カウフマン子爵領から ……

 ジュールは普段通り顔を洗って、広い庭の一角で剣を振っていた。


 馬を走らせるための平坦な緑絨毯、そこは訓練も兼ねているため激しい起伏を持ち周りは森に見立てた針葉樹が所狭しと植えられている。


 子爵家は断片的な情報を辿ると王国が建国されるよりも以前に豪族としてこの地方を支配していた。初代国王に味方し、加勢したことでこの地を治める許しを得た。ジュールが立っている庭はかつて軍隊の訓練をここでしていた名残なのである。


 王家や公爵家に負けず劣らずの屈強な領軍はまさにこの地から始まり、近年稀にみる領地拡大の礎となっているのだ。


 その歴史ある訓練場で無心に剣を振るうジュールの背後に近付く人物がいた。


「よぉジュール。冒険者だからっていきなり子爵様と面会が叶うなんてとんだ幸運の持ち主だ」


「……その声は、アルベルト?」


 鍛錬を一旦中止して振り返るとアルベルトが貴族の服に身を包んでそこにいた。船の上で何の汚れかすら分からない服を着ていたのを見ているジュールは、あまりの豹変ぶりに言葉を失った。


「……」


「いい顔してるぜ」


「アルベルト、お前は……いやあなたはカウフマン家の人間なのか?」


「お前でいいぜ。俺はカウフマン家の人間じゃない。俺は宗教に乗っ取られたアインシュタイン家の、三人目の男児。まぁ三男だ。スペアとしては姉たちの方が沢山いたんだがな」


 手招きで場所を変える様に誘うアルベルトに、ジュールは断るわけもなくついていった。


 平地を模した平たい場所を歩き、丘とみなせる起伏を超え、防風林と奇襲効果を試す樹木たちの隙間を歩くと、ようやく小さなガゼボに辿り着く。


 そこには何故かカウフマン若子爵がいた。

 壮年の執事を召して美味しいのか不味いのか判別のつかない液体を優雅に飲み、侍女に軽めの紙類を持たせて待っていたようだ。


「待たせたな」


「先生の親戚さん……あなたが警戒しない人間とは、船に乗った人間ですね」


「ネッティの目に狂いはないぜ」


 昨日今日と全く情報の整理がついていないジュールは二人の関係性がつかめるはずもなく、疑問に疑問が次々と浮かで思考の水面が見えなくなっている。


「ああ、ガロア先生の親族さん」


「……あ、慧眼にまさる……」


「そんなに畏まらなくても構いませんよ。呼んだのは僕ですから」


 カウフマン子爵はアルベルトを一瞥し、彼は静かに頷いた。


「ここ最近、私が冒険者を集めているのはアルベルトくんからお聞きになった通りです。その理由なのですが」


 後ろに控える執事を呼んで珍しい羊皮紙の資料をジュールの目の前に置いた。


「読めない」


 農村から都市に入り込んだジュールは魔法使いのキュリーから恥ずかしくない程度の読み書きは出来るが、難しい用語の入り混じった資料を読み込むにはかなり無理があった。絵や補足でどうにか概要を掴んだが、細かいことはさっぱり分からなかった。


 アルベルトは注がれた紅茶をゆっくりと飲む。周りの時間が止まっても違和感がないであろうほどにゆっくりと。


「昨日義父と話し合いまして集めた冒険者にやって貰いたいことを決めました。まぁ、王都がきな臭いこと、北の諸侯が不穏な動きをしており王国の西側が離反状態であることを含めて……というわけなんです」


「国政とか情勢ってやつには疎いが、王国はもう滅ぶのか?」


 若子爵は否定しない。悲しそうに小さく俯き、そして言った。


「即位したての王にはつらい現世です。ええ、もう彼の命は長くない」


 暗殺されてこの世を去ることも多いこの世の中、しかし王の命はあまりに多くの人々の命を封じている。冗談であっても粗末にあつかっていいものではなかった。


「……それで、俺に何をしろとこれには書いてあるんだ」


 貴族と平民の差は多少弁えているジュールは堅い椅子に座ったまま聞いた。手が震えているのが誰の目にも明らかであったが、指摘しなければジュールの顔が赤くなることはない。


 アルベルトはようやく紅茶を机に置いた。


「北。王国北部、アインシュタイン家領。そこで生かされているスペアを全部、抹消する。要は教会で洗脳されている哀れな子供を救い出してほしい」


 妙に声が震えているがジュールは問いつめなかった。


「罪は、深いのか」


「何もない。ただもう、神聖魔法で縛られて生きた操り人形になっただけの存在。生きている可哀想なもの」


 アルベルトは努めて平生を試みた。油断すれば涙腺から分泌された涙が頬をつたり、全く止まらないまま一日を終えるだろう。


「……」


 ジュールは一つ、思い返し、そして耐えている彼のマナコを貫いた。


「報酬を寄こせ、出発は明日だ」


 脳無しは不機嫌と諦観を介在させて二人の目の前からすぐに立ち去ろうとした。しかしながら歩幅も安定せず、頭も揺れ、明らかに無理をして歩いている。なれども、何かが彼を動かしている。


 カウフマン子爵はアルベルトに聞いた。


「わざわざ、彼に頼まなくても腕のいい人間は――」


「――頼まれたんだ。ああ」


 アルベルトは不愉快そうに紅茶を飲み干し、ガゼボを後にした。


「アインシュタイン家の秘宝が、そんなに嫌いなんですね」


 あるかもわからない噂程度、若子爵は恐れる理由を知らず。

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とある異端者の話 黒心 @seishei

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