第11講義:悪童日記(2013、ヤノーシュ・サース、ハンガリー、ドイツ)

 ハンガリー出身の亡命作家アゴタ・クリストフの処女小説にして世界的ベストセラーを実写映画化したものです。もしかして、有名な推理作家アガサ・クリスティのバッタモンでは? 全然違います。彼女は『悪童日記(1986)』『ふたりの証拠(1988)』『第三の嘘(1991)』の三部作を発表し、わたしは全部読みました。自伝『文盲(2006)』も読みました。それで『悪童日記(2013)』を再度深く知りました。

 1956年、ハンガリー動乱でアゴタはオーストリアに脱出し、スイスに定住したため「亡命作家」とみなされるようになりましたが、ハンガリー国籍を保持しており、出国してから12年後に帰国も果たしているので「難民作家」と呼ばれるべきだと思います。

 難民、ディアスポラ。生計のためにフランス語で小説や戯曲を書きましたが、ハンガリー語に対する思い入れと、ハンガリー人としての民族意識は最後までひじょうに強かったことは、さまざまなインタビューで語っています。彼女はハンガリーという故国を喪失してしまったのです、こんなに愛していたにもかかわらず、捨てざるをえませんでした。でも捨てきれなかったのです。

 ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア。東欧は政治や戦争も激しいですけど、文学や哲学も発達しています。文化助成金なしに、市民たちが旺盛に演劇をやっています。それはいったいなぜでしょう?

 トラウマ・スタディーズでは、サバイバーを医療化することを避け、トラウマへの介入モデルにもとづくプログラムの代替案を作成する必要性を正確に認識している人たちがいます。たとえば、家族のレジリエンスや既存の社会制度をトラウマへの対応の基本原理として用いるプログラムがあります。でも、医学的なアプローチをより文化的アプローチへと変えるためには、まだやるべきことがあります。

 ホロコーストが起こった後、サバイバーのユダヤ人たちによってホロコースト文学が生まれました。原爆が落ちた後、日本では原爆文学が生まれました。エイズが発症した後、米国ではエイズ・アクティビズムやエイズ・アートが起こりました。光州事件が起こった後、韓国では詩や小説などの現代文学が生まれました。ところが、阪神大震災や東北大震災が起こり、ヒロシマ・ナガサキだけでなくフクシマも原発で被害があったにもかかわらず、原発文学はまったく起こりません。なぜでしょうか。戦争ではなく自然災害だから? 違います。原発は人災です。日本は30年間デフレ経済だから? そうかもしれません。

 ただ、2024年1月1日に起こった能登地震をイタリア人トマゾがパスタなどのイタリア料理を被災者に配膳するというドキュメンタリー映画『能登の花(2024)』を観ました。トマゾたちは日本が大好きで、東北大震災のときに被災者ボランティアを経験したイタリア人女性の協力を得て、急遽映画の企画が決まりました。「子どもだったら確実にトラウマになってると思う。子どもたちは未来があるから」と監督が涙する姿は、思わず胸が打たれました。

 人間は残酷で無残な死を目撃した直後、傷つき、絶望し、挫折します。それでも生き延びるために回復し、対応し、抵抗し、耐久し、再起します。これらすべて“レジリエンス”といいます。

 抑うつ状態になったとき、薬を飲んで部屋で寝るだけでは足りません。何か書いてもいいし、あたりを散歩して写真や映像を撮ってもいいし、漫画を描いてもいい。音楽でもいい、音を伴わないジェスチャーだけでもいい、叫びでもいい、パフォーマンスでもいい。ナラティヴやストーリーテリングなしに感情を公にすることができるでしょう。そうやって自己の心情と向き合います。これをといいます。つまり、深く傷ついた人間は文学を通じて回復力を持つのです。昔の人は戦争をどう乗り越えてきたのか? それも参考になるでしょう。文学は記録でもあり歴史でもあります。スポーツ? スポーツで昇華されるのは男性の性欲だけです。

