第2話 月光の下で塔を眺めて

あ う い いい うあ あ ち ちち ちくしょう


脳が、脳が戻ってきた。


遠くで微かに音が聞こえる。新品だけど古臭い、出来たてホヤホヤのわたしの片耳はその音を静かに拾い上げ続けた。脳が思考を巡らせることにやっと慣れてきた頃、突然その音は大きくなる。どうやら両耳が完成したようだ。


(この音、コーラの音に似てるな。ほら、あのシュワシュワ〜ってやつ)


まだ存在しないはずの口をパクパクと動かし、わたしはまた性懲りも無く独り言を呟こうとする。


誤解しないで欲しいけど、決してわたしは学ばない女ってわけじゃない。ただ少し情けないだけ。こうやってずっと喋ってないと、いつか言葉を忘れてしまう気がする。わたしはそれが怖いのである。


ふと、事ある度にコーラを奢ってくれる男が昔にいたことを思い出した。懐かしい。あれは一体誰だったか、その男との会話をゆっくりと思い出す。


「コーラは美味いぜ!コーラの女神様がいるのなら、ぜひとも一度抱きてえ!そのレベルでコーラを愛してるんだ!子供の名前はそうだな、コーラッシャー!イカしてんだろ!」


(嘘でしょ)


昨日に留まらず、再びわたしの脳内に出てきやがった。今は体の再生中だというのに、容赦のない男だ。ただ、再生中の退屈さを和らげるにはもってこいの人物であることに間違いはない。仕方なく、このまま彼について考えることにした。


ブリッシャーは印象深い男だった。凛々しい顔つきで、カンガルーに似ているとよく言われていたのを覚えている。「確かにそっくり!」と手を叩いて笑ったことも。


しかし、そんな彼の声も顔も全て忘れてしまった。


それがとても悔しくて、1000年以上かけて記憶の海に潜り込んだのを覚えている。海は驚くほど深かった。深くて暗くて怖いのに、泳ぐ度に次々と忘れかけていた大切な記憶が溢れ出てきて、泳ぐ足を止めることは出来なかった。過去に戻れたような気分で楽しくて仕方なかったのである。グリーヴェス隊長、シエフ兄弟、アキマサ。どれもみんなかけがえのない仲間たちだ。不死者のわたしと仲良くしてくれた大切な仲間。


なのに、結局誰一人として声も顔も思い出すことはできなかった。


記憶の中の彼らは何かが違った。わたしは不死者だがロボットではない。精密に何かを記録するなんてことが不可能なのは承知の上でのダイビングだったが、大切な人たちの声や顔すら忘れてしまう自分が想像よりもずっと、あまりにも情けなく許せなかった。


それが本心から来る純粋な感情であったことは今でも覚えている。あの頃は今と比べて心が随分と若かったらしい。もちろんあのころの感情が、間違ったものだったと言いたい訳では無い。ただ、現在のわたしは少しでも忘れかけていた記憶を取り戻せただけ無駄ではなかったのではないかと考えているのだ。


「ただ、この時間は完全に無駄かな」


わたしは独り言を呟きながら、ゆっくりと目を開けた。


ちょっと待てよ。


呟く?目を開ける?


わたしは顔をサワサワと両手で触りながら立ち上がった。


どうやら無駄なことを考えているうちに、せっせと全ての部位の再生が完了したようだ。少し日焼けして褐色がかっていた肌はすっかり真っ白に戻っており、カピカピに固まった血がまるで装飾品の如く絡みついていた。


人々が寝起きに体を伸ばすのと同じように、わたしは体をねじる。バキバキと固まった血が細かく砕け、宙を舞った。地面を覆う赤い血がちょっとだけふりかけのように見えて、わたしは急いで首を横に振る。髪にこびりついていた血が再び宙を舞った。


再生はわたし自身が何もしなくても自動で発動するモノだが、なぜか体力を使う。今回も例に漏れずわたしは息を切らしていた。吐息は白くて小さな気霜となり私の顔を湿らす。


「そうか、もう冬なのか」


随分と遅れてわたしは身震いをする。つい先程まで着ていたはずの服は衝撃に耐えられなかったのか、細かく裂け四方八方に飛び散っていた。冷たい風が、塔と塔の隙間をすり抜け私の肌を容赦なく襲う。


