九月、ただ日の射す部屋で

目々

鏡は既にひび割れて

 二十七度に設定されたエアコンは微かな唸りと共に冷風を吐き出す。

 曖昧な快適さに満ちた室内には、僅かな埃と他人の熱の気配を覆うように煙草の匂いが漂っている。


「もうちょっと隅の方に転がれよ。踏んづけそうになる」


 床におざなりに敷かれた薄いカーペット、その上にごろりと転がってスマホを眺めていた俺の足を踏むように蹴ってから、叔父は台所から取ってきたらしい灰皿をテーブルに置いて座り込む。そのまま背もたれ代わりのベッドにぐったりと寄りかかりながら、口元からゆるゆると煙を吐いた。


「寝転がるなとは言わないけどさ、一応この部屋俺が借りてんだよね。家主より堂々とスペースを占拠するなよ」

「端の方だと日が眩しいじゃん。まだ日が出てるから」

「日当たりいいからなこの部屋。冬はいいんだけど、夏だとカーテン開けると馬鹿みたいに暑くなる……」


 もうそろそろ秋だと思うんけどなと呟いて、叔父は煙草を指先に挟んだまま、視線だけを窓へと向ける。ベランダに通じるガラス戸から差し込む午後の光は九月──秋という季節相応に色と鮮やかさを失っているのに、それでも夏の刃物じみた鋭さと熱を執念深く保っているようだった。暦の上では晩夏などとうに過ぎている。いつから夏がここまで往生際の悪い季節になったのか、思い出そうとしても記憶の夏はどれもこれもぎらつく光と肌の裡まで焼くような熱に満ちているばかりで、夏の末期というものがどうだったのかは体のどこにも記録されていないようだった。


「先週はさ、まだギリで八月だったし。表歩いてて焦げそうって思うのも季節感的にはありでしょ。でも今日来たときも体感変わんないのはさすがにどうかと思うんだよ、だって九月だし」

「そういやそうだっけ……しかしあれだね、お前も毎週こんなところに顔出すあたり律義だね」


 安アパート入り浸って楽しいかいと叔父が煙を吐きながら呟けば、嗅ぎ慣れた紫煙がふらりと流れ寄ってきたので手で扇ぎ返す。副流煙がどうとかではなく、単純に煙たかった。


「まあ両親からの頼まれごとだし、それなら被扶養者こどもはできる限り聞かなきゃいけないやつでしょ。あとは小遣い出るし、食費も浮くし」

「バイト代出てるのか」

「あと叔父さんち面白いものそこそこあるから。漫画とか映画とか、少なくとも俺の部屋の本棚より充実してるもん」

「人んちを秘密基地かなんかだと思ってるな」


 微かに苦笑の滲んだ叔父の言葉には答えず、俺は寝返りを打つ。家に自分用の個室は与えられてはいるが、それでも親の目の届かない場所が欲しいというのは十七歳としてはありふれた欲望だろう。だからと言って他人の住処を隠れ家代わりに扱えるのかといったら、普通はそうでもないというのも分かる。他人の家というものは本来ならそれなりの居心地の悪さを感じて然るべきなのだろうが、叔父の住むこの安アパートの一室に関してはまた少し勝手が違う。

 何しろこの人は俺にそこまで興味がない。俺がここで転がって親に見つかったら眉を顰められそうな映画を見ていようが疚しい描写が多めの小説をだらだらと眺めていようが、精々伸び放題の前髪の隙間から黒々とした目で一瞥をくれる程度だ。何かしらあからさまな邪魔や悪事をしでかさない限りはどうでもいいのだろう。俺としてもそれでちょうどいい。別に嫌われたとか疎まれたとかでもなく、昔からそんな具合だ。盆暮れ正月に何度か顔を合わせて、そのたびに暇潰しと所在なさを何となしに誤魔化し合う程度の間柄とでもいうべきだろう。特別に嫌ってもいないが格別に好いてもいない。憎悪も期待も好意も敵意も微量であるからこそ、成立する関係──叔父と甥などその程度の関わり方で十分だと、少なくとも俺は思っている。


