結晶の谷
春名トモコ
結晶の谷
白骨の森の向こうから、魔法使いがやってきた。
墨色の山々に挟まれた谷間の小さな村に偉大な魔法使いが来るなんて大変めずらしいことで、一目見ようと集まった村の者たちは、みんな好意的に彼を迎え入れた。
魔法使いはフードのついた黒いマントで全身を覆い、顔にもマントとおなじ黒い布を巻きつけていた。背が高く、フードと布のすきまからのぞく目は不思議な灰色をしていた。
小さな村には宿屋がなかったので、魔法使いはキシルの家に泊まることになった。キシルは村の唯一の子どもで、父親のセトは、半年前にキシルの祖父から村おさの役を引き継いだばかりだった。
キシルは魔法使いのことが気になって仕方がなかった。
夜の闇とおなじぐらい黒いマントは神秘的で、大事そうに肩から下げている灰色の袋の中身や、彼のゆったりとした動きのすべてに、魔法に関する特別な秘密が隠されているような気がした。
魔法使いは家の中でもマントを脱がず、顔も隠したままだった。男の人であることは間違いなさそうだが、父のように温和な人なのか、それとも祖父のように気むずかしい老人なのか、淡々とした語り口から判別するのは難しい。そのこともキシルが魔法使いに気おくれする要因のひとつだった。
彼と親しくなるきっかけを作ってくれたのは、母だ。父のうしろでじっと様子をうかがっていたキシルに、半年前まで祖父が使っていたベッドを整えるように耳打ちしてくれた。
シーツを交換するのはキシルの仕事だった。父と母はいつもキシルが整えたベッドは寝心地がいいと褒めてくれる。だから、清潔なシーツをまっさらな雪原のように敷くことができたキシルは、魔法使いに話しかける勇気と口実を得ることができた。
「ありがとう。気持ちよく眠れそうです」
キシルがベッドに案内すると、魔法使いはやわらかな声でそう言った。フードの奥にある不思議な灰色の瞳はやさしく微笑んでいた。
だいじょうぶ。怖くない人だ。
それからキシルは、魔法使いが村に滞在しているあいだ、まるで弟子のように彼と一緒にいるようになった。
◇*◇
この世界は、かつて何かを失ったのだという。
それが何なのか、失った世界に生まれた者にはわからない。
魔法使いは、その「失ったもの」を取り戻すため、世界じゅうを旅しているらしい。
村に来た日から魔法使いは一度も食事をしなかった。水すら飲まない厳格さから、魔法に関わる決まりがあるのかもしれないと思ったキシルの両親は、無理に勧めることはしなかった。
家の者に気をつかわせないようにしているのか、魔法使いは食事時になるとそっと外に出ていく。
その日の朝も、キシルたちが朝食を食べているあいだに魔法使いはひとりで出かけてしまった。置いて行かれたキシルは、あつあつの栗粉の粥をもどかしく吹き冷ましながら急いで飲み込み、なんとか全部食べ終わると同時に外に飛び出した。
家のまわりに魔法使いの姿はなかった。どこに行くのか聞いていなかったので、キシルはとりあえず白漆喰の壁と炭色の木枠でできた家が点在する通りを走って、村の中心部へ向かうことにした。
朝のひんやりとした空気が、谷間の村をすみずみまで満たしていた。キシルはまっさらな空気を肺に送り込みながら、道端のあちこちに生えている溶けない氷の柱に足を引っかけないよう、ぴょんぴょん飛び跳ねるように走った。
「おお、キシル。朝からそんなに走ってどうしたんだ?」
キシルを見かけた村の人たちは、そろって声をかけてきた。こわばる片脚を引きずりながら、動かない腕を庇いながら、かたまった首を傾けたままなど、どこかしら不具合を抱えながら畑や作業場に行く最中だった。
魔法使いを見なかったかとキシルがたずねると、みんな親切に教えてくれる。けれど聞くたびにバラバラの答えが返ってきたので、結局キシルは小さな村をあちこち走りまわることになった。
集会所がある広場に出たところで、ようやく背の高い黒い人影を見つけた。
魔法使いはフードを深く被ったままじっと空を見上げていた。キシルは離れた場所で立ち止まり、魔法使いが何を見ているのか視線の先を追ってみる。
