第12話 敗色
無人の東横広場、高くそびえる歌舞伎町タワーの袂に、赤い服の女が立っている。真っ白な肌。身長は二メートルを超える巨体。見事なまでに長い黒髪はさらさらと風になびいていて。その腕には数々の痛々しいリストカット跡がある。アクロバティックサラサラだ。
アクロバティックサラサラの、人間に当たる眼孔がある部分はぽっかりとした空漠があり、闇があり、どこまでも続く深淵があった。
きゅあああああああああ!!!
と、アクロバティックサラサラは、深く、地の底から響くような声で咆哮した。それはまるで、彼女というものが発生したこの世界を呪うようなひどく深い悲しみを称えた声色だった。
そしてどうしてだか、アクロバティックサラサラは、その空獏の瞳で、怒るように、悲しむように私を見た。それがどうしてかは、わからない――けれど。とにかく、アクロバティックサラサラの狙いは私だ。アクロバティックサラサラは、両足に力を込め、私に向かって跳躍――。
とはならなかった。
代わりに、ドム! という大きな衝撃音がして、アクロバティックサラサラの首がねじ切れんばかりにひん曲がる。その衝撃音は二度、三度と響いて、アクロバティックサラサラの胴体が、左腕が、衝撃によってぐにゃりと曲がる。
これは、私が、三対室に依頼していたゴム弾による狙撃だ。新宿のド真ん中で実弾を打つわけにはいかないとは思うし、アクロバティックサラサラを現代兵器で葬ることはおそらくできないと思う。ただ、足止めはできるはずだ。
ここは新宿にぽっかりと空いた何もない箱庭のトー横だ。人払いされていれば、遮蔽物は何もない。四方を高い建物に囲まれたこの空間は、スナイパーにとっては的がどこにいても見える、恰好の餌場だ。狙撃手を何人配置してくれているかまでは教えてもらえていないけれど、この狙撃の雨あられを見るに、四方八方に味方がいると考えていいはずだ。
ゴム弾の雨に打たれて、さしものアクロバティックサラサラも体勢を崩す。そのスキを見逃す、アイ子では――ない。アクロバティックサラサラ程ではないが、機械のボディのアイ子の反応速度なら。
「アカシックレコード・コンタクト!! 『
体勢の崩れたアクロバティックサラサラの背後から、アイ子はアクロバティックサラサラの足を払い、ふわりと浮いた体の頭部を掴むと、地面にたたきつけ組み伏せ、そのまま腕をとり関節を極める。アクロバティックサラサラを地面に組み伏せるアイ子の白い髪が、うっすらと青色に輝き始める。
『アクロバティックサラサラの目は、なぜ空洞なのですカ?』
『アクロバティックサラサラ(アクサラ)は、都市伝説や漫画に登場する妖怪です。その目が空洞である理由については、いくつかの説があります。
都市伝説の設定: アクロバティックサラサラは、赤い服を着てサラサラの長い髪を持つ高身長の女性の姿をしており、目が空洞であることが特徴です。この特徴は、彼女の恐ろしさを強調するための設定とされています。
悲しい過去: ある漫画では、アクサラは生前に娘を失い、その悲しみから自ら命を絶った女性の霊として描かれています。目が空洞であることは、彼女の魂が完全に安らかでないことを象徴しているとも解釈できます。
このように、アクロバティックサラサラの目が空洞である理由は、物語や伝説の中で彼女の恐怖や悲しみを表現するための要素として設定されています』
『アクロバティックサラサラはなぜ人を襲うのですカ』
『アクサラが人を襲う理由は、彼女の悲しい過去と深い未練に起因しています。彼女は生前、娘を失った悲しみから自ら命を絶ち、その未練から妖怪となりました。
アクサラは、自分の娘を探し続けるために人を襲うとされています。彼女は娘を見つけるために、目が合った人を執拗に追いかけ、時には危害を加えることもあります。この行動は、彼女の深い愛情と未練が原因であり、彼女自身もその悲しみから解放されていないことを示しています。