 亡命後のアゴタもそうでした。高校時代に詩を書き始め、結婚して一児を持つと、ハンガリー動乱で三人、オーストリアを経てスイスのフランス語圏ヌーシャテルに移住しました。当初は時計工場で働き、後に店員、歯科助手も勤めます。やがてパリで刊行されているハンガリー語文芸誌『文芸新聞』『ハンガリー工房』にハンガリー語で詩を発表し始めますが、多くの作品は出版されることがありませんでした。その後、生計を立てるためには現地の言葉で作品を発表する必要があると一念発起してフランス語で執筆を開始、『悪童日記』でフランス語文壇デビューを果たします。この作品は世界で40以上の言語に翻訳され、同時に世界的にも注目される作家となりました。 以下、『文盲』の引用です。


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フランス語を使うようになって30年以上、作品を書くようになって20年以上が経ちますが、いまだにフランス語はよくわかりません。フランス語で間違わずに話すことはできませんし、しょっちゅう辞書で確認しながらでないと正しい文章が書けません。だから、私はフランス語のことも敵性言語だと呼んでいます。実は、フランス語をそのように呼ぶのにはもうひとつ理由があるのですが、こちらのほうがずっと深刻です。つまり、フランス語は私の母語を殺し続けているのです。


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『悪童日記』の主人公である双子の息子は、殴り合いながら、飢えをしのぎながら、ののしり合いながら、心身を鍛え、厳しい戦争を耐えていきます。母親の裏切りにも、祖母の意地悪にもお仕置きにも耐えましたが、いざ二人が離れ離れになったら耐えられないくらい、自分の身と心が引き裂かれるようになったのです。そうならないよう、あらかじめ訓練して覚悟しておいたのです。

 ある日父親がやってきて、国境を越えたいといいます。息子たちは周到な準備をして、森のなかの国境へ向かいます。まず父親が鉄条網を乗り越え、地雷を踏み死亡ます。それから息子の一人が父親の背中を踏んで国境を越え、もう一人は祖国に留まったままです。これは何に似ていますか? そうです、新たにフランス語を学ぶアゴタと、かつてハンガリー語を使っていたアゴタです。動乱のため、アゴタは二人に分裂しました。これは歴史的事実であって、比喩ではありません。ですが、想像力で乗り越えられないものはないのです。戦争の傷は癒えないけれど、幻想的文学にすれば心の傷が癒えるのです。間違いありません。


 こう書きながら、わたしはときどき「タルコフスキー要素が足りない」といって、タルコフスキー映画をDVDで観ます。『惑星ソラリス(1972)』『鏡(1975)』『ストーカー(1979)』『ノスタルジア(1983)』『サクリファイス(1986)』などです。タルコフスキーは、あまりセリフやナレーションを使用せず、大人しそうな犬や馬、下に流れる水、上に燃える炎、揺らめく樹々や森、枯れ木など、「映像の詩人」といわれる映画監督です。言葉を使わないでダイレクトに感情を揺さぶるのです。横尾忠則『言葉を離れる(2015)』という本があり未読ですが、だいたいの見当がつきます。幼少のころ、本は読まず嫌いで、若いときは肉体だけの表現でやってきたのだと思います。タルコフスキー要素が足りなくなるのも、「言葉離れ」の時期がやってくるのだと思っています。

 現在、ネットニュースでは政治家が「嘘ポエム」ばかり吐いて背筋が寒くなり、頭が狂いそうです。民衆は「有言不実行」より「無言実行」のほうがはるかに信用できますが、マスコミを通じて多くの人たちに信頼させるのはほぼ不可能です。政治にシナリオは欠かせず、有名政治家はベテラン俳優みたいなものです。与えられたセリフを巧みに吐き、しっかりと人心を掴めばいいのですが、そのシナリオを作っているのは首相に助言する官邸秘書などの高級官僚だといいます。政治家は国民が投票して当選すればいいのですけど、官邸秘書は投票できません。つまり、この国を治めるのは政治家以外にも確実にいます。