墨色の山からちょうど太陽が顔を出したところだった。白っぽい朝日に反射して、何もない空気の一点が気まぐれにキラリと光る。よく目を凝らすと、大理石のようになめらかな白い空から、雪によく似た小さなものがちらちらと降っていた。
魔法使いはマントの中から腕を出すと、落ちてきた雪を黒手袋に覆われたてのひらで受け止めた。その手を目の高さに持ち上げじっくり観察し、あっさりと雪片を振り落とした。
たったそれだけなのに、流れるような所作を目の前で見たキシルは、魔法使いの大事な任務の一端に触れた気がして、心臓がドキドキしているのを感じた。
「先生」
キシルは思い切って駆け寄る。魔法使いのことをなんて呼べばいいのか分からず、父の真似をして『先生』と呼ぶことにしていた。
「これは溶けない雪です。冬に降る雪は冷たくて、てのひらにのせるとしゅわって溶けるのに、この雪は溶けません。どうして溶ける雪と、溶けない雪があるのでしょうか」
魔法使いは先ほどと同じようにミルク色の空を見上げた。キシルも真似をして首をぐっと後ろにそらす。こうして見上げると、視界いっぱいに広がる真っ白な空からちらちらと落ちてくる雪が、灰色の点に見えた。
「これは雪ではなく、空のかけらです」
「空?」
キシルが確かめるように頭上を指さすと、魔法使いは静かにうなずく。
「古くなった空の底が、雲母のように薄くはがれて落ちてくるのです」
ほう。とキシルはため息をついた。今までだれに聞いても分からなかったのに、魔法使いはとても簡単なことのように答えてくれた。
「じゃあこの氷も、本当は氷じゃなくて、古くなった空でできているということですか?」
広場の隅にいくつも生えている氷柱に視線を落としてキシルはたずねる。
地上に落ちた溶けない雪は、季節をこえて何層にも降り積もり、やがて内側はうっすらと白く、外側はガラスのように透きとおった六角柱状の氷になる。道の端や屋根の上、人が踏み込まない崖などで溶けない氷は大きく成長し、中にはキシルの腕ほどの大きさになるものもあった。
「これは氷ではなく、空水晶と呼ばれるものです。このあたりでしか見られない、とても貴重なものです」
「空水晶」
秘密の呪文のように、キシルは口の中で繰り返す。
どの方角を見ても必ず墨色の山の連なりが視界に入るのとおなじくらい、溶けない氷はそこらじゅうに、当たり前にあるものだった。なのに、この透明な結晶があの白い空とおなじものでできていると知った途端、ものすごく特別なもののように思えて、キシルは足の裏がふわふわしてくるのを感じた。
空とおなじ。その言葉が、キシルの頭のなかでパチンとはじける。
「……そうか。空のかけらでできているから、氷のなかに『星のささやき』が閉じ込められているんですね」
「星のささやき?」
魔法使いの首がわずかに傾く。キシルは、先生が知らないことを自分が知っていることが、少し嬉しくなった。
ふたつの月が同時に見えなくなる大新月の夜。谷じゅうの溶けない氷が内側からほのかに光り、リンリンとささやきはじめる。ひとつひとつはとても小さな声だが、それがいっせいに重なると、すごくきれいな歌になった。
月のない、いつも以上に闇が濃くなる夜だからこそ、氷に閉じ込められた光は冴え冴えと白く輝いた。光は天の星に呼応するように小さくまたたく。谷間の村は、まるで星の湖に沈んだような静謐なきらめきに飲み込まれる。
キシルの説明を聞いた魔法使いは、なるほどとうなずいた。
「次の大新月は、あと十日ほどですね」
「はい。その日は星空が丸ごと落ちたみたいになって、本当に、とてもきれいなんです。だから……先生、一緒に、見てもらえますか?」
キシルは遠慮がちに、フードの奥の不思議な灰色の瞳を見上げた。
いつまで魔法使いはこの村にいてくれるのか。
できるだけ長く先生のそばにいたいキシルは、怖くて聞くことができずにいた。けれど大新月の夜を一緒に過ごすという約束があれば、少なくともその日までは、眠る前に、あした魔法使いがいなくなるのではないかと不安にならずにすむ。
「ええ、楽しみにしています」
魔法使いの返事にキシルは顔をほころばせ、ばれないようにそっと胸をなでおろした。
◇*◇
広場に面した集会所の白い外壁に、魔法使いは不思議な紋様を描きはじめた。
