親と来院。冬に受験を控えているため、早く治したい、とのことだった。


 思春期は心身ともにゆれうごく時期で、たまに不眠になる真琴くんのような子もいる。ただでさえ受験勉強でストレスを抱えていることだろう。不眠に陥るピースは揃ってしまっている。それをどう解いていこうか。そもそも僕に解けるのか。握りしめたカルテには、小さく皺が寄ってしまった。




 二日後の夜、真琴くんの訪問施術に向かった。立派な一軒家の玄関に、カーディガンを羽織ったセミロングヘアの女性が姿を現した。


「真琴の母です。今日はよろしくお願いします」


 上品さが服を着たような真琴くんの母親は、二階の廊下の奥にある真琴くんの部屋に案内してくれた。


「こちらです。私は一階におりますので」

「ご主人にもご挨拶を」

「夫は本日は帰りませんので」


 それだけ言い残し、彼女は階下におりていった。足音が聞こえなくなってから、僕は頑なに閉じられたままの扉をノックする。少し間があったけれども、「はい」と声がしたのを確認して、しずかにドアノブを回した。


「すみません。この問題だけいいですか」


 薄暗い中、デスクライトだけが煌々と光っていた。デスクに向かう丸められた背中が僕に問う。どうぞ、と答えると、カリカリと何かを書きつける音だけが部屋に響き続けた。僕は床に座り、部屋を見回す。本棚には使い込まれた問題集が並んでいる。壁には、有名な進学校の制服がかかっていた。


 ペンの音が止まったかと思うと、ふう、と大きなため息が吐かれた。真琴くんは椅子の上で伸びをしてから、僕を見やって頭を下げた。


「遅くまで大変だね」

「もう半年しかないから」


 真琴くんはメガネを外して目をこする。目の下には、疲れとクマがこびりついていた。


「じゃあ、寝る準備をしようか。外に出てるから、着替え終わったら声をかけて」


 真琴くんがパジャマに着替えてから、照明や温度、湿度などの環境を整える。ベッドに入った彼はどこか肩に力が入っていて、居心地が悪そうだ。僕は意識して優しい声色を出す。


「まずはストレッチしようか」


 真琴くんは布団の中で、筋肉を弛緩させるために体の一部にぐっと力を入れては抜き、を丁寧に繰り返す。彼のまとう空気が少しずつ柔らかくなっていくのがわかる。


「そのまま少し、話をしようか。眠くなってきたら、答えなくてもいいからね」


 カルテをめくると、永坂さんの右肩上がりの字が綺麗に整列している。そのうえに、いくつもの付箋が貼られていた。どれも永坂さんからのアドバイスが書かれている。僕は鼻の奥がじんとしたのを感じた。


「こんなに遅くまで、勉強大変だね」

「この前の模試で、第一志望の高校がC判定で……」


 その先は、真琴くんが口にしたくなかったのかもしれない。

 僕はそれから、彼の言葉を一つひとつ、丁寧に拾っていった。花を摘むように、やさしく。彼も、文句ひとつ言わず会話してくれた。本当は、一晩中デスクに向かってペンを走らせたいだろう。彼は我慢づよく、僕の話にしずかに耳を傾けていた。なぜか僕は、この空間と時間が何も怖くなかった。


 あっという間に二時間が過ぎた。真琴くんは落ち着いてはいるものの、眠れてはいなかった。彼はまだ中学生なので、眠剤ではなく漢方薬が処方されている。彼が漢方薬を飲んだことを確認してから、僕は荷物を片付けて立ち上がる。天井を見つめていた真琴くんの目がこちらを向く。メガネをかけていない彼は、少し幼く見えた。


「先生、また話をしてくれる?」


 僕はつとめて小さな声で囁いた。


「うん、また話そう。おやすみ」


 僕が部屋を出ると、廊下は煌々と明るかった。扉のむこうの怖くない世界から、いつもの世界に戻ってきた。僕は目を閉じ、ひとつ呼吸をしてから階段を下りていった。




 それから週に二回、真琴くんの家に通い続けた。彼の両親は、訪問施術にかかる費用を惜しまなかった。彼も徐々にリラックスした時間を過ごせるようになっていたが、中途覚醒などは続いていた。