 あ、またまた話が脱線してしまいました。強引に戻します。いままでわたしは、たったひとりで詩や小説を書いてきましたが、それに並行して、今度はひとりで映像制作にもチャレンジしようかと思っています。さすがに難しいと思いますが、やってできないことはありませんし、スマホやPC周辺機器などハイテクが発展して、アイディアさえあれば「ソロ映像」ができないこともないようです。吾輩の辞書に不可能はありません。文章でも映像でも、わたしは表現がしたいのです。ついでに音楽もやるかもしれません。確かなことはわからないですが、不安と未来と希望は繋がっています。わたしの思考は絶望的観測ですが、未来は確実に、希望に繋がっています。

 チェコ・スロバキアのプラハ生まれのシュールレアリスト、ヤン・シュヴァンクマイエルというクレイ・アニメーション作家がいます。1968年、プラハの春と呼ばれる変革運動が起き、それを鎮圧するためにソ連軍がチェコに軍事介入するチェコ事件が起きました。1970年代からは正常化体制と呼ばれる政治体制によって芸術も検閲を受け、シュヴァンクマイエルも制作ができない時期がありました。以後、多くの短編映画作品や『アリス(1988)』『ファウスト(1994)』などの長編作品を製作しています。 同じチェコ出身のヴェラ・ヒティロヴァ監督の『ひなぎく(1966)』は「チェコ・ヌーヴェルヴァーグ」の代表的作品であり、日本では「カルト映画」「ガーリー映画」と、わけのわからない評価があって受け付けられないようですが、わたしは大好きです。

 シュヴァンクマイエルは「戦闘的シュルレアリスト」を標榜しており、社会主義・全体主義・商業主義などに抵抗を試みる作品・発言が多いです。政治的な主張が含まれている作品も多く、それらは検閲を回避するために非常に歪曲的な表現となっていますが、本人は「チェコ生まれの人間なら理解できるはずだ」と発言しています(BBCのインタビューより)。ソ連崩壊後は『スターリン主義の死(1990)』などのように明確な表現の作品もあります。人間の運命や行動が何ものかに「不正操作」されている、という自身のイメージを投射した作品も数多くみられます。

 作家活動を始めた当初はチェコ政府による検閲があり、共産主義政権ののちは商業主義による自己検閲があるとしています。シュヴァンクマイエルは、自己検閲は政府の検閲よりも恐ろしいと考えています。政府の検閲は崩壊する希望を持つことができましたが、商業主義の自己検閲がもたらす「作ったものを買ってもらえないから作らない」という考えは人間を家畜にします。自己検閲を避ける方法論として、シュヴァンクマイエル自身は自己検閲に気がついたら創作を止めるか他のことをすると述べています。クエイ兄弟も似たようなことをやっていますが、彼らはオタクであって、シュヴァンクマイエルのように反体制で戦闘的はありません。

 それに加えてシュヴァンクマイエルは、スタジオでひとりコツコツ粘土を捏ねて撮影するという地道で迂遠な手法で制作しています。もちろん最初はひとりですが、おそらく近隣の人やプロじゃない人に手伝ってもらっているんだと思います。

 あ! YouTuberじゃ絶対にありません! あんなお茶の間の平凡な映像を誰が観るものですか。映画は非日常です。ドラマとは違います。失礼しちゃうわ、ぷんぷん。

 これはわたしの希望的観測ですが、文章でダメなら映像をやれ、というお告げ、あるいは啓示なのです。狂っているように思えますか? 狂っているのではありません。ただエクストリームなだけです。他人より逸脱していますが、非常識でも犯罪予備軍でもありません。そのへん、お間違いなきよう。

 敬虔なイスラム教徒は、時間がくると場所を選ばず人目もはばからずアラーの方角に祈ります。わたしの表現もまた祈ることと同じだと思います。願いが叶うことはまずありませんし、報酬よりも祈ることのほうが重要です。

 では、話も十分したので、これから映像制作にシフト変更します。ご清聴ありがとうございました。

 

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