我的寶貝
中里朔
思い出は置いていくもの
四年も住んでいた割に、僕の部屋には引越し屋を呼ぶほどの荷物はない。東京の大学に在籍している間にミュージシャンとして活躍したいと目論んでいたが、芽が出ることはなかった。明日は親父が借りてきた車に荷物を詰め込んで、東京とはお別れだ。田舎に戻ったら、今後は隣近所を気にすることなくギターを掻き鳴らすことができる。ただの趣味として――。
机の引出しから曲のイメージを書き溜めたノートや、楽譜の束を乱雑につかんでは段ボール箱に詰め込んでいく。机の奥からしまい込んだままになっていたエアメールが出てきた。かれこれ二年近く前に届いたものだ。差出人は
上京してすぐのこと。生活の足しにしようと、講義の空き時間を利用して近所の工場で検品のアルバイトを始めた。
当初はなにも知らず、『楊(よう)さん』と呼んでいた。彼女から正しい読みと同時に、台湾では面識がない間柄の場合は敬称を付けるけれど、そうでないなら名前を呼び捨てにするのが通例だと教わる。もっと親しくなると姓を含めたフルネームで呼び合うのだとか。日本と海外の文化の違いを、まざまざと思い知らされた。
この日以降、僕は彼女を『品妤(ビンユー)』と呼ぶようになった。
ある日、同時刻に仕事を終えた
いきなり部屋に連れてこられて、初めこそ驚いていたものの、ようやく雨宿りの意味を理解した様子だ。渡したタオルで体を拭きながら、部屋の中を興味深く見回している。
ワンルームの小さな部屋は、ギターと楽譜が散らばっていた。楽譜を一枚拾い上げて、「私も台湾ではギターを弾いて歌っていた」と言う。
「ぜひ一曲、聞かせて欲しいな」
親近感が沸き、彼女の歌を聴いてみたくなった。
とてもやさしい歌声の弾き語りに、僕の胸は高鳴った。癖になるフレーズと、中国語で歌う
『
また
父親の転勤期間が終わるため、台湾に戻ることになったと告げられたのだ。
「いつか遊びに来てね」
ありふれた言葉を残し、皆から見送られた
エアメールはしばらくしてから、教えた住所へ届いた。近況を知らせる短い手紙とともに、台北101というシンボルタワーの写真が同封されていた。
展望レストランから撮ったと思われる写真には、眼下に広がる台北市を眺望しながら、優雅に食事をする
男性は彼女の家族か、友達か。あるいは恋人かもしれない。
突然、僕の脳裏に『
♬我的寶貝~(私の大切な人)
寂しい思いをしていても、どこかに私を愛し、寄り添ってくれる人がいるという意味の歌だと
嫉妬というなら否定はしない。
二年前、届いたエアメールに返事も書かず、引出しの奥へしまい込んだ。記憶の奥底へ封印したのだ。
彼女の歌を聴いて、僕は打ちのめされた。あの時すでに、彼女に嫉妬し、夢を諦める決断をしていたのかもしれない。
もう二度と
エアメールを脇に置き、ガムテープで段ボールを閉じた。
我的寶貝 中里朔 @nakazato339
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