第7話

 私は学校に行くと、笑香と話す。

「けっこうえぐいエロマンガ見つけてさあ、みる? ほい持ってきたよ」

 と、笑香は漫画本を掲げる。

 私はぎゅっと心が戒められるのを感じる。

 こういうこというの下品だ。

「めっちゃ見たいけど、トイレで話そ」

 私たちの言葉で教室が汚染されないように、友達を人気の少ないところへ連れて行く。

 ちらりと鈴木翼がこっちを見た気がした。私が顔を向けるともう彼は見ていなかった。

「なんでこんな臭いところで話すの? 教室で良いじゃん」

 笑香はトイレににたどり着くと言った。

「なんか内緒話でもあるの?」

「ん? そういうわけでもないけどさ、人に聞かれたら恥ずかしいじゃん。大声でそんな話聞かせて、周りが嫌な顔するだろ」

「いいじゃん。誰に何を思われようが関係ない。お前さ、何? 急にあの女々しい奴らと同類になったの? は? あたしと話すのが恥ずかしいってか?」

「……そうだよ」

「なっ、お前!」笑香は目を飛び出しそうなほどむき出し、真っ赤になった。額と眉間に深いしわが刻まれている。彼女は充血した目で私を睨みつけると、手のひらで私の胸を乱暴にドンと押した。私は反動で一歩後退り、悲しみをこらえるように顔をゆがめたのに、不思議とその顔はこびるように笑顔で。


「笑香、私ら変わらないと。私らどこも格好良くないんだ。惨めで汚らしいんだ。周りからそう見えているんだって。周りの奴ら嫌な顔しているだろ。私らが話していると、不快なんだ。いいかげん気づこう。私ら迷惑がられている」

「だからなんだってんだ」

「私自分が嫌になった」

「あたしはいつものあんたのほうが好きだよ」

「それは私と笑香が似ているからそう思うんだ。私らは同類だから。変わろうよ。私ら性格悪いよ。もしあんたに変わる気がないなら、私はあんたと友達やめるよ」

「は?」

 笑香は苛々して叫んだ。

「なんだよそれ、一方的だろ! そうかいそうかい。今までさぞ不快だったろう。あたしのそばにいるのが! いいよ、やめてやるよ。あんたとの縁なんか断ち切る。あたしだって、あんたが嫌だ。気色悪い、周りの意見に黙って従って、自分を殺すあんたが気持ち悪い。そればかりか友達の性格まで否定して、失礼だろ。友達なのに。あーあーもう近づくな。部活にも来るな。お前なんか友達じゃない」


 笑香は乱暴な歩調でトイレを出ていった。


 一人残されて、私は絶望と悲しみに今にもひざが崩れて座り込んでしまいそうだった。そのくらいに力が抜けていくのを感じた。

 私はトイレの個室に閉じこもり、スカートのポケットからカッターを取り出し、ちきちきと刃を出して、それを腕に押し当てた。ゆっくり力を入れて滑らすと、切れの悪い刃は白い線を後ろに残す。浅い傷しかつくれないがそれで良かった。ただ痛みを感じたかったのだ。自分が傷ついたと視覚化することで、私は自分を哀れに思い、心が湿っぽく落ち着くのだった。

 その日から私は一人になった。部活にも行かなくなった。行かなくなったところで何か言われることもなかった。たぶん笑香がみんなに根回ししてあいつに近づくな無視しろとか言ったのだろう。別にどうでも良い。

 一人でぼうとしている気まずさをごまかすために私は本をいつも自分の席で読んで集中しているふりをした。

 いつも群れていたのに、一人になると、押しつぶされるような苦痛を感じる。私は恥ずかしかった。自分だけ違う。誰からも必要とされていないみたいで。みんなが私を無視する。そうすると、私がやがて景色に溶けて消えていくようで怖くて、わくわくと胸が躍った。

 授業中、私は窓の外ばかり眺めていた。外に見える、青い空を見ていた。空に浮かぶ白い鱗雲を眺めていた。カラスだろうか、鳥が空を飛んでいくのを見ると、私は胸の高鳴りを感じた。そして、そわそわと落ち着かなくなった。私も今すぐ窓から空へ旅立ちたい気がした。そしてこの世界から消えたい。