「実利がデカいんだよね。ここに偵察に来るだけで日給三千円に食事代別だからね。おいしいおつかいバイトにもほどがあるじゃん」

「それ俺に言っていいのか」

「だって叔父さん分かってるじゃん。じゃあ誤魔化すだけ無駄だし、失礼でしょ」


 俺の物言いに何かを言おうと口を開けてから、叔父は諦めたように煙草を咥える。そのまま長々と煙を吐いて、日向の猫のようにゆっくりと瞬きをした。

 偵察、というおよそ日常にはあまり馴染みのない言葉が出てきたのにはそれなりに理由がある。そんなものをたかが高校二年生の俺が任されているのはひとえに叔父の素行のせいだ。

 そもそも現状の叔父がどんな様なのかといえば、駄目になっているという表現がしっくりくるだろう。

 ゆるい癖のある黒髪は伸びてもつれてワカメのかたまりのようになっているし、目元は伸び切った前髪に鬱陶しく覆われ、時折髪の合間から泥でも押し込めたようにどろりと黒い目が覗く。日中はほとんど表に出ないせいだろう、肌は仏壇の燭台に溶けて溜まった蝋のような生気のない白さで、顎にはまばらに無精髭が生えている。それでいて首元の伸び切ったTシャツばかり着ているのだから、まったく外見からすれば立派な社会不適合者としかいいようがない。人を外見で判断してはいけないとはこれまでの成長過程でことあるごとに叩き込まれる理屈ではあるが、一方で一般社会で生活するにおいてまともな身だしなみも取り繕えないようなやつに関わってはいけないという不文律も刷り込まれるのだから致し方ない。

 そんな現在の有様からは想像し難いことだが、昔の叔父はそれなりにまともな好青年だった。都会の大学を出てからすっかり向こうに馴染み、こちらには盆暮れと正月くらいにしか顔を出さないようになりつつもそれなりに稼ぎのいい仕事に就いていたのが、三年前に突然に全部放り出して故郷のクソ田舎懐かしの我が家に帰ってきたかと思ったら駅から徒歩五分で家賃が三万円のどう考えても曰くがないとおかしいようなアパートに住み始めたのだ。

 そんな愚行を通り越して奇行とでもいうべき真似をするものだから、親類縁者が不審心配に思うのも当然で、もしかしてお脳の調子を崩して何かしら凶行に走るのではないか、あるいはもっとシンプルにひっそりとアパートで孤独に朽ち果ててしまうのではないかという懸念についてそれなりの話し合いが行われた結果、現状親族の中で一番時間に自由が効いて家も近くて、その上叔父とそれなりに仲良くやれていた過去の実績があった俺が偵察役として任命されたという理屈になる。


「まあね、現状としていい年した大人が職にもつかずに引きこもってるわけだから、親族連中が不安がるのは分かるけど……お前はそんなやつのところに身一つで出入りして怖くないのか」

「多少頭がおかしい人でも俺を殺したりしないでしょ、今んところは」

「その頭のおかしい人ってのは誰のことだ」

「この空間に今人ったら叔父さんと俺しかいないし、俺はまともだし」

「……その手の質問はさあ、まともだって主張しても病識なしってことで病人扱いだし、その通りだって認めたら図々しい狂人だしでどん詰まりなんだよな」

「どっちなの叔父さん」

「どっちでもいい。要はどう答えても意味がないだろ、それ」


 一息派手に煙を吹き上げてから、叔父は視線を窓の外に向けたまま続けた。


「大体なんで初手から狂人扱いなんだ。特段やらかしたわけてもないのに」

「さっき自分で言ってたじゃん。働いてない」

「それは……駄目って詰られるのはまだ分かるよ。国民の義務だからな勤労」


 駄目なのとおかしいのはエラーのカテゴリが別だろうと煙と共に嘯いて、叔父は口の端を曲げる。父とよく似た顔なのに表情の作り方は違うのだなと当たり前のことに気づいて、俺は何となく目を逸らす。