黒樺の炭と、空水晶のかけらと、乾燥した何か(キシルはたずねてみたが、はぐらかされてしまった)を粒がなくなるまですり潰し、そこに真っ黒な小瓶に入った謎の液体(やはり中身は教えてもらえなかった)を数滴加え、よくこねて細長く固めたもので魔法使いは線を描いた。
魔法使いの手からするすると生み出される線はきめの細かい濃密な灰色で、紋様はレース刺繍のように繊細で複雑だった。
集会所の前を通りがかった村の人たちは、みんな壁に顔を近づけてじっくり見たあと、そこに描かれた紋様の意味などひとつも分からなくても、ほうほうとうなずいた。さすが魔法使い。大したものだ、と。
魔法使いは、キシルが家の手伝いをしている午前中だけ紋様を描きに行き、午後はキシルの案内で村やその周辺を見てまわった。
小川の底できらきら光る氷の粒や、ため池に浮かぶ水鳥たちのガラス細工のような羽。谷間で一番大きく成長した空水晶や、いい匂いのする薄灰色の花畑など、キシルは魔法使いに見せたいものがたくさんあった。そのひとつひとつを、魔法使いは興味深そうに観察した。
「キシル」
いつものように魔法使いが広場へ紋様を描きに出かけたあと、キシルは薪や栗粉の補充をするため、父のセトと一緒に納屋に入った。ずっしりと重い栗粉の袋を父と協力しながら台所のすみに置いたところで、キシルはあらたまった様子の父に名を呼ばれた。
「先生とうまくやっているかい?」
「はい」
「あれこれたずねて、迷惑はかけていないかい?」
「それは……」
口ごもるキシルに、セトはおかしそうに目を細める。指が不自然に曲がった両手を重ね合わせ、その手をそれぞれいたわり合うようにさすっていた。
父の指はこわばりはじめ、重いものが持てなくなってきていた。祖父とおなじ症状だ。指が動かなくなり、関節がかたまり、呼吸が苦しくなって話すこともままならなくなり、やがて全身の自由がなくなってしまう。
早いわね、と母は父の指をマッサージしながら何度も繰り返した。父や祖父だけでなく、村のほとんどの人が、身体のどこかしらに不具合を抱えていた。
そのうち母の指も動かなくなるし、キシルだって数十年後には歩けなくなる。そうして動かなくなっていく身体は硬化が進み、最期は立ち枯れた白い木のような姿の石になった。
谷の東側に広がる白骨の森。そこにある木々はみんな、元は村の人間だ。
キシルは村おさだった祖父が白骨の森へ行った日のことを憶えていた。
白骨の森へ行く日を決めるのは、まわりの家族ではなく本人だ。祖父は自分で立ち上がることはできなくなっていたが、意思の疎通に問題はなかった。森へ行くには誰もが早いと思ったけれど、本人の決意に反対できる者はいなかった。立ち会った者はみんな……幼いキシルでさえ、硬直した村おさの姿に自分の未来を重ねていた。
最近、病気の発症が早まってきているという話ばかり聞く。子どもも生まれなくなった。自分がこの村の最後の子どもになるだろうと言われていることもキシルは知っている。それだけではない。
キシルは、村の最後の人間になるかもしれない。
「先生のことは好きかい?」
栗粉の袋を運びおわり、次は水汲み用の桶を手にしたキシルに父はたずねてきた。
「はい」
迷いなくキシルが答えると、父は表情の変わらない陶器のような顔で、満足そうに微笑んだ。
◇*◇
頭上の梢が風に揺れるたび、ガラス質の葉がぶつかりあって、きらきらした音が降ってくる。薄暗い森に点々と落ちる白い木漏れ日は、その澄んだ音色を楽しんでいるように、くるくるとまぶしくきらめいていた。
炭色の木のシルエットがどこまでも連なる栗の森を、キシルと魔法使いは並んで歩いていた。
魔法使いは相変わらず無口で、キシルが話しかけなければずっと黙っている。それでもキシルは、先生と一緒にいられるだけで楽しかった。
枝が揺れると、涼やかな葉擦れの音に耳を澄ますように魔法使いはフードを少し持ち上げた。幹の太い立派な栗の木があれば立ち止まり、ガラスのように硬質化した灰色の樹皮を指でそっとなぞり、葉脈が透けた半透明の葉を爪ではじいて硬さを確かめる。まるで初めて森の中を歩くように、魔法使いは目にとまったものをひとつひとつ興味深そうに観察していた。