 十二月になり、空気がキンと冷える夜だった。真琴くんは受験勉強の疲れも相まって、覚醒してしまっているようだ。彼の目はぎょろりとしていて、どこか落ち着きがない。彼の張りつめている糸が切れてしまわないよう、やさしく話しかける。


「疲れてるみたいだね」


 彼はいつもどおりベッドに横たわっていたが、薄暗い中でも眉間に皺が寄せられているのがわかった。真琴くんは大きなため息を吐く。


「昨日、先生と面談があったんだ。……受かるかどうか、五分五分だって」


 カウンセリングのときは、自分の意見を言わずに事実だけを話し、受け止めるようにしている。僕は慎重に言葉を選んだ。


「そっか。まだ受かる確率は五十パーセントあるんだね」

「五十パーセントしかないよ!」


 横になりながら、真琴くんは顔を両腕で覆う。絞り出された声は、宙に霧散していく。


「どうしよう。これじゃあ……」


 彼の声は震えていた。真琴くんは大人びているから、まだたった十五歳の中学生であることを、周囲の大人たちは忘れてしまうのだ。彼はまだ大きな荷物を一人で持てるほど、強くはない。それに彼は、志望校に合格しなければという思いにとらわれすぎている。「真琴くん」と呼びかけると、彼はこちらに顔を向けた。


「もちろん、志望校に合格するのは大切なことだと思う。でも、それはゴールじゃないよね。真琴くんは、志望校に合格して何がしたい?」


 真琴くんは天井を見つめたまま、何も答えない。母親から聞いた話によると、彼の志望校は父親が選んだのだという。「それが真琴にとっての幸せなんです」と、母親は言い切った。何かを盲信している目は、暗く深かった。彼の呪いを、少しでも解きほぐしてあげられたら。


「……僕の話を、していいかな?」


 真琴くんはこくんと頷いてくれた。ひとつ咳払いをしてから話し始める。


「実は僕、誘眠師になる前はサラリーマンしてたんだよ」


 見えないでしょ、と笑うと、真琴くんは「意外」と応える。


「大学三年生のとき、自分が何をやりたいかわからなくて、でもまわりは就職活動をはじめてて、あわててスーツを買いに行ったんだよ。会社の説明会に行って、面接受けて、ってのを何回も繰り返すの。本当に行きたい会社でもないのに、『あなたの会社で働きたいです』って言うんだ。そんなので、受かるわけないよね」


 真琴くんはしずかに聞いてくれていた。あの頃の自分を思い出すと、僕は決まって胃がきゅっとなる。


「結局、大学のゼミのが先輩が勤める会社に入れてもらったんだ。営業ってわかる?」

「なにか、売る人?」

「そう。お客さんのところへ行って、うちの商品買ってくれませんか、って提案しに行くんだけど、これが難しくて。お客さんに怒鳴られたこともあったよ」


 時計の針が、コツコツと鳴り響く。会社員時代、この音がすごく嫌いだった。出社時間が、取引先へ訪問する時間が、近づいてくるこの音が。


「そのうち、眠れなくなったんだ」


 真琴くんから「え?」と驚きの声が漏れる。僕はもういちど彼に笑いかけながら続ける。


「僕ももともと不眠症だったんだよ。だんだんと会社に遅刻することが多くなって、でも寝れなくて、とうとう会社を辞めないといけなくなった。家にひきこもって、薬を飲みながら気を失うように短い睡眠だけとる、みたいな感じだった。そんなとき、偶然ニュースで誘眠師の記事を読んだんだ」


