第14話 エピローグ 群青と銀と

アクロバティックサラサラの一件から、一週間が経った。


あの一件を経験しながら、ほとんどケガも負わなかった私は、次の日からそのまま大学へ通うことにした。いつも通りの講義、いつも通りの友人たちとの会話があって、図書館で課題をして、家路につく。まるで、あの嵐のようなアクロバティックサラサラの一件が、噓だったかのように。世間では、アクロバティックサラサラによる不幸な死傷者も、近隣のガス爆発による破片落下、みたいな話になって、めっきり話題にも上らなくなった。


ただ、スマホに表示されたネット銀行のアプリの残高が、あの事件が嘘ではなかったことを示している。五百万。ぽん、と入金されたその金額が、今回の報酬として高いのか、安いのか、それすらもただの大学生の私には判別がつかなかった。


本当は最寄りまで行ってもいいんだけども、私は新宿で駅を降りて、自宅への帰り道を、一駅歩いてみることにした。たくさんの雑踏が、私の前を通り過ぎ、後ろから追い抜いていく。東京は人が多くて、お互いがどこの誰であるかなんて、認知することはない。大きな駅であればあるほどなおさらだ。一度あった人ともう一度出会う確率なんて、いったいどれほどのものなんだろう。彼女も、そんな悲しみに苛まれていたのだろうか。それが、本当のところは、わからない。


ただ、アカシックレコードと繋がった時の、あの感情の奔流と、どこまでも続く果てしない空と海と一体となったような感覚の残滓は、私の中に今でも残っている。そして、彼女というものの心がわかった瞬間の行き所のない寂しさと、その中に宿ったどうしようもない優しさも。


青のブレスレットをはめた手を、私はぎゅっと握った。もう少しだけ、この熱を感じたままでいたかった。どうか、お願い。もう少しだけ。もう少しだけ、この熱を――。


私は、歩くのをやめて、歩道の脇に立ち止まり、歌舞伎町タワーの頂上を見上げる。もう夕暮れは近くなり、タワーは悪趣味な虹色に光始める。新宿らしい光景といえば新宿らしい光景かもしれない。でも、あの頂上で、私は、彼女を、アクロバティックサラサラを見つけた。それだけは、きっと確かなことだから。



きっと、彼女にとってそれは、奇跡みたいな夢のかけらだったのだろう。



どれくらいそうしていただろう。日はもう暮れてしまって、トワイライトタイムが訪れる。ロイヤルブルーの空は街明かりが徐々に浮かび上がらせて、ふと、目を落とすと、その街明かりの影りの隅っこに、所在なげに身を隠す、銀色の髪が見え隠れする。身長は百八十センチくらいあるだろうか。こういう人を、私は一人しか知らない。


「アイ子?」


私が遠くから声をかけると、びくっと体を強張らせた彼女は、柱の陰からちらちらとこちらを伺い、そしてバツが悪そうにしてその姿を現した。おしゃれをした白いワンピースに、ブルーのカーディガンは、少しだけ、あの子を連想させた。


「隠れてないで、こっちにおいで」


そう言われてやっと、アイ子は私の方へのじりじりと近寄ってきた。だけど、足取りは重い。そして、明らかに私と目を合わせないようにしている。これは重症だ。


「久しぶり。もう、体はいいの?」


私の言葉に、アイ子はなんて言っていいのかわからないというふうに、口を閉じたり開いたりしていたが、意を決したように、話し始めた。


「……えっと、一日二日くらいで、修理は終わっていたのですガ、検査とか、いろいろあって、離してもらえなくて、それデ……」


「それで? 私とも、会いづらかった?」


痛いところを突かれたと言いたげに、アイ子は身を小さくする。どんなに背を丸めたって、私よりも小さくなれるわけなんてないのに。かわいいなあ、と思っていると、アイ子は続けた。


「……ハイ。ゴメンサイ。あのとき、なんだか、お姉さまが、遠くに行ってしまった気がして。ワタシたちはあのとき、確かにアクロバティックサラサラを通してアカシックレコードと接続し、同じ思いを共有しましタ、ワタシはたぶん、あのとき、お姉さまと同じものになった。デモ、あれはあくまで、アクロバティックサラサラの思いで、お姉さまじゃなくて、お姉さまはあの後、黙って歌舞伎町タワーの頂上あそこを見つめてしまって、だから、お姉さまの心を、アクサラに取られてしまったんじゃないかって、ワタシ、怖くテ」


ああ、そういえば、私はあの後、アイ子があの子を咀嚼した後、まだあの子を通して感じたアカシックレコードの熱が、酷く懐かしいものに感じて、呆けたように空を見つめてしばらく泣いていたんだっけ。私に呼びかけるアイ子を置き去りにして。そのうちに、アイ子は三対室によって修理に連れていかれてしまったわけだけれども――


