カウフマン子爵領から
酷く泣いたあとの顔のように、しわくちゃになった皮膚を触りジュールは完全に覚醒した。しかしまだ体は動きそうもない。
ジュールは思考に耽った。
北の大地、極寒の極地で聖クリステファンとした会話を思い出す。女神に対して絶望したあの夜のことである。まだしんしんと雪が降る穏やかな夜だった。ジュールは星が見えないまま空を眺めていた。
「ここにいましたか……報酬を受け渡しに来ました。少ない限りですが、ああ、要りませんか」
神聖魔法なのかと疑った魔方陣の中心にいた人物だ。聖クリステファン、紫色の法衣を纏う彼はどこからともなく荘厳。くり抜かれた片目がなければより美男子であったであろう整った容貌、慈愛に満ち満ちた表情はとても残酷とは思えなかった。
「では、あなたのお仲間に渡しましょう。氷魔法が得意な貴婦人でしょうか」
「……」
ジュールは自分でも驚くほど冷たい目をしていた。
「異端とはいえ人殺しをお願いした身、あなたや同士のために三日三晩、女神に祈りを捧げましょう。よくやってくれました。あなたは私の恩人です」
とりつく島もない笑顔のまま彼はどこかへ消えて行こうとした。音もなく、光もなく、常人とは思えないほど闇に溶け込んだ足取りだ。
「名前、あんたの名前は」
彼は振り返り、真っ黒な穴を覗かせる。まるでそこに目があるように錯覚してしまうほどで、ジュールは鳥肌が立った。
「クリステファン、と申します」
全身の毛が逆立つのを感じ、ジュールは顔を逸らした。
「……もう、関わらないでくれ」
「女神がこの世を導く限り、あなたは、女神の恩寵から逃れることはできません。罪を背負い、現実を直視し続けるなら私はあなたの前に立って女神の輝きを透過し続けましょう」
「背を向けて、何も見ないと?」
話を聞いていると眩暈がする。
「それは異端でありましょう」
空気のような会話、双方が踏み込む足場もない会話。
このクリステファンという男は生粋の宗教人で俗世に住んできたジュールとは一線を画す世界観に住んでいる、と思わせるに充分で、馬鹿にされているのか真摯に向かい合っているのかすら、ジュールには分からないのだった。
雪が段々と強くなり、ジュールは服の襟を持った。
「随分寒いところまで来ちゃったな……帰らないと」
「南に下るのがよろしいでしょう。王国は温暖で過ごしやすいと信者たちが言ってしましたよ」
「……」
「女神はこうおっしゃったらしいです。三回目の邂逅のとき、人は変わったように見える、と。生きてあえることを心待ちにしております。ジュール殿」
仰々しい動作で彼を見送ったクリステファンは法衣に付いた雪を叩いて地面に落とす。しかし、雪が落ちたようにはは見えない。
「あんたもな」
ジュールは一度だけ振り返り、二度と振り返らなかった。剣を腰に、仲間から貰った路銀をポケットに全て突っ込んで。
思考から回帰したジュールは窓から空を見上げた。
王国の朝は北の大地と比べ物にならないほど温かい。朝焼けの赤い光は蒼い画布を徐々に染めていき、ジュールが眺めている間にも太陽が世界を塗り替えていく。
彼は単純に思った。これは希望だと。あの太陽自体が女神そのものだと語る信者が現れるのもわかった。初めて出会ったクリステファンは全く恐怖の対象などではなかったのに、彼は今、皺くちゃになってしまうほど感情を抱いている。
「もっと昔に……あったことがあるのか?」
ジュール自身、そう思うしかなかった。思えばクリステファンの瞳は回顧のそれだった。
寝台に立てかけられている剣に目が留まる。
鋼、それか青銅の父親から譲り受けた剣である。想像以上に手になじみ、親子の絆の一部だ。
ジュールは柄を持ち、鞘からゆっくりと引き抜いた。
「今は……ドロシーを守る。それだけだ」
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