「ううあっ」


汚れひとつなくなった純白の歯がガチガチと鳴る。軽率な判断で塔の頂上から飛び降りたことを今になって後悔した。


地面の土がヒンヤリと冷たくて、思わずつま先立ちになる。塔と塔の隙間に入れば少しでも寒さを軽減できると考え、わたしは隙間に飛び込んだ。


確かに幾分かマシになった気がするが、まだまだ寒い。ろくに散髪もせず放置したままの長い髪をマフラーのように体に巻き付け暖を取る。


「はあ」


白いため息をはく。これから何をしよう。気づいた時には、既にお得意の思索に走っていた。


「とりあえず洋服を探さないとな。寒くてかなわん...」


不死者と言えど全てに耐性がある訳ではない。特にわたしは寒さが大の苦手だ。


「はあっ本当に寒さって苦手。四肢が裂けたり、ミンチになったりすることよりもずっと苦手」


そうやって文句を垂れる割には露出の多いわたしを、もし誰かが見たらどう思うだろうか。


「ハッ、考えたくもないな」


わたしの独り言は定期的に脳内から溢れ出て、冷えた空気と混じり気霜となる。その気霜をただぼんやりと眺めながら考えを巡らせていた。気霜は一瞬にして消え、次の瞬間には温かみのない地面と目が合う。再び気霜が生まれても、やはり一瞬にして消えてしまう。その度にわたしは地面を眺めていた。


ぼんやりと地面を眺めるうちに、細い日光が1つ、わたしの視線の先を照らしていることに気がついた。複雑に絡み合った塔の隙間を幾度となく掻い潜ってきたエリート日光だ。浴びない方が失礼だろう。


俗に言う体育座りの姿勢で、陽のあたる場所へもぞもぞと移動した。


(俗なんてものはもう存在しないけど...)


今回は珍しく独り言が声に出ることはなかった。


「これも成長なのかな」


そういうわけでもなかったらしい。


日光の元へついに辿り着く。そこは想像よりもずっと暖かかった。


「やった!」


思わず歓喜の一言がこぼれ落ちる。塔を登りきった時と遜色ないほどの達成感が私を包み込んだ。


ただしそれもほんの数秒のことである。


今日は余程ついていないようだ。エリート日光はどんどん小さくなっていき、瞬く間に消え失せてしまった。どうやら太陽も月と同じくわたしを待ってはくれないらしい。


私の肌に触れるものは再び、冷たい土と風のみになる。体がぶるりと震える。


「は、はっくしょん!!」


いきなりの寒暖差に思わずくしゃみを1発放出する。仮にもわたしは女子だというのに、まるで猛獣の咆哮の如くけたたましいくしゃみであった。最近のわたしの悪い癖である。無限に続く静寂に嫌気がさした過去のわたしが、静寂に一矢報いるつもりで編み出した悪い癖。結局一矢報いることなんて叶わず、逆にわたしは勝手に恥ずかしくなる。


「はっくしょん! ハックション!ハックション...」


わたしの心にトドメでも刺したいのだろうか、塔はわたしのくしゃみを容赦なく反響させた。わたしのくしゃみが凄いのか、塔が凄いのか、しばらく反響が終わることはなかった。


「わたしのくしゃみなんてクソみたいなもんだよ。この塔が凄いんだ」


この小さな独り言さえ反響していた。内側からの景色は未だに見たことの無い、素晴らしいものであった。いくつもの塔が重なり合っている。中には逆さまになった塔、2つにちぎられた塔などが混ざっているのが見えた。まさに絶景だ。


外から見るこの塔もかなり異質なものであった。初めて目にした時に思わず、


「あはは」


と笑い声がこぼれ落ちるほどには。


ただ寒さを凌ぐために忍び込んだ塔の内側に、まるで星空のような光景が広がっているとは思いもしなかった。


暇つぶしの人生を送るわたしにとっては一級品のサプライズである。こんな素晴らしいものを人間が作れるものなのか、ふと疑問に思う。塔で塔を作る。不死者のわたしにもできそうにないことだ。気が遠くなるほど長い目で見れば不可能ではないだろうが、そうだとしてもやろうとは思わない。命に限りのある人間なら尚の事こんなことをしようとは思わないだろう。


命に限りのある...


