誘眠師
高村 芳
前編
自宅のポストを開くと、角二封筒が窮屈そうにからだを丸めていた。封筒の差出人欄には「公益財団法人
『
僕はその文字を見て目頭が熱くなった。外では桜がほころぶ、三月下旬のことだった。
「誘眠師」が国家資格と制定されたのは、わずか四年前のことだ。日本国内の睡眠障害を抱える患者は年々増え、ついに成人の四割を越えることとなった現代。労働生産力の低下が数字に現れはじめ、政府は否応なく国民の不眠症状への対策として誘眠師法を制定することとなった。
文字どおり「誘眠師」は、患者を眠りに誘う専門職だ。医療行為ではなく、医療類似行為にあたる。患者の症状や環境にあわせ、カウンセリングやセラピーなどの適切な手法で睡眠をサポートする。まだまだ駆け出しの資格であるため、課題も多い。内定をもらっている不眠専門のクリニックも、僕が二人目の誘眠師採用であるとのことだった。
僕がクリニックで働き出したのは、すでに新緑が映える五月の半ばだった。「誘眠師
「
上司であり先輩の永坂さんは、僕より二つ年下の二十六歳だった。小柄なからだが動くたびに、黒髪のポニーテールの先がゆれる。
「私たちの仕事はおおきくわけて二つあります。ひとつは、クリニックに来院される患者様の施術です。医師の先生方の診断・治療行為にあわせて、私たちは主に患者様の生活にあわせた根本原因の解決、習慣改善指導などを行います。もうひとつは、訪問施術です」
「訪問施術」
「ええ。訪問施術をやってるクリニックは少ないんですけどね。患者様のご自宅に訪問して、実際の睡眠時間に立ち会って施術を行います」
誘眠師の仕事として認識はしていたが、自分一人で患者宅に訪問して施術を行うと思うと、喉がごくりとなった。そんな僕の緊張を察してか、永坂さんが大きな眼を細めてにこりと笑う。
「大丈夫ですよ。まずは日勤で経験を積みましょう。訪問施術も最初は私の患者さんの施術に同行してもらうことからはじめますから。不安だったらなんでも聞いてください」
彼女は国内で最初に新設された専門学校卒で、国家資格の第一期生だ。僕よりはるかにベテランの彼女に、僕は「よろしくお願いします」と頭を下げた。
初日はほとんど永坂さんからのオリエンテーションで終わった。永坂さんは、今夜訪問施術が入っているのだという。帰宅した僕は、着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。夕食をつくらなくてはいけないが、なかなか起き上がれない。体ではなく、精神的な疲れだろう。
「やっていけるのか……?」
その声は、ただただ空間に霧散していった。
働きはじめてしばらくは、永坂さんの施術に同席しながら学んでいった。はじめての仕事ばかりで目がまわるように大変だったけれど、何より驚いたのは、患者さんの世代の広さだった。働き盛りのサラリーマンが多いのかと思っていたが、不眠には年齢も性別も職業も関係がないようだった。あらゆる人が、眠れない夜を過ごしていた。
「明日から訪問施術にも同席お願いします」
クリニックで働き出してから一か月が経った頃、永坂さんは僕に、ひとりの患者さんのカルテを差し出した。
「
「典型的な予後不安っぽいですね。胃癌の再発への不安が不眠の原因じゃないですか?」
僕がカルテをぱらぱらめくっていると、永坂さんは少し困ったような顔をした。そんなに難しい患者さんなのだろうか?
