恋・雪

福山典雅

恋・雪

 切なさが揺れて擦り切れる。

 どんなに強く握り締めても、容易く止まらず心が震える。だから私は靴を履く。

 靴紐をキチンと結んで、大きく深呼吸し、身体を揺さぶり、走り出す。

 二月の空気は透き通り、二十歳の肺に深々と染み入った。

 ジャージ越しに腕や太ももが冷気に打たれ、指先がかじかむ。じわじわと皮膚の感覚が鈍重になり始めた頃、内側からむくむくと熱をはらむ。 

 負けない、そう呟いて、私は走る。


 いまだ私の胸は高鳴る。


 吐く息は白く、靄の景色の中で揺らいで消えてゆく。ゆっくりと白んで来る空、海岸線を続く道。朝と夜が交わり、星々が薄くなる。

 ランニングシューズが弾んで、私は一歩一歩駆けてゆく。


「はぁ、はぁ、はぁ」


 静寂の中で、いやむしろ静寂に落ちてゆくように、規則正しい足音と呼吸音が研ぎ澄まされてゆく。

 紙屑みたいな寂しさを積み上げ、蒸気機関車が薪をくべる様に、私はともすれば凍てつく何かを燃やして前に進む。


 もう十七歳には戻れない。だけどあの頃と何が違うのだろう。


 密度の高い空気が膜の様に絡みついて、景色が後方に流れてゆく。

 足の親指に力を入れ、靴底と砂利が弾ける。

 

 汗ばむ肌、あがる息、私は君を思い出す。


「雪がきれいだ」


 鮮明にあの日の空が蘇る。

 放課後のグラウンドでそう呟いた君。

 突然舞い始めた雪を見て陸上部の仲間が騒いで、野球部やサッカー部も叫んでいた。

 白い息を吐き、遠くの空を見つめ、まるで掴みどころがなかった君の瞳。


 私の恋がホントの恋に変わった瞬間。


 十七歳の私はそんな想いをそっと隠し、グラウンドに駆け出した。髪が揺れて、心がざわついた。スパイクが地面に食い込み、強く蹴り出し私は加速した。


 もっと、もっと、もっと。


 視界を降りやまぬ雪に塞がれそうになりながら、向かい来る強い風を感じた。

 私は逃げ出した。


 君を見るのが辛かった。












 薄闇に降り始めた雪が、車窓に貼り付けずに猛然と流れてゆく。

 天蓋に広がる分厚く暗い雪雲を眺めながら、窓ガラスに息を吐きかけた。

 僕は二十歳を迎え、約二年振りに故郷へ電車で帰っていた。

 混雑を避けた始発は人影もまばらで、大学の連休を使ったズレた帰省も悪くはない。読みかけの文庫本を閉じたまま、暫く雪を眺めていた。

 緩やかに遠ざかる遠景は灰色に染まり、暖かな車内とは隔絶された寒さを伝えていた。僕は飲みかけの緩いコーヒー缶を手に取り、一口飲んだ。安っぽい苦みが口の中に広がった。


 高校二年の冬に膝を壊し、僕は陸上部を退部した。重い曇り空と冷たい空気。惨めな気持ちを押し上げ、言いようのない孤独と敗北感だけが積み上がっていた。


 そんな時に空から雪が降って来た。


 もう僕に戻る場所はないと告げられた気がした。

 突き放す様な寒さの中で見上げた空。残酷なきれいが舞っていた。










 海岸線の堤防、階段を降りて砂浜に踏み込む。

 打ち上げられた流木やまばらに生える草。私は荒い呼吸を整える事もせずに、迷わず波打ち際に向かった。

 水平線が白んでいた。まだ見ぬ太陽の明るさを吸い込むみたいに、大きく深呼吸した。


 君が私を遠ざけ、私は君から逃げた。

 何を言われようと側にいるなんて嘘だ。君が向ける捉え所のない瞳が嫌だった。

 お互いが優し過ぎて、もう身動きが取れなくなっていた。

 だから私は走るしか無かった。

 君を置き去りにして、ただ走るしか無かった。






 真っ暗なトンネル、雪景色は消えた。

 代わりに車窓には、僕の顔が映っていた。

 受け入れがたい現実も、結局の所は折り合いがついてゆく。

 僕は多くのモノを拒絶した。そうせざる得ないほどに混乱していた。何も見たくなかった。いや、感じなくなっていた。

 それまでの自分を否定する勇気も壊す潔さもなく、上辺を取り繕い周囲に気をつかう。

 結果として、酷く彼女に辛い選択を迫り傷つけた。

 他人よりも遠い存在、僕らはそうするしかなかった。

 トンネルを抜け、雪が濃くなった。

 卒業式の日、グラウンドの隅でもう会う事もない未来に怯えながら、君は泣いていた。

 悲しい涙じゃない。激しく止めようもない悔しい涙。君の感情が溢れていた。

 僕はさよならって言葉がうまく出ずに、君を好きな自分を握り締めていた。






 白く泡立つ波が幾度も押し寄せ、波打ち際の砂浜が黒く滲んでゆく。

 やり切れなさが心を削る。累積してゆく時間は、雪の様に静かに私の想いに積もり、深く沈めてゆく。

 君が君を取り戻し、競技者ではないがまた走り始めたという噂を聞いた。

 私がどんなに嬉しくて泣きじゃくったか、きっと君は知らない。

 私はいまでも君が好き。

 走る君の横顔を眺めているだけで幸せだった。

 私と会わなかった間、君は幸せでしたか?


 時間を確認しようとポケットのスマホを取り出した時、画面に通知があった。


 一瞬で、波の音が掻き消えた。


 ぽろり、私の瞳から涙が零れた。

 不意に空から雪が降って来て、息を飲むほどの美しさだった。

 震える吐息を吐き出して、私は顔を上げた。

 小さく白い雪が、私の涙と溶け合った。

 

 

 

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恋・雪 福山典雅 @matoifujino

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