「……ほら、やらかしそうではあるじゃん。叔父さん個人としては知らないけど、世間一般の感覚としては、せっかく就いてたまともな仕事ほっぽり出して田舎にとんぼ返りするようなやつは正気じゃない枠に入るんだよ、多分」


 世捨て人というならもう少し穏便な表現になるだろうが、それこそ些細なことだろう。義務を放棄し社会と関わることを拒絶しているだけで、世間一般のまともな人間からは既に逸脱しているのだ。本人が敵意と害意がないと主張したところで、それを保証できるものがないのだからどうしようもない。俺としてはこの人は刺されも刺しもしないそこまでの興味も持たないし執着も持たれないと思ってはいるけども、血縁及び身内評というものは中立的な評価として採用されることはない。

 確かに俺は知っている。表情のバリエーションが少ないくせに分かりやすいからババ抜きでも花札でも子供相手にボロ負けするくらいに弱いことも、好きになるバンドがすぐメンバーの素行不良や売り上げ不振で解散あるいは無期限休止するのが嫌になり、最初から活動停止したような古いバンドの曲ばかり聞くようになったことも、雑なくせに気が小さいから大雑把なことをやらかしてから後悔して延々と引きずるし、そういうことがあった日は決まって夜中に誰もいない台所で換気扇の下で煙草を吸いながらインスタントコーヒーを淹れているのも、そういうところに行き遭ってしまった間の悪い親戚の子供に口止め料だと美味くもないインスタントコーヒーを分けてくれることも、俺は覚えている。


 悪い人ではない、大それたことができるような人でもない、飛び抜けて賢くもないけども底抜けに愚かなわけでもない──そんなことを俺のような甥っ子未成年のガキが主張したところで、何の役にも立ちはしないのだ。


「そういやずっと思ってたんだけど、ここの洗面所、鏡がないじゃん。顔どうしてんの」

「鏡なくっても洗えるだろ。そもそも洗顔の時って俯くんだから、鏡のあるなしってそこまで関係がないし……」

「そもそもその髭だって鏡ないからどうにもなんないんだろ。駄目じゃん、こう、人間としての身嗜みみたいなやつが」


 そういうところなんじゃないのと追い打ちのように続ければ、叔父は返事代わりに派手な煙を吐いてから無精髭の目立つ顎を擦った。


「……普段は、風呂場で剃ってんだよ」

「じゃあ何で今日そんな様なの」

「単純に最近はサボってるだけだよ、お前相手に見栄を張るのも面倒だし」


 片目だけを皮肉げに眇めて、叔父は煙草を咥えた。薄い唇の合間から不釣り合いに大きな八重歯が覗く。


「鏡がないからまともじゃないってのも大した物言いだと思うぞ、俺は。別に鏡があったって気が狂ってるやつなんか幾らでもいるだろ。論、というより言い掛かりとしても雑なんだよ、お前」

「そこまで細かいこと言いたいわけじゃないもの。ただ、あるべきところにないのってやっぱ変だよ。風呂場にあるなら尚更」


 なんか訳とかあんのと聞けばためらうような沈黙があった。


「……あった、し、ある、っていうべき、だろうな」

「歯切れがめちゃくちゃ悪いじゃん。え、<そういうやつ>なの?」


 俺の問いに叔父は俯く。口元に咥えられたままの煙草の先、赤い火種が呼吸に合わせてじわじわと明滅する。

 幾分か長い間があってから、叔父が口を開いた。


「話したら、聞いてくれるか」

「そりゃあまあ、聞くけど。話したいの?」

「なんだその疑問」

「普通はそういうの話したがらないのが鉄板じゃん。プライバシーっぽいし」

「妙なところでまともな反応をするなよ」


 短い笑い声を上げてから、鬱陶しい前髪の間でぞろりと目玉がこちらを向いた。射し込む午後の日に白眼が鈍く光ったようだった。


「まあ、ただ頭がおかしくなったみたいに思われてるのも気に食わないってだけだ。ただ闇雲に妙な真似をしてるんじゃなくて、奇行に到る経過と結果があったってのを教えておこうと思ってさ」