「まあ、明日高橋さんとお話してみましょう」
十二時を過ぎていたので、永坂さんに促されて僕は先に休憩に入ることにした。休憩中も永坂さんの困った表情が気にかかって、きつねそばの味がよくわからなかった。
はじめての訪問施術の夜は、「いよいよ梅雨入り」というニュースのとおり、しずかな雨が降り続けていた。高橋さんのお宅は閑静な住宅街の中にひっそりとたたずんでいて、小さな庭には綺麗な花々が植えられていた。
「こんばんは。不眠クリニックの永坂です」
「どうぞ」と迎え入れてくれたのは、背筋の伸びた老年の男性だった。高橋さんのご主人だろう。僕も永坂さんの後をついていく。家の中は決して広くはないが綺麗に整頓されていた。奥の部屋の扉を開くと、パジャマ姿の女性がベッドに腰かけていた。
「高橋さん、今日はよろしくお願いします」
じゃあ私はこれで、とご主人が部屋から出て行った。ご主人は、いまは高橋さんと別の部屋で寝ているらしかった。
「こんな雨の日の夜分にすみませんねえ」
「いえいえ。じゃあさっそく環境づくりからはじめましょうか」
快適に眠りにつくには、まず環境を整えることからはじめるべきだ。室温はこの時期なら二十四度から二十六度、湿度は四十パーセントから六十パーセント。あとは光。カーテンの隙間から光が漏れ入ると、眠りが浅くなったり中途覚醒したりしてしまう。高橋さんの寝室にはエアコンが設置されており、カーテンも遮光できるものに変えてあった。カーテンレールの隙間にも布がかけられている徹底ぶりだ。
「ホットミルクと白湯、どちらにします?」
「じゃあ、今日は白湯で」
飲みものも、カフェインやアルコールが入っているものは飲まない。ぼんやりと常夜灯がついた仄暗い室内で、高橋さんはベッドで横になりながら、僕たちはベッドサイドに座りながら、カウンセリングをしていく。
「今日は外に出られたわ」
「それはいいですね。旦那様とですか?」
「ええ。家の近くをちょっと歩いたの」
カウンセリングといっても、誘眠師のそれは傾聴につきる。何かを診断するのではなく、ただ患者さんと言葉を交わし、自然と眠気が訪れるよう誘導するのが大切だとされている。診断だ、治療だということを患者さんが意識してしまった段階で、寝るのが難しくなるからだ。いかに寝ることを意識させずに眠りに誘うかが誘眠師の腕の見せどころだ。
「大川さんは、結婚されてるの?」
「いえ、仕事が忙しくて」
「若い頃はそうよね。あの人も仕事ばっかりで、家に帰ってくるのが遅かったわ」
高橋さんは微笑みながら天井を見つめている。どうやらリラックスはできているが、やはりなかなか眠気は訪れないようだった。
結局、高橋さんは寝つけないまま二時間の訪問施術が終わった。医師から処方されていた睡眠薬を飲んで、高橋さんは布団に潜る。ご主人はもう眠りについているため、僕らは静かに家を出る。
雨はまだ降りつづけており、もう人通りはほとんどなかった。駅前まで歩き、タクシーを捕まえ、先に永坂さんの家に向かう。雨に濡れたアスファルトが、看板の電飾を反射している。
「どうでした? 高橋さん」
永坂さんの問いに、僕は言葉を選びながら答える。
「全然胃癌の話が出ませんでしたね」
「それよりもご主人の話が多かったですね」
永坂さんは窓の外を眺めたままだ。確かに、高橋さんはご主人の話をよくしていた。このあいだ買い物を頼んだらいつものと違う洗剤を買ってきたとか、洗濯をたたむのが苦手みたいだ、とか。
「高橋さん、自分の予後じゃなくて、ご主人のことが心配なんじゃないかしら」
永坂さんがぽつりと呟いた。雨はいつのまにか上がっていた。
「大川さん。ちょっといいですか?」
休憩中に、永坂さんに声をかけられた。僕はすでに日勤を一人で担当するようになっており、永坂さんが午前の勤務を終え帰宅される間際のことだった。
「何かありましたか」
「ほら、訪問施術で同席してもらった高橋はるのさん、覚えてますか?」
一か月弱前、はじめて高橋さんのご自宅を訪問したときからすでに季節は変わり、最近はあのときのような雨が恋しいくらいに暑い日が続いている。
「覚えてます。どうかされたんですか」
「昨日、久しぶりに日付が変わる前に寝れたんですって」
「え! すごいじゃないですか」
永坂さんはニッと口角を上げた。
「最近、ご主人とよくお話されてるみたい。ご主人の家事スキルがあがってきたって、高橋さん笑ってました」
