耳人

尾八原ジュージ

耳人

 どうしてもおれの耳かきをしたい、と彼女が言う。


「きょーちゃんの耳の中にでっかい耳垢があってさぁ~、時々中でコソコソ動いてんのが見えてさぁ、すっごい気になるんだぁ」

 おれは他人に耳の穴を委ねるのが厭なので、彼女の頼みをはぐらかし続けていたのだが、

「やらせてよぉ〜! ちゃんとした耳かき買ったからぁ〜!」

 と、いつになくしつこい。

 とにかくヤらせてヤらせてってあんまり強請るもんだから、こうなりゃ一発徹底的にヤらせりゃ気が済むだろう、と覚悟を決めることにした。

「やったー! まかしてよ、あたし器用だから」

 彼女はおれを自分のアパートに呼んだ。部屋に入るとすでに準備は万端、部屋の照明は最大光度で、ローテーブルの上ではスタンドがまばゆい光を放ち、その傍らにはティッシュが一枚敷かれている。

「今日はありがとぉ~! よ~し、やっちゃうぞ~!」

 彼女はドレッサーの抽斗を開け、中から銀色の細長い棒を取り出した。「ちゃんとした耳かき」というから、古式ゆかしい竹製のおとなし気なやつが出てくると思ったおれは、キラリと光る得物を前にドン引きである。

「うわ、何そのバーベキューの串みたいなの」

「そんなに長くないもん! 20センチくらいだもん!」

「それでも長! お前マジで気をつけろよ!?」

 万が一があったら耳の中を傷つけられるばかりか、脳みそまでほじくり出されてしまうのではないか? びびるおれとは反対に彼女の方は自信満々で、

「このくらいの長さの方が持ったときに安定するんだよ?」

 ときた。

 とにかく約束しちゃったのでヤらせるしかない。最悪痛かったら止めろと叫べばいいか……というわけで、正座した彼女の膝に頭を載せる。こんな状況でなければ喜ぶべき膝枕なのだが、「絶対ぜってー動くなよ」と急にどすの効いた声で脅されたりして、正直リラックスどころではない。とにかく動くな、動いたら死ぬぞ! というくらいの覚悟でおれは極力動きを止めて静かに呼吸をし、目を閉じた。

「じゃあイキまぁす」

 彼女が宣言した直後、右の耳孔に、ひんやりとした異物が入り込んでくる。

「おお~、たまってるねぇ~」

 彼女の嬉しそうな声が聞こえる。耳孔の壁を極小の孫の手みたいなものがさわさわと掻いていく。

 痛くはない。むしろ、思っていたよりもずっと気持ちがいい。彼女の「器用」という自己申告も、あながち嘘ではないのかもしれない。

 当たり前かもしれないが、おれは自分の耳の穴の中を見たことがない。見てみたい気持ちがなくはないが、見る方法がないのであえて見ない。耳かきもあまりしない。耳掃除については「綿棒でたまに耳の入口を拭けば十分」と聞いたことがあり、自分でやるのはせいぜいそれくらいだ。

 しかしおれに関して言えば、それでは掃除の仕方が足りなかったのかもしれない。彼女は「おお」「おおお~」「とれるねぇ」と言いながら耳の中をコソコソし続け、たまにティッシュの上に耳垢をトントンと落としながら、まるでダイヤモンドでも探し出すかのように丁寧に、少しずつ掘り進めているらしい。後でどれだけ取れたか見せてもらおう……と心に決めてじっとし続けていたところ、突然彼女が「あっ!!」と叫んだ。