 ある日の休み時間になると私はついに教室のベランダに足を踏み入れてみた。風が心地良い。私の肌や髪を撫でて木々の葉を揺らしていく。私は風の吹く口笛のような音を聞きながら手すりにもたれ下を覗いた。まっ平らな校庭が見える。吸い込まれる。私は体が落ちそうになるのを感じながら、手すりから離れ、教室の中に戻った。何気なく鈴木翼のいる方をみると、彼は本を読んでいた。

 どうして見てくれなかったのだろう。

 今、私が危険な目に遭っていたのに。

 落ちて死ぬかもしれなかったのに。

 誰も気づかないんだ。

 私は私の悲しい気持ちに気づいて欲しかった。

 鈴木翼だったら、気づく気がした。

 そうして、私はおもむろに鈴木翼の側まで歩いていくと、彼の読んでいる本を取り上げた。鈴木翼はびっくりしたが、相手が私とわかると、憎悪と軽蔑に顔を曇らせた。

「やめてよ」

 彼が嫌がっていると、私は嬉しかった。もっと私のせいで感情的になって、私に心を動かされて。私に執着して。

 私は手に余る彼の本を持ってベランダに行くとそれを下に捨てた。そして、興奮しながら振り返り、彼を見た。鈴木翼が私を睨みつけ、怒りの形相をしてみせた。

 わかっていたけれど、そんな顔するんだ。私のこと嫌いなんだね。

 私は後ろめたくなり、勢い余って本を捨てたことを後悔した。胸がひび割れるようなそんなちくちくする痛みを感じながら、私は手すりに乗り上げ、それから全部が、嫌な気持ちも苦しい気持ちも消えろと思いながら、下に落ちた。

 私は我慢ならなかった。鈴木翼に嫌われているのが。嫌われていて挽回できるとは思わなかった。本を捨ててもっと嫌われた、究極に嫌われた。わかっていたけれど、嫌われることをして嫌われるのをわかっていたけれど、もしかしたら、思っていたことと違うことが起こる気がしたのだ。しかし、やはり答えは決まったとおりに動いて、私は失望した。

 私は居なくなろうと思った。

 これ以上私は誰かを傷つけたくなかった。

 みんなから嫌われるのはごめんだ。私は嫌われるようにしか生きられない。

 綺麗な空へ飛んだら、私も綺麗になれるかな。




 三階から落ちた私は、生きていた。両足を骨折したが、生きていた。

 担任の先生の運転する車の助手席に乗って病院に向かいながら、私は思いだしていた。

 校庭に落ちたとき、地面に横になって上を見ると、鈴木翼が、私が飛び降りた三階のベランダから下を覗いていた。私は、彼の驚いた青い顔を見て、自分と目が合うのを感じて、胸がざわざわとさざ波を打った。鈴木翼が私を心配している。私が死んだと思って。両目に涙があふれた。先生が助けにくるまで私は横になって三階のベランダに立つ鈴木翼を見つめていた。彼はまっすぐ私を見下ろし、集まってきた他の何人かの生徒の群に紛れた。