 どうせ信じちゃもらえないだろうけどなと掠れた声で呟いて、叔父はすっかり短くなった煙草を灰皿に押しつける。

 手元にいつのまにか掴んでいた箱から手品のように取り出した一本を咥えて、火を点けて──細い紫煙を吐いた。


「結果から話すとさ、ここにいない人が映るんだよね、洗面所の鏡」


 今日も無事に日が昇りましたとでもいうような、ただ起きたことを報告するような声音で予想だにしなかったことを告げられて、俺はただ叔父の目を見返す。

 前髪の隙間から覗く黒々とした目はただ静かに午後の日に微かに光るばかりで、分かりやすい錯乱の気配じみたものは僅かにさえ滲んではいない。


「それは──えっと、知ってる人?」

「俺が都会向こういたとき勤めてた会社の先輩。俺の指導役メンターやってた人」

「過去形だけど」

「死んじゃったからね。全部過去形」


 何でもないかのように煙と共に吐き出された言葉に、俺は目も逸らせないままに黙り込む。

 叔父は右目だけを器用に細めてみせた。


「まあ、そこは面白くない話なんだよ。週休二日どころか連勤二桁も珍しくなかったとか、なんかプライベートでも厄介ごとがあったとか、担当してた業務で他のやつがやらかしたミスのとばっちりをまともに食わされたとか……そういうね、あの人個人の話なのに、普通によくある話にもなっちゃうから」


 それで嫌になって逃げ帰ってきたんだから俺が一番みっともなくて卑怯だよなと平坦な声音で呟いて、叔父がゆるゆると煙を吐く。どう答えるべきかなどと俺には少しも分からず、天井へと昇り切らずに薄れて消える紫煙を眺めていた。


 ふと、叔父が煙越しに俺の方へと視線を向けているのに気づく。髪に、煙に隔てられているはずなのに、どうしてか肌も肉も徹して覗かれているような感覚に耐え切れず、俺はとうとう目を逸らした。


「そんでまあ、地元こっちに戻ってきたわけなんだけどさ。実家に長居する気にもなれなかったし、適当に安めの物件借りたわけよ。曰くとかあってもいい、とにかく安くてそこそこ生活に不便がない感じのやつをって、駅前の不動産屋に頼み込んで」

「じゃあやっぱり訳ありなの、ここ」

「具体的な訳はない、って言ってたな」


 息継ぎのように天井を向いて、叔父が煙を吹き上げる。そのままこちらへと視線を戻して続けた。


「誰も死んでないし、何も起きてない。ただ、どういうわけか人は居つかない……そういう物件だとは聞いた。だからお安いですけどおすすめはしません、って言ってたから、正直だなとは思った」


 安いから文句はなかったよと叔父が笑う。俺はどうにか笑い返そうと、口元に力を込めた。


「で、しばらく何にもなかったんだけどね。住んで一か月経つかどうかぐらいの頃だったか……寝つけなくってな、夜中に煙草吸ってたら、名前を呼ばれた」


 午後の淡い陽の射す部屋で、昏い目がゆっくりと細くなる。

 伏せられた睫毛に翳った目は、路地に蟠る夜のように黒々としていた。


「何だろうって声のした方──洗面所の方をね、覗いた。そしたら鏡の中にいたんだよね、先輩。会社にいたときと同じ、面白くもないスーツで、真っ白い顔して、俺の方をじっと見てた」


 咳払いのような、笑い声のような、曖昧な音が叔父の喉から零れた。

 俺は叔父の筋の浮いた生白い首筋を見つめたまま、ただ続きを待つように黙っている。


「ああいうもん見ると、変に冷静になるんだな。鏡の中の先輩と視線を合わせたまま、廊下に戻って、台所の灰皿に煙草潰して、そのまま居間に戻ってドア閉めて朝までテレビ見てた」

