何もしてないのに壊れた

ぴのこ

何もしてないのに壊れた

診断書

傷病名:適応障害

抑うつ気分、不安、意欲低下、不眠等を主訴に令和6年8月28日に当院を受診。診察の結果、上記診断とする。令和6年8月28日より一か月間は労務不能と判断する。



「また一人休職か。どうせ辞めるんやろな。まだ8月やっちゅうのに毎年毎年、近頃の若いモンは根性が無いわ」


 藤堂とうどう部長は、新入社員が今朝方提出した診断書を眺めながらため息交じりに呟いた。それは目の前の上司への言葉にしては礼節に欠け、思わず口をついて出た独り言であることが察せられた。


「藤堂くん…君の能力への疑いは一切無い。君は新人教育に関しても適切な指導ができる人間だと信じている。新入社員の離職率が高いのは、ウチの業務が激務であることが原因だろう。その上で聞くが…彼らが辞める理由に心当たりは無いかね?」


「心当たりですか?慢性的な人手不足でしょうね。辞める社員が多いぶん、一人あたりの業務量が増えてしまうのが原因やと思います。ま、私はもう少しくらい仕事増えても平気ですけどね。ハッハッハ!!」




 それは唐突にやって来た。


 入社して4か月、死ぬ気で頑張ってきたつもりだった。頑張って、頑張って、一度も褒められなくても、頑張って。その日も、さあ今日も頑張らなきゃと思いながら支度をしていた。


 そのはずだったのに、どうしても。玄関のドアが開けられなかった。


「なんやこのパワポ。オマエこれで何が伝わると思うんや?こんなん授業ではじめてパワポを習ったばかりの中学生が作るレベルやろ。もうええ。ワイが作る。オマエは別のことをやれ」


 唐突に、藤堂部長の声が蘇った。これから出社したとして、仕事をしたとして、その結果は評価ではなく、どうせ叱責だ。じゃあなんのために。責められ、自分は無能だと突き付けられ、自分の存在価値がわからなくなって。それなら、なんのために俺は会社に行くのか。


 欠勤の電話をしようとした。それさえ指が震えて、吐き気が止まらなくなって、通話ボタンを押せなかった。


 何十分もその場に座り込んで、俺は会社に行くんじゃなくて病院に行くんだと自分に言い聞かせることで、ようやく腰を上げられた。


「オマエこのミス何度目や?お願いだから改善してくださいって何ベンも言うとんのやけど、どうしたら聞いてくれる?ワイの言うことが理解できんのやったらメモに書いたこと毎日毎日音読したらどうや」


「オマエはな、要はやる気が無いんや。ホンマにやる気があればもっとガンガン仕事を覚えていくはずやろ。それが何か月経っても成長せん。やる気無い奴がいるとなあ、迷惑なんや。士気が下がるんや」


「そのキョトンって顔やめてくれへん?ワイがミスを指摘した時にオマエが毎回する顔や。オマエ緊張感持って仕事しとらんの丸わかりなんや。周りみーんなオマエのこと感じ悪いって思っとるで」


 病院に向かう途中も、部長に言われた言葉が頭の中を駆け巡って止まらなかった。途中で何度も吐いた。涙が止まらなかった。何もかも、自分が悪かった気分になってきて、罪悪感に押し潰されそうになった。


 すみません。すみません。申し訳ございません。何度も会社で言ってきた言葉を、胸の中で繰り返した。




 自慢じゃないが、私の夫は完璧だと思う。仕事はできるし、健康的だし、何より結婚して何年経っても私への気遣いを欠かさない。本当に優しい人だ。


「ごちそうさん!今日も美味しかったで、ありがとな。後で皿は洗っとくわ」


「うん、ありがとうね。ところで今日、会社で何かあった?疲れてそうに見える」


「あ~、また新入社員がひとり休職してな。その対応で午前中はバタバタやったわ。上司にも藤堂くん何かやったんやないの?って疑われるし、散々やったわ」


「また~?実際あなた何かやったの~?」


「しとらんしとらん!何もしとらん」


 私が冗談めかして聞くと、夫は大げさに手を振って否定した。


「何もしてないのに壊れたんや」

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何もしてないのに壊れた ぴのこ @sinsekai0219

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