 私は入院し、そのとき親や見舞いにきた先生になんで落ちたのか聞かれたが、私は必死に口をつぐんだ。

 言いたくなかった。言うのが恥ずかしかったのだ。鈴木翼に心配されたかったというのが。

 私は――好きなのかもしれない。――恋をしているのかもしれない。

 そんな自分の心が疎ましかった。だって、相手は私を嫌っているのだもの。人に迷惑をかけることをしていると許せない思いだった。

 先生が何度か来て執拗に私に聞く。

「あれはあなた、自殺未遂だったの?」

 私は口をつぐんでいたが、何度も聞かれるとうざったくなり、言った。

「本を取ろうとして……さきに本が落ちて……慌てて手を伸ばしたら落ちたんです……」

「まあそういえば本も落ちていたものね。そう、そうだったの。ならいじめられていたとか言うのはないのね?」

「はあ……まあ」

 先生はほっとしたように肩をおろした。そして、明らかに顔色がよくなっていた。

 秘密を心にぐっと丸めて押し込み、私はなんでもないようなさっぱりとした顔をしてみせる。そして口元に笑みを浮かべてみせる。

「なあんでもないんですよ」

 私はくすくす笑いながら言った。

「私、いたずらで鈴木翼の本を奪って落とそうとしたんです。落とすつもりはなくていたずらで、でも本当に落ちて、手からこぼれて、いけないと手を伸ばしたら、体が前にのめって、滑って……落ちて……私がいけないんですよ。そんな馬鹿なことをするから。私ってかなり性格悪いですよね。人を脅すまねして、こんなことなるなら、罰が当たったんですよ」

「そう、なら鈴木君に謝らないとね」

 先生は私がいじめっ子だと思ったのか、少し冷たく突き放すように言った。

「もうこんなことしません。結果がこれじゃあ、さっそく免疫ができました」

「まあ」

「先生、先生から鈴木翼に言ってください。私が、塩野目静香が謝っていたと後悔していたと」

「私から言うよりもあなたから言った方が良いわ。そうね、手紙を書いたら? 先生が持って行ってあげるから。紙はあるの?」

 ない、と言うと、先生がメモ帳を破いてくれた。

「今、書ける? 今日先生が持って帰って、明日鈴木君に渡すわ」

「はい」

 私は簡単に書いた。

 鈴木翼へ

 ごめんなさい。私が間違っていたの。私の日頃の行い、とか。

 あんたが思うように私はだめなんだなと思います。

 だからといって、私はいきなり自分を変えることはできないみたいで、やってみたんだけど、うまくいかなくて、私は私で、ほんと私って迷惑だね。

 どうか私を馬鹿にしてください。もう私に目線すら合わせないでください。

 私は自分の中に獣が居るんだと思ます。卑しい人間なんです。あんたが目をかけていい相手じゃないんです。とても悪いんです。

 あんただけはどうか汚れずに生きてください。

 今まで本当にごめんなさい。後悔しています。

 塩野目静香より




 車いすを利用しながら学校に再び通えるようになった頃には、真冬だった。年が明けてすぐである。四月にはクラス替えがあるので、鈴木翼と会えるのももう少ししかない。

 私は私を拒絶する彼を見たくなくて、自分の方から視線を合わせないようにわざとらしいくらいに顔を逸らしていた。彼が左側にいるなら、私は右を向く。不自然なほどで、きっと誰かが今にも、鈴木翼が嫌いなの? と声をかけてきそうだ。私はどぎまぎと酷く緊張しながらそういうことを続けていた。

 雪が降りそうで降らない寒い日だった。吐く息が白く、学校の廊下はつんとするほど冷え切っていた。しかし、教室の中だけ暖房で温められ、むんむんとしていた。

 私はもはや静かにしていた。昔のように馬鹿に騒ぐこともない。親友が離れていき、一人になったというせいもある。

 しかし、私は口を開けばぼろが出るから、無口でいるのが賢明と思っているのだ。自分を押さえ込んでいるぶん、平和でいられる。もし、私が自分に枷をはめなかったら、きっと私は鈴木翼の目から見て酷い女のままだと思う。

 授業が終わると、私は車で帰るため、父の迎えを教室で待っていた。品性の劣る人とかいうタイトルの本を、自分を戒めるために読んで待っていた。本の中の内容を自分と照らし合わせて、なんだか、淡く傷ついたり、励まされたりしながら。

 誰もいない教室に一人だけいる。時々時計を見ながら、私は父の迎えを待っていた。

 がらり。

 誰かが教室に入ってきた。顔を上げて見ると、鈴木翼だった。私は慌てて顔を逸らした。

 どうして彼が来るのだろう。顔がそっと赤くなる。動揺して心臓に火がついたように動悸が早い駆け足になる。

「そんなにあからさまに嫌な態度とることないのに」

 鈴木翼はため息混じりに言った。

「僕、忘れ物を取りに来ただけなんだ」

 彼は自分の席の机の中をごそごそすると、あったと言った。

 私は過度に緊張していた。嫌な態度だと責められて、私は自分自身が急に不快になった。直そうと思った。しかし、なれなれしい態度はとれないし、そうするのは酷く気持ち悪かった。私は仕方なく聞こえない不利をして、そっぽを向き続けた。心はひび割れ、今にも砂のように崩れそうだった。