「それ以外は、その」

「何にも。名前を呼ばれたりも、以降夢枕に立ったりとかもなし。だからこうして元気に生きてるわけだよ」


 でもさ、と煙草の灰を灰皿に落としながら、叔父が続けた。


「見る方は、一回じゃ終わらなかった。週に二三回ぐらい見えるようになっちゃったから、さすがになって悩んで鏡を外したんだよ。手順動画で調べてさ」


 今の世の中って便利だねと嘯いて、叔父は僅かに首を傾げた。

 これで話すべき内容は全てだとでもいうように、叔父の口元から細い煙が吐き出される。立ち昇った紫煙はエアコンの冷風に揺らいで薄れて消えていった。


「……とりあえずさ、つまんないことを、言うんだけど」

「どうぞ」

「引き払ったほうが、いいんじゃないの。その、実害出てんじゃん、今の話からすれば」

「家賃安いんだよ」

「だからって……」

「出費は抑えたいだろ。今んとこ稼ぐあてなんかないから、尚更。貯金あるったって無駄遣いできるほどの余裕があるわけじゃないし」


 顎を擦りながら、叔父はそれなりの正論を吐いた。無駄遣いというなら煙草はどうなんだと問えば、露骨に視線が背後の壁へと逸れた。


「鏡以外はさ、何もないんだよ。そりゃコンロは二口だしクーラーも最新式じゃないからそこそこうるさいけど、別に不満ってほどでもない」


 お前だってそこそこ快適だからこうやって入り浸ってんだろうにと嘯く叔父の口元、吊り上がった唇の端から白々とした八重歯が覗いた。


 ──筋の通ったでたらめなんだよな。


 身も蓋もない感想は口には出さずに、俺は叔父の語りをどこまで信じるべきかを考える。

 普通に考えれば、死んだ職場の先輩が夜な夜な鏡に映るなんていう話を滔々と語れる時点でまともではない。幽霊の実在や怪談の虚実なんてものはさておいて、一般的にはいい歳をした大人が真顔でおばけの話をする時点でどうかしている。都会の水が合わなくて、勤めた会社でろくでもない目に遭って、知ってる人が死んで、駄目になった田舎者。そうして傷んだ精神で、逃げ帰った田舎のアパートの一室で、いないはずのものを見ている──こちらの方がお化けだの曰くだのを介在させるより、余程まともな筋ではあるだろう。

 どちらにしても叔父が悪いものを見ているということだけは事実だ。それくらいしか、俺には分からなかった。


「しかしあれだな、こんな話したらお前ももう来なくなんのかね、さすがに」

「なんで」

「明らかにおかしい叔父さんだろ、こんなこと言うんだからさ」

「……さっきも言ったじゃん、急に人刺したりベランダから飛んだりしないんなら、いいんじゃないのしばらくは」

「そういやそうだったか。生温いお優しいことで」


 言葉の端に滲む揶揄じみたものの気配に気づかないふりをして、俺はベランダの方へと視線を向ける。日射しはまだ清かに明るく、ガラスを透って床に伸びる光の淡さだけが秋のような色合いの幽かな影を落としていた。

 クーラーの稼働音、その低い唸りに混じって、叔父が長く息を吐いた。


「今でもさ、たまに映るんだよ。ない鏡に、もういないやつが」


 振り返ろうとして、止めた。叔父がどんな顔をしているのか、それだけはどうしても見たくなかった。

 叔父から見えないように、右手でシャツの裾を握る。何でもいいから縋るような真似事をしておきたかった。


「……それさ、俺以外には言わない方がいいよ」

「言ったことないもの──誰も来ない、誰も俺の話なんか聞かない、お前以外はさ」


 だから、お前だけだよ。


 宥めるような、滴るような柔らかな声で告げられた言葉を、俺はどうにか聞き逃す。やっぱり叔父は都会での苦労で少しばかりおかしくなっているのだと、それだけのことにしておくべきだと思い込む。

 それ以上は考えないようにして、俺はまたスマホへと視線を移した。

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