聞いたことのある言葉に思わずハッとする。わたしがつい先程新たに身につけた知恵。


わたしと違い、命に限りのある者はこの世に自分がいた証拠を残そうとする。


もしや、この塔の制作者はその『爪痕』として、この塔を残したのではないだろうか。自らが存在した証を作るために。


ただ暇つぶしとして登ったこの塔が突然、偉大なものに見えてくる。きっと限りある人生のほとんどを費やしてこの塔を作り上げたのだろう。そこまでして爪痕を残すということは、単なる自己満足なのだろうか。いや、それでも十分素晴らしいではないか。


気づいた時には塔の外へ出ていた。ある程度塔から離れた位置まで歩く。冷たい風がわたしの長い髪を靡かせ、視界を遮ってくる。しかし、そんな事にはお構い無しに、わたしは夜空を見上げた。


塔はやはり高く、夜空の前に立ち塞がる。月が一日ぶりに姿を現していた。昨日の件は許してやったのにやはり少し気まずいのか、彼女は塔の隙間からチラリと淡い光をこちらへ届けるだけで、姿を見せようとはしない。


わたしと違い人々は日々命を削っていた。わたしは彼らが大好きだった。毎日共に酒を飲み、共に血を流し、共に寝た。しかし、共に死にゆくことだけは一度も叶わず、彼らはわたしを置いていく。若い頃はそれでよく泣いた。涙が頬を伝う感覚はもう思い出せない。若い頃あまりにもよく泣いたものだから、きっともう枯れてしまったのだろう。わたしが泣く度に、涙を拭いてくれる友はもういないし、ちょうど良いのかもしれない。



自分が不死者であることを何度呪ったことか。憎しみに飲まれて自らの体をグチャグチャにしたことを覚えている。しかし、その過去を認めぬかの如く、わたしの肌は月の光を受け取り皓皓と輝いていた。


慣れとは恐ろしいものである。やはりわたしの肌の言う通り、人の死で涙を流していた過去なんてなかったのかもしれない。永遠の別れを重ねるうちにわたしは人のことを、使っていくうちに小さくなる固形石鹸のような、息を吹きかけずともいずれ消え去る蝋燭の火のような、そんなものだと捉えるようになっていた。


今、そんな彼らの爪痕に心を打たれ、ぼんやりと佇むわたしの考えは残念ながら変わってはいない。人は固形石鹸や蝋燭の火と同じだ。いつか跡形もなく消滅する。


この塔の制作者はそんな運命に噛みつき、足掻き、爪痕を残したのだ。固形石鹸や蝋燭の火と同じと捉えるのはやはり失礼か。そうだな、彼らはそんなものとは違う。


わたしはいつまで経ってもでたらめだ。先程、変わっていないと述べた心がこうもあっさり変化する。数万年と生きているくせに、わたしは今まで出会ってきたどの人よりもガキだ。


「でも、若いのは良い事だよね。へへ」


こういうところがガキなのである。そうだ、少し大人っぽく振舞ってみよう。腕を組み、背筋を伸ばしながら塔を見て呟く。


「同じような爪痕がきっとこの世界にはまだまだ沢山残っている。爪痕が爪痕としての役割を果たせるように、不死者としての役割をわたしも果たそう。世界中の爪痕を巡るんだ。そして最後にわたしの爪痕をつけよう。これからきっと楽しいことになるぞ」


ぼんやりと眺めることをやめた今のわたしは、一つの美術品を観るいかにも賢そうな観者へと変貌を遂げる。


なんてことはなく、月光に照らされたわたしの姿は今までと変わらず情けないものだった。しまった。服が弾け飛んでいたことを忘れていた。昨日ぶりに赤面するほぼ全裸のわたしを、一際大きな風が襲う。


「や、やっぱ、そ、そ、その前に服を探さなきゃ!!はっくしゅん!」


いや、服の前に街を探さなければ。人はいなくとも、服の一つや二つ残っているだろう。


塔に背を向けわたしは歩き出す。露出した背中を照らす月光に視線と似たようなものを感じ取り、しばらく歩いた後にわたしは振り返る。


「月×ブリッシャー」


辛うじてその文字が目に入った。ブリッシャーの妻は未だに塔の後ろに隠れている。なんだか、彼女から「昨日はごめんなさい」と言われたような気がした。


「へっ、ちゃんとわたしのお願い聞いてくれてるじゃんか。ありがとね、また今日もいてくれて」


彼女もいつかは消えるのだろう。固形石鹸や蝋燭の火と比べてずっとずっと長持ちなだけだ。この世に永遠なんてものはない。わたしを除いて。


わたしは彼女に見守られながら裸足で歩いた。ペタペタと心地よい音が小さく響く。遠くに小さな街が見え始めた時、彼女は再び太陽とバトンタッチを行い始めていた。


「また明日」


いつもと同じように沈みゆく彼女にそう言われた気がして、わたしは笑った。












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不死者とロボット みずかきたろー。 @mizukakitaro

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