目印
六散人
私がそれに気づいたのは、会社からの帰路だった。
それは何かの足跡のようで、駅から自宅の賃貸マンションに向かう途中の道に、点々と印されていたのだ。
よく見るとその印のような跡は、西方向からずっと続いていて、交差点で北方向に折れていた。
――何だろう?
私は少し不思議に思ったが、家に向かって歩き出すと、すぐにそのことは忘れてしまった。
自宅に帰ると、妻は不在だった。
テーブルには冷めた夕飯が置いてある。
置手紙すらないのは、勝手に食べろということなのだろう。
結婚して4年、私と妻の関係は冷え切っていた。
多分そのうちどちらかが、離婚を言い出して終わるのだろう。
妻が浮気していることは、薄々感づいている。
しかしそのことは、離婚調停で揉めた時の交渉材料として、取っておこうと考えていた。
私は食事を済ませて後片付けをすると、入浴してすぐにベッドに潜り込んだ。
一日の仕事で、体の芯まで疲労が溜まっていたからだ。
私が眠りにつくまで、妻は家に帰らなかった。
よく朝目覚めると、いつの間にか帰った妻が、隣のベッドで寝ていた。
どうやら起きる気はないようだ。
それも最近では、当たり前のことになっている。
そういう重苦しい毎日が、私の心を苛んでいた。
家に帰って妻と顔を合わせることが、とても憂鬱になっている。
それでも私の日常は、何の変化もなく過ぎているのだ。
ただ一つだけ、日々の生活に変化があったとすれば、例の印だった。
あれ以来、道の印はどんどん先に進んでいる。
まるで私の家に向かっているようだった。
そのことを私がはっきりと認識したのは、印がマンションの入口から中に続いているのを見つけた時だった。
そして翌日には、印は階段を上り始めていた。
私はとても不思議に思ったが、それも一瞬だった。
日々の生活の重さが、すぐに私の心に覆い被さってくるからだ。
その日私は、遅くまで残業する予定だったのだが、急に仕事がキャンセルになり、早めに帰宅することになった。
妻には遅くなると言ってあったので、多分夕食はないだろうと思い、コンビニで弁当を買って帰ることにする。
私の気分は、いつにも増して憂鬱だった。
早く帰ると妻が良い顔をしないのは、眼に見えていたからだ。
そんな気分のまま私が帰宅すると、あの印は自宅の前まで到達していた。
そして鍵を開けた扉を開けた私の眼に、不思議な光景が飛び込んできた。
ダイニングに鮮やかな緑色をした、巨大な蛙がいたのだ。
蛙の口からは二本の白い脚が覘いている。
多分妻の足だろうと思った時、脚は蛙に呑み込まれて消えた。
ふと気づくと、蛙の脇に腰を抜かして恐怖の表情を浮かべている男の姿が眼に入った。
多分妻の浮気相手だろう。
私が遅くなると思って、自宅に連れ込んでいたようだ。
妻を吞み込んだ蛙は、今度はその男に喰らいつき、頭から呑み込んだ。
男は、ズルズルという音とともに、蛙の口の中に消えていった。
そして蛙は、私の方を振り返る。
私を見るその眼に、喜悦が浮かんでいるのを私は感じた。
その時蛙の口から、くぐもった人間の言葉が聞こえてきた。
『見つけた』
その声を聞いた私の脳裏に、突然幼い時の記憶がフラッシュバックする。
あれは5歳の時、まだ田舎に住んでいた頃だった。
田んぼの傍の道を歩いていた私の手に、緑色の小さな蛙が飛び乗ってきたのだ。
驚いて振り払うと、蛙は地面に落ちて私をじっと見上げていた。
その眼は、今私の前にいる蛙と同じ眼だった。
何だか怖くなって逃げ出した私は、家に帰って手の甲を見る。
そこには蛙の足跡がくっきりと残っていた。
そしてその印が消えるとともに、私は蛙のことを忘れていたのだ。
そのことがあったすぐ後に、私は父の仕事の都合で、離れた場所に引っ越したのだった。
ふと気になって私は手の甲を見た。
そこには小さな蛙の足跡が、くっきりと印されている。
――あれからこいつは、ずっと私を追いかけて来たのか。
――20年以上もこの足跡を目印にして。
蛙が何のために私を追って来たのか、理由は分からない。
妻や浮気相手のように、私を食べるためだろうか。
それとも単に私に会いに来たのだろうか。
その時、のそりと蛙が近づいてきた。
不思議と恐怖は感じない。
多分私の心は、死んでいるのだろう。
了
目印 六散人 @ROKUSANJIN
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