森の奥に入っていくほど、溶けない氷は見られなくなる。それがどうしてなのかキシルはずっと不思議だった。
今なら、空をおおうように広がる枝葉が屋根になって、空のかけらが、降り積もるほどは地面に届かないからだとわかる。
足下に視線を落とし、いろんなことを考えながら歩いていたキシルは、ふと顔を上げたときに目に入ったものに驚いた。魔法使いがフードと布をはずし、完全に素顔をさらしていたのだ。
村に来た日からずっと、魔法使いは家の中にいるときもマントを脱ぐこともなく顔も隠していた。だから同じ家で過ごしているのに、素顔を見るのはこれが初めてだった。
思った以上に若い。それが第一印象だった。よく見れば父とおなじぐらいのような気もしてくる。けれど見極めようとするほど、若く見えたり歳をとっているようにも思えたりして、ますますわからなくなった。
一体何がおかしいのか。キシルは、魔法使いがこちらを見ていないのをいいことに横顔をぶしつけに観察し、ようやく違和感の正体を見つけることができた。
魔法使いの白い頬にはつるりとした光沢がなかった。大人になるにつれ人間の肌は陶器のように硬くなっていくものなのに、十歳のキシルの頬とおなじぐらい、やわらかそうなのだ。
「わたしの顔が気になりますか?」
「いえ、……あの」
突然振り向いた魔法使いにまっすぐ問われ、キシルは気まずさで顔が熱くなった。それでも、どうしても一番気になることをたずねずにはいられなくなり、こわごわと質問してみる。
「……先生は、おいくつですか」
「あなたのおじいさんの、おじいさんより上かもしれませんね」
驚きのあまり、キシルは目玉がこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いた。
魔法使いは、歳をとらないのだろうか。
だから肌はやわらかいまま、祖父や父のように身体がかたまって動けなくなることもないのだろうか。
「ゆっくりですが、わたしたちもちゃんと歳をとりますよ」
まるでキシルの頭の中をのぞいたかのように魔法使いは言うと、ふわりとほどけるように微笑んだ。大人がそんなふうに頬を動かして笑うのをはじめて見たキシルは、心臓がきゅっと絞られて思わず目をそらしてしまう。
……そうか。この人は、ぼくより先に死んだりしないんだ。
そのことに気づいたとたん、キシルはこわばってうまく動かない父の手を思い出し、泣きそうになった。
ふだんはできるだけ考えないようにしているのに、こんなふうに突然、現実がキシルのなかになだれこんでくる。
どうしようもないことだ。両親も、村の人たちもみんな、ちゃんと諦めながら生きている。なのにキシルはときどき、膨れ上がる不安に負けそうになった。
ふいに肩に手を置かれ、キシルは反射的に顔を上げた。いつの間にか魔法使いはもとどおりフードと布で顔を隠していた。心配そうな視線に、キシルは慌てて目のまわりを手の甲で強くこする。
「あ!」
思わず大きな声をあげる。炭色の木々の間をぬうようにひらひらと舞う、漆黒の影が目にとまった。黒蝶だ。
この、つややかな黒曜石のような蝶を魔法使いに見せたくて森に来たことを思い出したキシルは、沈んだ気持ちが一瞬で吹き飛び、黒蝶を追うことに夢中になった。
「この先に、いっぱい飛んでいる場所があるんです」
足は自然と駆け足になる。蝶に導かれるように進むと、ぽっかりとひらけた明るい場所に出た。
差し込む光で白くけぶって見える空間の真ん中には、根元から大きく裂けた木が横たわっていた。倒れてからずいぶん時間が経っているのか、幹はすっかり白骨化し、木の形を残したまま大理石のように硬くなめらかになっている。その倒木からキノコのように、六角柱状の空水晶がたくさん伸びていた。
頭上から降りそそぐ光は、幾筋ものひだがゆらめく光の幕をつくっていた。そのなかで、黒曜石の翅をもつ蝶たちが濡れたような艶めきをまといながら、たくさん、からまるように舞っている。翅の漆黒はあまりにも濃密で、黒く塗りつぶされた真夜中の闇のようにも見えた。
真昼の白い光だまりで乱舞する、夜闇のひとひら。そのまわりで透明な空水晶がきらめき、薄玻璃の可憐な花がゆらいでいた。