 それは誘眠師法が制定されて以降、はじめて国家資格を得た人の記事だった。当時、世間に知られていない誘眠師の仕事や意義が丁寧に説明されていた。僕は布団で横になりながら、スマートフォンの画面を貪るように読んだ。霞む目で、必死に文字を追った。


「そのとき、指先に血が通う感覚があった。誘眠師なら、僕のことを助けてくれるかもしれないと思った。当時はまだまだ誘眠師が少なかったから、県立病院へ行って施術を受けた。一年間、通い続けたよ」


 僕はかさついた指をさする。あの頃も、すがるような気持ちで指をさすりながら、電車に乗って病院へ向かっていたことを思い出す。


「だいぶ寝れるようになったとき、こんどこそ『自分のやりたいことやろう』と思った。じゃあ自分のやりたいことって何だと考えたとき、誘眠師の人の記事を思い出したんだ。そこで初めて、『あの人みたいに、僕は誘眠師になって眠れない人たちを助けたい』と思ったんだよね」


 僕は薄暗い部屋の中、真琴くんを見る。布団にくるまった、ちいさな生きもの。布団がしずかに上下している。孤独の中で、息をしている。


「それから専門学校に三年間通って、僕は誘眠師になった。ずいぶん遠まわりしちゃったんだけどね」


 流されて、ぼろぼろになって、助けられて、気づいて、前を向いて、でもまた悩んで。でもそうやって傷ついているのは僕だけではないのだと、誘眠師になってから気づいた。真琴くんのように、悩み傷つき、眠れない夜を過ごす人がたくさんいる。僕はそんな人の夜に、寄り添いたい。


「僕は遠まわりなんかできればしたくなかったし、辛くて苦しんでいる人に『過ぎ去れば些細なことだよ』なんて絶対に言いたくない。だから僕は、これからも真琴くんと一緒に悩むよ。どうすれば眠れるか、一緒に考え続けるよ。それが誘眠師になった僕がやりたいことなんだ」


 そこで、ポケットに入れていたアラームが震えた。訪問施術終了の合図だった。喋り過ぎちゃった、ゴメン、と謝ると、真琴くんは首を横に振ってくれた。片付けをしていると、布団から「先生」と呼ばれた。


「なに?」

「眠れなくて、辛い」


 真琴くんの声はかぼそかった。肩の影が、少し震えている。はじめて聞けた彼の弱音を、僕は受け止めたい。ベッドのかたわらに座りなおし、真琴くんの手を握る。


「ありがとう、辛いって教えてくれて。これからも一緒に、どうしていくか考えていこう」


 彼の手が、強く僕の手を握り返した。




 年が明け、今年二回目の雪が舞った。来院予定の患者さんのカルテを確認していると、背後から永坂さんの「そういえば、」という声が聞こえた。


「沖くん、結局受験はどうされたんですか?」


 永坂さんはカレンダーを見つめている。この土日、私立高校の入学試験が一斉に行われているはずだ。


「もともとの志望校を受験してますよ。最後まで合格率は五十パーセントのままだったんですけど、『結局どの高校も受かるか落ちるか、五十パーセントの確率だもんね』って笑ってました」

「良かったですね、そう思えるようになって」

「ええ、本当に」


 まだ真琴くんは気持ちよく眠れるようにはなっていないが、以前よりも格段に眠れる時間が長くなっていた。僕が通う訪問施術も、いまでは二週間に一回になっている。


「嬉しそうですね」

「え?」


 僕の斜め前の席に座って、永坂さんはコーヒーを飲みながら笑う。


「大川さん、このクリニックにきた頃はとても不安そうでしたけど、最近笑顔が増えて私も嬉しいです」


 なにか熱いものが胸にこみあげて、僕は会釈しか返すことができなかった。ちょうどそのとき、クリニックの受付の人が僕を呼ぶ声が聞こえた。患者さんが来院したようだ。


「じゃあ、いってきます」


 僕はカルテを抱え、患者さんの元へ歩き出した。




   了

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誘眠師 高村 芳 @yo4_taka6ra

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