 同時に、ほっそりとした金属が一気に、それこそおれの小指一本分はあろうかと思われる深さまでぐいっと押し込まれた。

「わっ!!?」

 おれは咄嗟に声をあげた。

「動くなっ!!!」

 彼女がおれを𠮟りつける。

「いや、今、今なんかすごい奥まで」

「動くなって言ったでしょ!? あんた死にたいのっ!?」

 聞いたことのない彼女の怒鳴り声に、体が自然と硬直してしまう。

「いた、いたよ、あのコソコソしてるやつ……完全にいた。だって目があったもん。絶対こっち見た」

 彼女はぶつぶつと呟きながら耳かきを動かす。耳孔の壁を固いものが這いまわる。痛くはない。痒いところを掻かれるような快感がある。でもそいつは確実にだんだん奥に潜ってくる。

 耳の穴って直線のトンネルじゃないよな? 途中に鼓膜があるんだよな? 彼女はあのまっすぐな棒をどこまで突っ込んでいるんだ? 想像すると全身に怖気が走る。でも視認することができない。

「絶対見たもん。ばかにしやがってあいつ……ああ、いた。待って、待って待って待って……」

「なぁ、どう……どうなってんの、なぁ。てか何? 追っかけてんの? 何がいるの?」

 彼女はおれの問いかけには答えず、黙ったままずるりと耳かきを引き抜いた。全身が安堵で緩む。トントン、とかすかな音がする。彼女がティッシュに耳垢を落とす音だ。とれたのか? ようやく動くようになった頭を上げようとすると、

「動くなっ!!」

 また怒鳴られて、再び全身が硬直する。

 ずっ。

 耳かきの先端が一気に、体感的にはもう鼓膜なんかとっくに越えて、おれの眉間の辺りまで入ってきたような気がした。

「今いた。こっち見てるほら、待って、待って、待って、待って、待って」

 荒い呼吸の下で彼女の声がだんだん泣きそうな湿気を帯びていく。待って、待って、待って、待って……何度も繰り返す声を聞いているうち、道に迷った子供を見捨てていくような罪悪感を覚え始める。おれは無力だ。おれはおれ自身の耳孔の中を案内してやることもできなければ、おれの耳垢を彼女のところに連れて行くこともできない。それらはおれに属しているもののはずなのに、おれの自由にすることがまったく不可能だ。

「待ってよおぉぉ」

 彼女が涙声を出したそのとき、冷たくて固いものが脳の底面を抉るような感触がした。

 不快感と快感がごちゃまぜになったよくわからない味の刺激が、頭のてっぺんまで稲妻のように駆け上がった。

 おれは意識を失った。


「お~い、もう夜だよぉ~」

 彼女に揺り起こされて目が覚めた。

 いつのまにか眠ってしまっていたらしい。カーテンの隙間から暗くなった空が見える。

「……なに?」

「何? じゃないよぉ。あたしそろそろ仕事行かなきゃだから、一緒に出てぇ」

「ああ、ごめん……」

 彼女は着替えとメイクを済ませて、すっかり出かける支度を整えている。「なぁ耳垢どんくらいとれた?」と尋ねると、そっけなく「捨てた」とだけ答えた。おれは、もうそのことについて触れてはいけないのだと、直感的に悟った。

 急いで身支度を終えると、出勤準備を整えた彼女と一緒にアパートを出た。

「きょーちゃん、明日も来るぅ?」

「ああ、いや……おれも仕事だわ。また次の週末とか」

「オッケ~。また連絡するねぇ」

 泣いたのだろうか、腫れぼったい目元をメイクで隠した彼女は、ヒールを鳴らして明るい街の方へと歩いていく。おれは反対側、暗くなっていく住宅街の方へと足を向ける。

 耳の中が涼しい。いつもよりも色んな音が聞こえる。遠くのサイレン、犬の鳴き声、自転車のブレーキ、はるか上空で雲が流される音や、歩行者用の信号が赤に変わる音まで。

「あっぶねぇなぁ、あの女」

 おれの頭の中心から、おれ自身の声が聞こえた。どこか聞きなれない自分の声は、頭蓋骨を内側からびりびりと振動させた。

 おれは何も応えなかった。

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耳人 尾八原ジュージ @zi-yon

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