ここに来るとキシルはいつも、夢のなかにいるような心地になる。
「ぼくはこの谷が好きです。星がささやく夜や、この景色とかみんな、きれいな宝石みたいだと思うんです」
「ええ」
魔法使いはそれ以上何も言ってくれなかったが、視線は蝶の群舞にまっすぐ向けられていて、キシルにはそれで十分だった。
群れからはぐれた一匹が、キシルたちの方へ飛んで来る。魔法使いが腕を伸ばすと、蝶は吸い寄せられるように黒い手袋の上にとまった。ふたりが息をひそめて見守るなか、黒蝶は簡単に砕けてしまいそうなほど薄く硬質な翅を、呼吸するようにそっと、閉じたり、開いたりした。
蝶はふわりと舞い上がり、魔法使いの手から光の中へ戻っていった。踊るような気ままな軌跡を目で追いながら、キシルは「先生」と呼びかけた。
「溶けない氷と、ガラスのような森の葉っぱや蝶の翅と、村の人たちがだんだん動けなくなっていく病気は、ぜんぶ、おなじですか?」
驚いたように、隣に立つ魔法使いがキシルを見下ろす。
「あなたは、賢いですね」
そう言った魔法使いの声は少し悲しそうだった。
「先生は、世界がかつて失ったものを取り戻すために、旅をしているんですよね」
「はい」
「ずっと、ひとりで旅をしているのですか?」
「ええ。……ですが、わたしとおなじように世界を旅している仲間が二人います」
魔法使いの口から「仲間」という言葉が出てきたのは意外だった。
「その人たちと一緒に旅をすることはないんですか? ずっとひとりでいるのは、さみしくないですか?」
「わたしたちはそれぞれ取り戻せるものが異なるので、別々でなければなりません」
え? とキシルは目を見開いた。
魔法使いを含めて三人が別々に旅をしているということは、少なくとも三つ、取り戻すべきものがあるということだ。
「……この世界は、そんなにたくさん、何かを失っているのですか」
「失ったものはひとつです。ですが、わたしが取り戻せるのは、全体の一部です」
キシルはますます混乱した。魔法使いの方も、キシルが分かるように説明するつもりはないようだった。
「先生が取り戻せるものは何ですか?」
「『失った世界』に生まれたあなたに、『失ったもの』を説明することはできません」
「じゃあ……それを取り戻したら、この谷はどうなりますか?」
キシルは魔法使いの不思議な灰色の瞳をまっすぐ見上げる。フードの影のなかで魔法使いはゆっくりと目を閉じ、静かに息を吐いた。
「そのことについて、あなたに、話さなければなりません」
光のなかでひらめく闇のようなしっとりとした低い声で、魔法使いはそう言った。
◇*◇
東に連なる山の稜線が、薄れてゆく闇から切り離され、輪郭を取り戻しはじめていた。
夜が明ける。
まぶたの上にほのかな光を感じ、キシルはゆっくりと目をひらく。
大新月の夜。溶けない氷から放たれる星の、儚く、清らかな光とささやきに谷間は満たされ、静謐な時間を心ゆくまで堪能した人々は、いつものように家に戻り、いつものように眠りについた。
キシルだけは魔法使いと一緒に、集会所の壁の前で夜を明かした。
カンテラの揺れ動く光をたよりに、魔法使いは緻密な紋様に最後の仕上げをほどこした。キシルは邪魔にならぬよう静かに先生の仕事を見ていたが、さすがに夜通し起きていることは難しかったらしい。
地面にうずくまるような姿勢で目覚めたキシルの上には、魔法使いのマントがかけられていた。目の詰まった生地は重みがあり、とても暖かかった。内側にはかすかにツンとした薬草のにおいが染みついていた。
首元までマントを引き上げたキシルは、ぼんやりとした意識のなか、すぐそばに立っている人影を見上げる。魔法使いは夜の終わりを見定めるように、東の空の方を向いて立っていた。
全身を覆うマントもなく、素顔をさらしている魔法使いは別人のように見えた。マントの下の服は見たことのない変わった形をしていて、この人はとても遠いところから来たのだと、キシルはあらためて思った。
薄灰色のやわらかそうな髪が、まだ夜の匂いのする風にふわりとなびいた。キシルの身体の内側には、数時間前の大新月の夜の感動が残っている。あの儚くきらめいていた星のささやきとおなじくらい、魔法使いの姿は美しかった。
