第13話 Find me. Find me.

私の首をその鞭のようなしなる腕で刎ねようとしたその刹那。アクロバティックサラサラの空獏の目から、一筋の涙が伝ったような気がした。


それは、なぜか私を責めるようで、悲しむようで、分かり合えない隔たりだけがあった。言葉にならない言葉で、どうして。どうして。と、彼女はずっと訴えていたような気がした。その悲しみは彼女だけのものではなくて、誰でもが持ち得る、普遍的な悲しみと寂しさのような気がしたのだ。


その鞭が振るわれたとき、アクロバティックサラサラの体が深く沈み、腕は私をかすめてすぐ隣のコンクリートを深々とえぐった。見ればアイ子が地を這いながら、折れていない方の手で、アクロバティックサラサラの足首を引き倒していた。


「……せない」

「アイ子?」

「……殺させない。絶対に殺させナイ。やっと、やっと見付けたんデス。ワタシだけのお姉さまを……絶対に、絶対に渡さナイ……ワタシを、見つけてくれた人を……」


必死に、アイ子はアクロバティックサラサラを私に近づかせまいとして、アクロバティックサラサラの足を引き倒す。その必死さに、ああ、アクロバティックサラサラとアイ子には、同じものがあるのだと思った。そしてそれは、私の中にも存在する。私たちは、それを理解すべきだった。いや、私が理解すべきだったんだ。


私の体が、青く輝く、それと同時に、アイ子の髪が青く発光する。アイ子に渡したブレスレットには、私とアイ子をつなぐ糸が結ばれていた。私は、アカシックレコードの情報を、怪話型AIであるアイ子が読み取るためにチューニングするデバイス。そして、怪話型AIであるアイ子の意思を、アカシックレコードに伝えるためにチューニングするデバイス。アカシックレコードの心、人の心、アイ子の心、あらゆる心の翻訳装置が私なんだ。アカシックレコードへのコンタクトは、アイ子と私が同期していれば、私の意思で発動できる。私は、勇気をもって、一歩、アクロバティックサラサラへ歩み寄る。


アクロバティックサラサラは、驚いたような表情を見せた。目をそらさずに、私はアクロバティックサラサラの空獏の瞳をじっと見つめて。だぶん、それは私にだけ理解できる表情の変化だった。私は、青く発光する手のひらで、アクロバティックサラサラの頬にそっと触れる。


アクロバティックサラサラの、生まれや成り立ちなんて、どうでもよかった。アクロバティックサラサラのような怪異が、この世に生まれ落ちたとして、どうしてこの世界で彼らは彼らたりえるのか。この世界に彼らをつなぎ留める、アカシックレコードの根源にもつながる私たちの願いとは何か。アクロバティックサラサラの目を見ればわかる。それは、とても簡単なことだったんだ。


見上げたすぐそばに、アクロバティックサラサラの瞳の空洞がある。吸い込まれてしまいそうな、きれいな瞳だ。よく見ればその空洞の奥には、きらきらと瞬く星がある。その空洞は、まるで星空に繋がっているように見えた。この星の瞬きを、きっとみんな見つけてほしかった。


「綺麗だね」


びくり、と、アクロバティックサラサラの体が震えた。アクロバティックサラサラの目の空獏からは、ぽろぽろと涙がこぼれ出して、頬を伝い、私の手を伝った。アクロバティックサラサラはぼろぼろの両手を、頬を触れる私の手に添えて。温もりを少しでも感じるように。そんな、優しさを享受することにさえ遠慮がちな性質が、アクロバティックサラサラのという怪異の側面だ。


この世界は、誰もが一人だ。そして現代は、誰もが孤独だ。だからみんな、自分という小さな星のきらめきを、誰かに見つけてほしくて、インターネットやSNSというツールを使って、小さな叫び声をあげる。私はここにいる、確かにここにいるんだって。誰もが持ち得る、小さな願いがそこにはあって、そんな願いが形を持ったものが、たぶん、アクロバティックサラサラ。