「なんだ。そんなことか」


申し訳なくなって、でもそんなことがおかしくって、私は笑った。いっちょ前に嫉妬するなんて、立派なAIだこと。


「そ! そんなことって何デス! ワタシ! 頑張ったのに! でも何もできなくて! お姉さまを守れなくて! 結局お姉さま頼みで! 嫌われても仕方ないって! それナノニ!」


わあわあと叫び出すアイ子。その頬にそっと触れて、私はアイ子を制した。あの子のときと同じように。


「ねえ、アイ子。『見つけてほしい』って気持ちは、きっと誰の中にもある。私の中にも、アイ子の中にも。そして、あの子の中にも。アクロバティックサラサラは、そんな思いが結実した怪異だった。だから、あの子を通して、私はアイ子を知ることができたんだ。私がアイ子を見つけたとき、アイ子が感じた気持ちが、少しはわかった気がしたから」


人は、知性は、結局のところ一人で生きていかなければならない。でも、一方で、一人だけで生きていくことはできないんだ。その一人と一人の領域の境目で、かけがえのない出会いが生まれ、願いや祈りが、悲しみや呪いが生まれるのだろう。


だっていうのに、アイ子は言った。せっかく、仲直りしようって言ってあげているのに。


「う、うううううう!!!! そ、ソンナコト言ったって! ワタシは騙されまセン! だってお姉さま! アクサラと! ……したじゃないデスかぁ」


アイ子が百面相のように顔色を変えるけど、最後には真っ赤になってしおしおとうなだれた。この子はなにをそんなに荒ぶっているのだ。


「?? 私があの子と何をしたって?」

「ぐうううううう!!! キスですよキス! 言わせないでくだサイもうーー!!」


ああ。そういえばそんなこともあったね。

でもあれはノーカンというか、その場のノリというか。と言っても、アイ子はわかってくれないだろうな。


「でもアイ子とも何回かしたし」

「全部いやそうだったじゃないデスカ! ワタシ知ってるんですから! ワタシのお姉さまなのにーー!!」


そうやって大騒ぎするアイ子を見ていると、なんだかあの時のアカシックレコードと繋がった熱が、夜の帳の温度と一緒にどこかへ抜けて行ってしまうのを感じた。もう少しだけ、もう少しだけここにいてほしいけど、でもいつまでも一緒にはいられない。そうだね。この気持ちとは、ここでお別れだ。これが日常に戻るということ。――たとえ、私をお姉さまなんて慕う、ヘンテコAIがいたとしても。


「ああ。もう」


わあわあ騒ぐアイ子がめんどくさくなって、私はアイ子の両肩を掴むと私の肩と同じ位置まで押し下げる。そのままアイ子の唇を奪って、二秒、三秒……これくらいかと思って唇を離した。アイ子は目を白黒させて、顔を真っ赤にしている。なんだ。かわいい顔するじゃないか。


「――私は、あなたと会えて良かった。それだけだよ」


そのとき、うろたえるアイ子の後ろで、真っ赤な服を着た長身の、美しいサラサラの髪の女性が、ふっと微笑んだ気がした。そして、あのとき、届かなかった言葉を、そっとこの世界に、歌うように、つぶやいた気がした。


『――私も、あなたと会えて、良かった』


そうして、あの子は、アクロバティックサラサラは消えた。これで、アイ子に憑いていた、アクサラの残滓も落ちただろう。そう思ってアイ子を見ると、アイ子は唇をかみしめながら、喜んでいるような怒っているような悲しんでいるような嬉しがっているような、複雑な表情を見せていた。感情の処理、間に合っているのだろうか。間に合ってないな。これは。


でも、お姉さま。妹。擬似姉妹か。それは、きっと私たちがこの世界で生きていく上でのおままごとだ。それでも、この世界という箱庭の中で、お互いが大切な存在であることは間違ないから、相手の事を思いやり行動し、お互いを特別に思う。


血縁的な繋がりもなく、婚姻関係も、法律による束縛もない。であるならば、擬似姉妹の関係性を証明できるものがあるとするならば、いるかどうかさえ分からない神様と、二人の心の中にある繋がりだけなのだろう。


そんな、危うげな、細くて頼りないつながりが愛しくて、私はアイ子の手を取った。アイ子が帰ってきたときのために、たくさんお酒を仕入れてあるから、冷蔵庫はパンパンだ。ちょっとは処分してくれないと困る。銀と青、繋いだ手の二つのブレスレットが擦れ合って鈴のような音を奏でる。私が海で、空で、アイ子が光。そんな関係であれたらと。そこに、恋愛感情があるかは、わからないけれど。


「さあ、帰ろう。妹よ。一週間ぶりに、アイ子の話を聞かせてよ」



――これが。私とアイ子の、出会いであり、始まりであり、約束だった。



そしてこのとき、私たちは、私たち姉妹に訪れるであろう結末を、まだ意識さえしていなかったのである。

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怪話型AI子は愛しのお姉さまとメフィストフェレスの夢を見るか うみのまぐろ @uminomagu

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