「……目覚めましたか」
視線に気づいたのか、魔法使いは振り返り、不思議な灰色の瞳でキシルの目をのぞきこんだ。
「はい。……これ、ありがとうございました」
マントを胸の前でまとめようとするキシルを、魔法使いは手で制した。
「あなたには大きすぎて動きにくいでしょうが、まだ冷えるので、そのまま着ていてください」
「でも」
「わたしのマントは嫌ですか?」
キシルは慌てて首を横に振る。立ち上がり、肩からマントを巻きつけると、魔法使いは満足そうにうなずいた。
「少し離れていてください」
キシルを数歩後ろに下がらせ、魔法使いは壁に描いた紋様の正面に立った。刺繍レースのような細かい線は、離れて見ると壁一面に大きな波を紡いでいた。さざなみが立つ湖面のように、レースの波は大きさを変えながら何段も重ねられている。
とうとうはじまるのだ。
キシルは緊張で呼吸がうまくできなくなった。これから何が起こるのか、魔法使いから聞いている。逃げ出したくなるのを必死でこらえ、大きく見開いた目で壁と向き合う先生の後ろ姿をじっと見つめた。
魔法使いは黒い手袋をはずした右のてのひらを、波打つ紋様の上に押し当てた。
夜明け前のしんとした空気をひそやかに震わすように、深く、潤いのある声が聞こえてきた。それが魔法使いの声だとすぐには分からなかった。ふだんの声と違っていたからだ。歌うように繰り返される言葉は耳慣れない響きで、キシルにはまったく意味が分からない。
壁に描かれた紋様の線が濃くなり、細かく震えだしたような気がしてキシルは息を飲んだ。とてつもない力が紋様の内側で膨れ上がり、外に出ようと暴れている。魔法使いは紋様の中で増していく力をさらに圧縮するように、てのひらを強く押し当てた。呪文を唱える声が力強くなっていく。
キシルは大きすぎるマントの中でぎゅっと両手を握りしめた。唯一、直接空気に触れている顔の皮膚がぴりぴりと痺れる。心臓がものすごい強さでドクドクと脈打ち、このまま暴走して壊れてしまうのではないかと恐ろしくなった。
魔法使いの朗々とした声と重なるように、キィンと張りつめた金属音が鳴っていた。壁に刻まれた緻密な線の輪郭がうっすらと光りはじめ、耳鳴りのような音が耐えられなくなるほど大きく鳴り響き、紋様に閉じ込められた力が限界まで膨れ上がった瞬間、
パンっ、とキシルの視界は白く破裂した。
とてつもない量の光が、紋様の内側からあふれ出した。大雨で氾濫した川の水のように、光は集会所のある広場から村の端までなめるように一気に広がり、さらにあふれ続け谷底を丸ごと飲み込んだ。
幾重にも重なる光の波は、明るくなったり暗くなったりしながら波紋を広げていく。
潤んだ光の中で、キシルは目を大きく見開いていた。目の前に広がる光景が理解できず、茫然と眺めることしかできない。
冷たく澄んだ湧き水のような光を通して見る村の景色は、形はまったく同じなのに、キシルの知らない姿に変化していた。別ものなのに、何がどう違うのかひとつも説明できない。分からなさ過ぎて、キシルは身体の奥底から湧き上がってくる恐怖心でその場に崩れそうになった。
まったく力が入らない腕をマントの上から掴まれ、キシルは放心状態のまま顔を上げた。魔法使いが形のよい眉を寄せてキシルを見ている。自分にまっすぐ向けられている瞳を覗き返したキシルは、悲鳴をあげそうになって必死にのどの奥をしぼった。
いまキシルがまわりの景色に感じている戸惑いが、魔法使いの不思議な灰色の瞳の中に凝縮されていた。
いや、それは灰色ではなく、キシルの知らない色だった。明るいのに深く澄んで、見つめているとずっと奥に引きずり込まれそうになる。
「先生……なにを、したんですか」
はじめて魔法使いに畏怖の念を抱いたキシルは、声を震わせながらしぼり出すように言った。
聞くまでもないことだった。魔法使いは、この世界がかつて失ったものを取り戻したのだ。けれど失ったあとの世界に生まれたキシルには、それを認識することができない。
目の前に広がっているのは、キシルの知らない世界だった。広場の地面も、村を取り囲むように連なる山も、夜明け前の空も、何もかもが姿を変えてしまった。
