第10講義:存在の耐えられない軽さ(1988、フィリップ・カウフマン、アメリカ)
田嶋陽子『ヒロインは、なぜ殺されるのか(1997、KADOKAWA)』という本を読みました。田嶋さんは英文学者のフェミニストで、母の自分との葛藤に苦しみ、「母の娘」「父の娘」というふたつの方向性を打ち出しました。もちろん田嶋さんは「母の娘」でしたが、母親の古い価値観の洗脳や押しつけをやっと解いて、自分を客観的に見つめ直すことができました。「母の娘」はもう卒業しています。
田嶋さんのこの本はすべて自分でビデオテープを観て、気になる部分は何度も止め、巻き戻してまた観るといった、ひじょうに手のかかる、面倒くさい方法です。GoogleBooksによると、《自分の生き方を模索し、自立して生きていこうとするヒロインたちが、みな死んでいくのはなぜなのか!? 女はどこに被害届けを出せばいいのか!? フェミニストの立場から「赤い靴」「ベティ・ブルー」「存在の耐えられない軽さ」など、10本の映画の中の、これまで見過ごされていた「男社会」の勝手な「女性観」と、女性抑圧のかたちを読み解く》というものです。
わたしはいままで観たことのない映画、そして気になる映画をピックアップするとしたら、『存在の耐えられない軽さ』を選びます。この映画を田嶋さんは、男性中心主義と批判してなかったように思います。
チェコスロバキア生まれのフランス作家ミラン・クンデラの小説が原作です。1967年、共産党体制下の閉塞した生活を描いた長編小説『冗談』を発表してチェコスロバキアを代表する作家となり、当時進行していた非スターリン化のなかで言論・表現の自由を求めるなど、政治にも積極的にかかわるようになりました。
1968年、「プラハの春」では、改革への支持を表明したことによって、ワルシャワ条約機構軍による軍事介入の後、チェコスロバキアにおいて次第に創作活動の場を失い、著作はすべて発禁処分となりました。つまり彼は、チェコスロバキアにとって反体制派の作家であるとされました。桐野夏生『ナニカアル』のへっぽこ主人公とは正反対です。食事制限されればすぐに食べ物を欲するのですから、自制すらできません。
1975年、レンヌ第二大学の客員教授に招聘されたためフランスに出国し、1979年、チェコスロバキア国籍を剥奪されました。1981年、フランス市民権を取得。このころから、母語のチェコ語ではなくフランス語で執筆活動を行います。
1984年、『存在の耐えられない軽さ』を発表。世界的なベストセラーになり、フィリップ・カウフマンによって映画化もされました。
あらすじは、いつものようにオミットしますが、1968年のチェコを舞台に、男女の三角関係を通して、人生の“重さ”と“軽さ”を見つめた文芸ドラマ。有能な脳外科医トマシュという若者が体験する波乱の人生を描くというもので、クンデラにしか書けない小説だと批評家のひとりはいいました。
画家のサビーザは浮気症のトマシュと同棲というか、トマシュという舟が帰ってくる港はイビーザと決まっていますが、彼の浮気は一向に気にせず、彼の一番の理解者です。いっぽう、テレーザは田舎の若い文学少女で、トマシュとの恋愛関係が肉体関係になり、結婚してスイスに移住します(それはチェコがソ連によって軍規制が始まったのと同時です)。
がしかし、テレーザはトマシュの浮気が耐えられなくて、わたしは軽い存在だと思われてるの? 今日も帰りは遅いの? 髪に女の匂いがついている! といってトマシュを責めます。スイスには来たけれど、都会風でお洒落で軽やかな雰囲気がどうもテレーザには合わず、《重苦しくて弱い私》はチェコに帰ります、といってトマシュと離れることに。それでもテレーズを追いかけてくるトマシュは、昔とある論文を出版社に出したところ、反体制思想の論文であることがソ連側に判明し、思想変更同意書にサインしなければ医師免許は取り上げる仕打ちになりますが、トマシュはガンとしてサインしません。
