兄?
黒本聖南
◆◆◆
薄ぼんやりとしたオレンジ色に染まる室内。ベッドに横たわる僕の傍らには、いつの間にか兄がいた。
兄にも僕にもそれぞれ部屋が与えられている。物の貸し借りなんてしていなかったし、今夜僕の部屋に来てだなんて言った覚えもない。その時の僕はもう小学校高学年だったんだから、そんなこと言うわけがない。
それなのに、目を覚ますと傍に兄がいた。
ベッドの空いている所に腰掛けて、僕を真顔で見下ろしながら、何か口ずさんでいるようだった。
ぱくぱくと動いていく兄の口。何を歌っているかはよく分からない。聴き覚えがないとかじゃなくて、聴こえないのだメロディーが。そもそも声を発していたんだろうか。
寝ぼけながら兄を眺めていると、兄と目が合い歌が止んだ、と思う。
「うるさかったか?」
兄に訊かれ、少し考えてから首を横に振る。聴こえないメロディーをどうしてうるさがる必要があるのか。
「もっと、歌っていいよ」
「そうか? じゃあ」
兄が再び口を動かすけれど、やっぱり兄の歌をこの耳が拾うことはなかった。
無音で口ずさむ兄は楽しそうで、その姿を眺めていると、だんだん瞼が重くなってきた。
「……ね、にい……」
「どした」
「……へい、き……?」
「……平気だ」
寝ろ。
その言葉には魔法が込められていたのか、それを合図に僕は夢の世界に戻り──目覚めると、兄はいなくなっていた。
僕の部屋からはもちろん、家の中からも。
兄の荷物はほとんど残っていたけれど、部屋の中をよく見てみれば、兄お気に入りのショルダーバッグとか、布みたいに折り畳めるピアノとか、服もいくらか減っていた。
何より、この日を境に兄本人がうちに帰ってこなくなった。
高校を卒業してから、兄は働いていた。就職はしないで、隣町のレンタルビデオ店でアルバイトをしていた。三年くらいだったと思う。
母からそれとなく聞いたけれど、バイト先の人とあんまり上手くいってなくて、バイトに行かずに学生時代からの友達と集まることが増えて、最終的にクビになったらしい。
就職をしなかったのをきっかけに父とギクシャクするようになった兄。そのバイト先もクビになったことで、いよいよ父は黙っていられなくなった。
兄が僕の部屋にいた、あの日のことだ。
兄の将来が心配な父と、ほっといてほしい兄。二人の話し合いは徐々にヒートアップしていき、彼らの怒鳴り声はきっと家の外にも響いていたと思う。いつもと全然違う二人が怖くて、僕は布団を被ってベッドに踞って、そのまま寝てしまった。
兄なりに、悪いと思ったのかもしれない。
十歳くらいは離れていたから、それなりに可愛がってもらったと思う。兄弟喧嘩なんてどこの国の言葉なんだろうと言ってしまえるくらいには、兄は僕に優しかった。
兄のいなくなった家には常に違和感があり、父も母も兄の不在に見て見ぬふりをしていながら、時折、兄の部屋からどちらかの泣き声が聴こえてきていた。
物足りなさと淋しさを感じながら、日々を過ごす。僕は高校生になった。
学校では最近、ネット上で活躍する、とある音楽グループが流行っていた。
最初はボーカロイドを使い、よくあるストーリー仕立ての曲を投稿していたらしいけれど、次第に、無料の小説サイトに小説を、イラストサイトに漫画を投稿していくようになった。世界観は同じだけれど、それぞれ独自のストーリーが紡がれていて、どれも面白い上にクオリティが高いから、中高生をメインに人気になっていた。
友達は揃いも揃って彼らが好きで、毎日飽きもせず彼らの話をする。最初は付き合いで、そのグループの小説を読んでみたけれど、意外と面白くてついでに漫画も読んでみた。漫画もけっこう好きだ。
ただ、曲だけは駄目だった。
映像を観ることはできる。歌詞も読める。だけど曲だけは、最大音量にしても聴こえない。他のアーティストの曲なら聴けるのに。
不思議だなと思っていたけれど──唐突に、その答えが分かった。
兄から手紙が来た。ポストカードに短く、『元気ですか? 元気です』とだけ書かれていた。
母も父も泣きながら兄の言葉を読んでいたけれど、僕はポストカードのイラストから目が離せなかった。
例の音楽グループが産み出したキャラクターが、海を背景にポーズを決めている。
たまたま、何となく、偶然、そのポストカードが手に入ったから使っただけかもしれない。これはただの妄想かもしれないけれど……在りし日の兄は、よく、折り畳めるピアノの鍵盤を叩きながら、ノートに何か書いていた。
僕が見ていることに気付くと、兄は指を一本口の前に持ってきて、言うのだ。
「内緒な」
……。
部屋に戻って、スマホを操作する。動画サイトに投稿されている、例のグループの曲を一曲適当に選び、コメント欄に文字を打ち込む。相変わらず、メロディーは聴こえない。
『元気ですよ。元気ならいいです』
兄? 黒本聖南 @black_book
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