永坂さんの根気強いカウンセリングで、高橋さんはやはり自分の予後への不安よりも、ご主人の生活への不安のほうが強いことがわかった。永坂さんの指導により、寝室を同じにして寝る前の会話を増やしたそうだ。昼間も、以前よりも一緒にいるらしい。
「高橋さんが胃癌ってことがわかって、二人とも気持ちがすれ違ってたんでしょうね。お互いを思う気持ちが裏目に出てたのかなあ」
あのとき僕は、勝手に高橋さんの不眠の原因を予後不安だと決めつけてしまっていた。永坂さんのように本当の原因を探れなかったら、高橋さんはいまも眠れなかったかもしれない。そう思うと背筋が冷たくなった気がした。
「大川さんなら、大丈夫ですよ」
永坂さんはなにかを察したかのように、僕の手元のカルテを指さした。
「今夜の、はじめての大川さんひとりでの訪問施術。緊張すると思いますが、頑張って」
彼女は小さな両拳を顔の横でぎゅっと握った。僕もあれから何度か永坂さんの訪問施術に同席し、いろいろ患者さんを診て経験を積んだ。そうだ、先入観なくしっかり目の前の患者さんを診る。それだけをしっかりやろう。
「はい。頑張ります」
僕も拳を握ると、永坂さんは大きくうなずいてくれた。
夜十時、カルテに書かれた住所のマンションでインターホンを鳴らした。「はい」と気だるげな声がしたので名乗ると、玄関のオートロックが開く。僕は深呼吸してから、共有部に足を踏み入れた。
今夜の患者さんは、
部屋のインターホンを押すと、やおら扉が開かれた。
「はいって」
池上さんはキャミソールにショートパンツという出立ちで、白い肌がこれでもかというほど露出していた。僕は思わず、足元に目を逸らす。胸下まで伸びる髪も手入れされていないのか、ボサボサだ。リビングのソファに腰かけた池上さんの表情は冴えず、目の下には青いクマができている。ローテーブルの上には、ビール缶が所狭しと並んでいた。たしか、医師からはアルコールを控えるよう伝えていたはずだが。
「池上さん、本日はよろしくお願いします。まずは……」
「ねえ、大川さんも飲もうよ。もうこのあと仕事、ないんでしょ?」
池上さんはソファから立ち上がり、千鳥足でダイニングに向かう。僕はもちろん断るが、池上さんは酔っ払っているのか、聞き入れない。ワインの瓶とワイングラスを持って彼女は戻ってきた。
「池上さん。アルコールは控えて、寝る準備をしませんか」
「なあんだ、大川さん。私と一緒に寝室に行きたいってこと?」
彼女のからかうような声色に、僕は顔が熱くなった。恥ずかしいのか憤りなのかよくわからない感情が喉元にあがってきたのを、ぐっとこらえる。
「いいじゃん。ほら、リラックスしたほうが寝れるんでしょ。リラックスさせてよ」
彼女は僕に身をすり寄せてきた。僕は後ずさりながら彼女のカルテの文面を思い出す。パートナーに酷い振られ方をして、そこから不特定多数の男の人と夜を共にするようになるが、それで精神不安定になり現状に至る、と書かれていたはずだ。思い出した頃には床に座る僕の膝に、彼女の手が乗せられていた。太ももに細い指が絡みついて、僕はじっとりと汗をかく。このままではダメだ。けれど、上手いいなしかたが思いつかない。とっさに、彼女の手を掴んで引き剥がす。
「池上さん、僕は施術にきたので……」
ノってこない僕に落胆したのか、彼女の表情が氷のように一変した。あ、と思った。彼女の心にシャッターが下りてしまったことがわかったからだ。
「帰って」
「え?」
彼女はソファに戻り、煙草に火をつける。黄ばんだ煙を、僕に向かって勢いよく吐き出した。僕はむせる。
「メンドくなった。あとで眠剤飲んどくから、もう帰ってよ」
「池上さ……」
「帰って。警察呼ぶわよ」
冷たい言葉は、僕の目の前の床に放り投げられた。僕は荷物を抱え、ドアノブに手をかける。
「池上さん、眠剤の用法は守ってくださいね」
彼女とは目が合わなかった。僕はそのまま靴を履いて部屋を出た。
まだ十一時にもなっていない街には、人の往来があった。酔っ払っている人、働いている人、遊んでいる人。僕だけが、酔ってもいないし働いてもいないし、ましてや遊ぶ気分にもなれなかった。看板の電飾の光が眩しくて、僕は裏路地を歩いて帰ることにした。
何をやっても上手くいかない。水の中に潜ったように、どこか音が不明瞭だった。誘眠師になろうと決意する前の、会社で働いていた日々を思い出すと、口の中で砂を噛み締めているようになった気分だった。「あの人」のように、僕はなれないのかな。そんな考えだけが、頭を駆け巡っていた。
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