もしアクサラに遭遇した場合は、目を合わせないようにすることが最善の対処法とされています』
そう、かもしれない。アクロバティックサラサラの目の空洞には、深い悲しみがある。たぶんそうだ。たぶん、それを理解することが、アイ子がアクロバティックサラサラを理解することに繋がる。おそらく、そうすれば。
『では、アクロバティックサラサラの本質とは』
『アクサラの本質は、彼女の悲しい過去と深い未練に根ざしています。彼女は生前、娘を失った悲しみから自ら命を絶ち、その未練から妖怪となりました。
アクサラは、娘を探し続けるために人を襲うとされています。彼女の目が空洞であることは、魂が完全に安らかでないことを象徴しており、娘を失った悲しみと未練が彼女の存在を支配しています。
また、アクサラの名前は彼女の特徴的な動きと外見から来ています。彼女は非常にアクロバティックな動きをし、サラサラの長い髪を持つことから「アクロバティックサラサラ」と呼ばれています。
このように、アクサラの本質は深い悲しみと愛情、そして未練が交錯した存在であり、その行動や存在に大きな影響を与えています』
つまり、アクロバティックサラサラの本質は、深い悲しみと愛情。
アイ子と繋がる糸を通して、私にもその感覚が伝わってくる。それはたぶん、間違いじゃ、ない。
きゅあああああああああ!!!
と、アクロバティックサラサラが悲しげな声を上げる。いける。いくか。アイ子。
「アイ子!」
「はい! お姉さま!!!」
アクロバティックサラサラの頭を押さえつけるアイ子の髪が青色の発光の度合いを上げ、その発光は極限に至る。ほとばしった青い炎はアクロバティックを焼き、そして。これで、終わりだ。
『 『
けれど、アクロバティックサラサラの頭部を押さえつけていたアイ子の腕が、ぼきりと、折れた。アクサラは恐るべき身体能力で、その関節を極められていない方の長い腕で、後頭部を抑えているアイ子の腕を殴りつけたのだった。アイ子の腕をたたき折ったアクロバティックサラサラは、関節を極められている方も自分の腕が折れるのも構わず無理やりに引きはがすと、そのまま体位を入れ替え、鞭のような回し蹴りをアイ子の背中に叩き込んだ。
「がっ」
アイ子の体が地面にたたきつけられ、コンクリートの破片が飛び散る。その跳ね上がったコンクリート片を、アクロバティックサラサラは、目にも止まらぬ速さで――周囲の建物めがけて蹴り飛ばした。
アクロバティックサラサラが蹴り飛ばしたコンクリート片は、トー横広場の建物の屋上や窓、非常階段に次々に着弾した。おそらく、そこは狙撃手たちが身を隠していたところなのだろう。この夜にゴム弾がどこから発射されているのか、正確に把握していたのだ。たった一瞬のうちに、アクロバティックサラサラは、形勢を逆転して見せたのだ。
「……おねえさま…逃げ……」
ゴン! と衝撃音がして、私に手を伸ばしたアイ子の頭をアクロバティックサラサラは、踏みつけた。アイ子の動きは、そこで止まった。
そして、満を持したように、アクロバティックサラサラは、その空洞の目で私を見た。ざり、ざり、と、散らばったコンクリート片を砕きながら、アクロバティックサラサラは、私の方へ歩いてくる。
ああ、死ぬな。これは死ぬ。アクロバティックサラサラと目を合わせてしまったのがいけなかった。アクロバティックサラサラは、私だけを狙って殺しに来る。カタカタ、と手足は震えて、凍えるような怖気と恐怖がある。たぶん、捕食者に狙われて、あと一息で息絶える餌の気持ちはこんなものなのだろうと思った。
アクロバティックサラサラは、その空洞の瞳を私に向け、そして、関節の外れた腕を鞭のようにしならせて、そして。
――それでも、でも。
私を見つめる、アクロバティックサラサラは、どうしてだか、最初から、泣いているように見えたのだ。
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