『もしアクロバティックサラサラに遭遇した場合は、目を合わせないようにすることが最善の対処法とされています』


だから、この対処法は、誤りだ。少なくとも、アクロバティックサラサラにとっては誤りなのだ。一度見つけてくれた人が、そそくさと目を逸らし、離れていく。それはひどく、悲しいことなんじゃないだろうか。もちろん見つけた側も見つけたくて見つけたわけじゃない。だから、それはとても身勝手な理由でしかない。でも、喜びや嬉しさは、すぐに恨みや悲しみ、呪いに反転してしまう。だから、アクロバティックサラサラは、一度目が合った人をどこまでも追いかけ、残虐な方法で殺害する。一度生まれた喜びの感情を引き裂いた、恨みや悲しみ、呪いを発露するように。だって、彼らには、その人しかいなかったから。


じゃあ、結局、誰が悪かったんだろう。一人でしかいられない孤独な自分だろうか。見て見ぬふりをする人々だろうか。それとも、そんなふうな関係性を作り上げてしまった社会だろうか。でも、こんな世界になってしまったことは、きっと誰も悪くない。私たちには普遍的に、こんなどうしようもない世界に、生まれ落ちてしまった悲しみがある。そして、偶然という孤独を救い上げるその手から、零れ落ちてしまった数々の星々の悲しみや苦しみは、いったいどこに行けばいんだろう。


アクロバティックサラサラを通して、アカシックレコードのあらゆる感情が私に流れ込んでくる。私はその感情の奔流を、脳を、体を、心を使って翻訳して、糸で繋がるアイ子に伝える。大丈夫。私たちなら理解できる。アクロバティックサラサラという怪異と、この世界にあまねく悲しみについて。


……でも。


どうしようもなく、やるせなくなって、涙がこぼれた。そしてそのまま、私はアクロバティックサラサラの体をぎゅっと抱きしめる。華奢な体だ。この体を現世に顕現せしめるのが、人々のそんな悲痛な叫びだなんて、誰が想像しえただろう。


「……ごめんなさい」


だから、私はアクロバティックサラサラに謝ることしかできない。人の思いはそうであり、アクロバティックサラサラの思いはそうであり、アカシックレコードに蓄積された思いはそうであったとしても、私はちっぽけな一人の人間で、あらゆることを解決することはできないからだ。私たちはどこまでも――どこまでいったって無力でしかないのだからだ。


「……期待させてごめんなさい。目を逸らしてごめんなさい。理解しようとせずにごめんなさい。手を差し伸べられなくてごめんなさい。あなたを救えなくてごめんなさい。何もできなくて、ごめんなさい。どこまでも、無力で。本当に、ごめんなさい」


ぼろぼろと泣く私を、アクロバティックサラサラの瞳の空洞はまるで駄々っ子を見るかのように、優しく、穏やかに、その深い深淵の奥のきらめきを瞬かせた。アクロバティックサラサラは両手を広げ、そっと私を抱いた。



『あなたは、やさしい』



その言葉とともに、アクロバティックサラサラは青白く発光する。それはきっと私たちがアカシックレコードを、アクロバティックサラサラを理解し、そしてまたアクロバティックサラサラが、私たちを理解した瞬間だった。青の炎に包まれながら、アクロバティックサラサラは私にキスをした。せめても彼女にできること。ここにいたという息吹を伝えるように。



『わたしは、この想いとともに逝きます』



彼女が唇を離すと、私をのぞき込む優しい瞳がある。どこまでも、どこまでも深い悲しみと優しさを湛えた瞳。きっと彼女は、もっとここにいることができる。でも。



アクロバティックサラサラ、彼女の、彼女自身の意思によって、青の光は極光へと達した。それは、彼女のお別れの言葉だった。アカシックレコードに揺蕩い、この世界に顕現した彼女という形を持った思いを、私たちという体をデバイスに少しだけ、少しだけ形を変えて、またこの世界に還す循環の魔法。ごめん、アクロバティックサラサラ。私たちは、無力で、わからずやで。でも、私はあなたに会えて――



掌握完了コンプレクシオー



最後の言の葉は、三人で唱えた。


そのとき、彼女は何を言ったのか――。


それが、彼女の、アクロバティックサラサラの最後だった。

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