谷をまるごと飲み込んでいる光は、魔法使いの瞳とおなじ色に染まっている。そこらじゅうにある空水晶もおなじだった。キシルは呼吸をするのをためらった。得体のしれないものが身体の中に入り込み、内側から塗り替えられていくような恐怖をおぼえた。
ピシッと、湖面に厚く張った氷にヒビが入るときのような音が響いた。
その合図を待っていたかのように、あちこちから同じ音が聞こえてきて、瞬く間に激しい雨音のように大きく鳴り響いた。
それは溶けない氷が砕ける音だった。谷じゅうの空水晶がいっせいに粉々になり、そのすべてのかけらが谷底に溜まった光を乱反射し、一面にまばゆい光の粒をまきちらした。
砕けたのは空水晶だけではなかった。川底に溜まっていた珪砂も、きらめく音を奏でていた森の葉や花びらも、黒曜石の蝶の翅も、陶器のようにつるりとした村の人たちの肌もおなじだった。呪いが解け、空が本来の姿を取り戻したことにより、はがれ落ちた空に侵されていたものは、等しく崩壊に向かった。
「キシルっ」
魔法使いは胸を押さえながら崩れる少年の身体を抱きとめた。キシルは苦しそうに顔をゆがめ、血がにじむほど唇をかみしめている。息を吸うと肺がひどく痛むのだろう。魔法使いの腕にしがみつき、激痛にじっと耐えていた。
魔法使いはキシルの細い身体を強く抱きしめる。十歳の少年の体内にも、空のかけらは蓄積されていた。それらがいま、容赦なく砕けている。
『こんな辺鄙な場所で暮らしているわたしたちでも、魔法使いがあらわれた意味は、ちゃんと分かっているんです』
キシルの父親のセトは、精巧な磁器人形のようになめらかな顔で魔法使いに語った。
魔法使いとは、「かつて世界が失ったもの」を取り戻し、「いまの世界」を破壊する者。それゆえ憎まれ、忌避されるのが常だった。
『たとえあなたが来なくとも、じきに村から人は消え、この谷は溶けない氷に飲み込まれるだけだったでしょう。ですから、どうかわたしたちのことは気に病まないでください。……村の者はだれも、あなたのことを恨んだりしていませんし、むしろ感謝しているくらいなんです』
ただ……、とセトは澄んだ瞳に憂いをにじませた。
『キシルには、呪いの症状がまだ出ていません。ですからもし、あの子が乗り越えることができたら……、もし、あの子に少しでもあなたのような素質があるなら、そのときは……』
『ええ』
父親の真摯な願いに、魔法使いは静かにうなずく。
『ご子息は聡明です。立派な弟子になるでしょう』
『……ああ』
セトは節くれだった両手で顔をおおい、深く息を吐き出した。
『どうか……、どうかあの子を、よろしくお願いします』
深々と頭を下げるセトのとなりで、キシルの母もおなじように額をテーブルに押しつけている。
キシルの身体にはまだ表立った症状は出てきていない。もしかしたら少年は、失ったものを取り戻した世界に行けるかもしれない。行けないかもしれない。そればかりは魔法使いにも分からなかった。
自分たちの死は受け入れることができても、ひとり残していくことになるかもしれない息子を案じないわけにはいかない。両親だけではない。谷間の村の人たちにとって、キシルのことだけが、唯一の心残りだった。
壁に刻んだ呪紋から放出されていた光が、少しずつ引き始めていた。
魔法使いは気を失ったキシルを腕に抱いたまま、すっかり夜が明けた空を見上げる。本来の姿を取り戻した空は雲ひとつなく晴れ渡り、刻々とその色を深めていた。
『ぼくはこの谷が好きです。星がささやく夜や、この景色とかみんな、きれいな宝石みたいだと思うんです』
キシルが愛したこの谷の宝石は粉々に砕け散った。それらを取り戻すことはもう叶わない。
けれど、新しい世界にも、美しいものはたくさんある。
キシルがひとつずつ見せてくれたように、魔法使いも少年に見せたいものがたくさんあった。
『先生』
キシルの声を胸によみがえらせながら、魔法使いは腕のなかの少年がふたたび目を開くのを待つ。
結晶の谷 春名トモコ @haruna-t
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