トマシュの医師免許は取り上げられ、ガラス拭きの仕事に就いても、トマシュは平気です。いわば都落ちですよね。それでもトマシュは負けません。先日、国民民主党の公認候補として内定し、その後、クラブ勤めがバレて内定が取り消された20代後半の女性が飛び降り自殺しました。その女性の人生は順風満帆だったのでしょうが、何かトラブルがあると不安で耐えられなくて自殺してしまうという、将来衆議院議員になるにはタフさが足りない、メンタル弱いのは日本の若者の現状じゃないか、彼女もまた簡単にザイム真理教信者になるんじゃないかと嘆きました。
かつて女とはフワフワ浮気してたのに、テレーズとの愛を再確認した後は思想を頑固に変えません。それは、思想だけじゃなくて、あらゆることを監視して自分たちをハメてくる世のなかがとても恐ろしく感じます。あるときテレーズは、トマシュのように浮気してやろうと思い、いつものようにカフェで働きましたが、すでに酔っぱらって酒をくれという少年、その少年に酒を出したのかといちゃもんをつけてくる老人、その老人を牽制してテレーズをかばう長身の技師の三人で、テレーズは技師の部屋で肉体関係を持ちますが、別な日に「三人はきみをハメるための罠を仕掛けていたのかもしれん」とテレーズを疑心暗鬼にすることしか言いません。
…で、あとはご想像にお任せします。
この映画、何度も観ましたが、何度観ても心を打たれます。戦争が絡んでくるからでしょうか。『パンズラビリンス(2006、ギレルモ・デル・トロ、スペイン)』もそうですし、『悪童日記(2013、ヤーノス・サーシュ、ハンガリー)』もそう、『アイダよ、何処へ?(2021、ヤスミラ・ジュバニッチ、ボスニア)』もそう、『ハンナ・アーレント(2012、マルガレーテ・フォン・トロッタ、ドイツ/ルクセンブルク/フランス)』もそうです。ドンパチ派手に戦争するのが戦争映画ではありません。戦争の形をしたエンターテイメントです。ノーベル文学賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』というのは事実です。戦争はいつも男の顔をしています。殺戮、殺戮、武器、殺戮、より威力のある武器、殺傷能力のある武器、支配、命令、地上戦、組織、物資の配達、兵士の配置、占領、捕虜、殺戮、軍法会議、将軍、一兵卒、殺戮、殺戮、殺戮、爆弾投下。
冒頭の田嶋さんの本ですが、映画のなかではヒロインが殺されまくっています。殺されなければヒロインじゃないという感じで、若くて美しい女性は殺されることで(男性の)性欲が満たされる、映画はまるでAVかポルノのようなものですが、人々の深層心理や夢となって刷り込まれているのは、本当に質が悪いと思います。男が女を殺すというのは、世界中で起こっている事件です。きっかけはささいなことやくだらないことで喧嘩になり、騒ぎを黙らせるために男は女を殺すしかないと思うでしょう。男の心理には征服願望、支配願望があり、それがかなわないのなら殺してしまえという極端なものがあります。
戦争映画でわたしの印象に残っているのは『ディア・ハンター(1978、マイケル・チミノ、アメリカ)』ぐらいです。何と言ってもカヴァティーナのギターのエンディングが泣けるというか、万感の思いを抱きます。『死刑台のエレベーター(1958、ルイ・マル)』のマイルス・デイビスのトランペットは、いつ聞いてもスタイリッシュで洗練されています。マイルスは、映像を観ながら即興で映画音楽を作りました。さすがジャズの人です。『ピアノ・レッスン(1993、ジェーン・カンピオン、オーストラリア)』のマイケル・ナイマンのピアノも、悲しげではありますが、何か切羽詰まった感があって、映画にフィットしています。音楽といえば『サウンド・オブ・ミュージック(1965、ロバート・ワイズ、アメリカ)』です。ミュージカル嫌いだったわたしが大好きになったのは、この映画のおかげです。『わたしのお気に入りMy Favorite things』『Sixteen Going on Seventeen』『ドレミの歌』『エーデルワイス』などなど、つい歌いたくなるような曲が満載です。
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