「塩野目さん」

 彼の優しい深みのある声に、私はびくりと肩を揺らした。

「貴方が僕に嫌がらせをした理由が最初はよくわからなかったけれど、今は少しわかる気がする。貴方はきっと不器用なんだ。僕は貴方の助けになることはできないけれど、とにかく言えることは、僕のために死ななくてもいいということだ。前に変な手紙を貴方からもらったけれど、僕は貴方が少しというか、いきすぎなくらいに自分を過小評価していると思ったの。汚れたところとかは誰にだってあるよ。ただ、見せやしないだけで。僕だって心に獣ぐらい飼っている。似たところはある。でも全体的に見ると僕らは価値観が合わないんだ。だからって貴方が僕に無理して合わせることもない。僕は貴方の期待しているような人間じゃない。僕は何も与えられない。あらゆる人に物を与えられるほど心が豊かじゃない。好きな人には与えられるかもしれないけれど。怒らないでほしんだけれども、僕は貴方のことを好きじゃないんだ。好き嫌いで仲間を作っていくんだと思うけれど、僕は貴方が嫌いだ」

「そりゃあね」

 私はショックで口が利けなくなっていた。無理をして吐いた言葉はとげとげしく震えていた。嫌いだと言われて私の心は死を宣告されたみたいに暗く重たくなった。

「率直に言った方が良いと思ったんだよね。とりつく島があると思って躍起になるからいけないんだと思う。冷たいと思うけれど僕はこんなだから。あっさり見切りをつけて僕から離れて欲しい。優しくできなくてごめんなさい」

 鈴木翼は頭を下げるとそのままきびすを返し、教室を出ていった。

 私は目がチカチカした。胸が息苦しくて、吐きそうなほどに気分が悪かった。疲労が全身に重たくのしかかる。

 ふと、横を見ると、外は白い雪が降り始めていた。

「相手が私を嫌っているのだから、私だって同じく嫌いにならなきゃね」

 そうは思ったものの、私は自分のなかで鈴木翼を切り捨てられない自分を見つけた。すると、犯罪を隠しているような後ろめたさで、私はひやりとした。

 父が教室まで迎えに来た。

「どうした」

 父は私の顔を見ると、怯えたような顔をしていった。彼は私が泣きそうな怒ったような変な顔をしていたので自分のせいかと思って動揺したのだ。

「なに? どうもしないよ」

 私は笑おうとして口が引き攣るのを感じた。そして、慌てて下唇を噛んだ。父がじっと見ていた。私は、涙が出そうで喉を鳴らして嗚咽を飲み込んだ。そして、ほっと息を吐くと、胸が震えた。

 深く追求せず、父が後ろから車いすを押してエレベーターに向かっている途中、私は次々とあふれてくる涙を乾かす為に大きく目を開いて、全然瞬きをしないでいた。目はなかなか乾かなくて、見える視界がぼやけ、きらきらと揺れていた。

 いつもは学校の帰りに登校したご褒美なのか、父がコンビニで何か食べ物を買ってくれるのだけれど、今日は車の中で父が鞄をごそごそ漁り、アルミホイルに包まれた何かを取り出した。

「お母さんがな、毎日コンビニじゃ破産するから私がつくるっていって、作ったんだ。おにぎり。中の具は鮭ハラミだ。お母さん頑張ってさ、お前が怪我したの心配で」

 おにぎりを受け取り、アルミホイルを剥ぐと、海苔と溶けだした鮭の油の、生臭い美味しい匂いがした。私はそれを頬張り、降りしきる雪を眺めていた。




――おわり――

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おにぎり 宝飯霞 @hoikasumi

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