第6話

 一週間ぐらいした頃、鈴木翼は学校にきた。外見上は彼は前と変わらないように見えた。

 私は、彼のそばで息をしていることさえ申し訳なくて、浅く目立たないように呼吸した。そんな努力に彼は気づいていない。

 彼はこちらを見やしないか、怒鳴りつけにはこないか、私はひやひやしながら、挙動不審に鈴木翼を盗み見ていた。だが、彼は私のことなど忘れたみたいに、むしろそんな人知らないと言いたげに教科書とノートを開いて勉強していた。胸のしこりがどくどくと脈打っている。私からも何か捧げなきゃ。私はそう思った。彼から大切な思いを奪ってしまったのだから、私も何か大切な物を失わなきゃ。それが詫びると言うことだ。そのように思った。私の気持ちは切迫していた。死ねと言われたら、死のうかとも思った。私はそれだけ、私のしたことを後悔していた。


「鈴木」


 私は休み時間、一人用足しに行こうとした鈴木翼を呼び止めた。

 鈴木翼は振り返る。長めの髪がふわりと揺れた。彼は眉根を寄せて、私を見る。私は泣きそうな顔をしていた。押しつぶされそうだった。不安と後悔に。鈴木翼が可哀想でしょうがなかった。

「あ……」

 いっぱい言いたいことがあった。謝りたいことがいっぱい。なのに、鈴木を前にして、恐怖にすくんで、何も声が出てこなかった。私はそれだけ、弱くなったのだ。ただ、見つめられるだけで縮こまってしまう。私は自分の存在が恥ずかしい。私はどんな顔をしていたろう。ぐしゃぐしゃで、みっともなくて、きっと、怒ったような泣いたような笑ったような引き吊ったような変な顔だ。鈴木翼はそんな私の顔を見て、うっと一歩引いたような嫌悪の顔をした。彼は私のすさまじい形相を見て、哀れんだのかもしれない。

「もう僕に関わらないで」

 鈴木翼は言った。冷たく、突き放すように。彼は私との関わりを絶ちたかったのかもしれない。だが、私は彼に吸盤の様にくっついて離れない。申し訳なくて。後悔という未練があるから。

「死ぬなよ」

 そう言うと、鈴木翼は難しい顔をした。深く思い悩んだ顔。私は、はっとした。鈴木翼は考えたのだ。死を。一瞬でも考えたことがある顔だった。私は情けなかった。彼にそんな気持ちを抱かせたことが。

「私が男になってお前のこと好きになる。そしたら、お前は私を好きになるか?」

「は?」

「西下大和は諦めろ」

「僕は諦めてる」

 鈴木翼はきちがいを相手するみたいに、上を見て、白目をむきだし、苦い口をたたえた。

「何で、僕に突っかかってくるの。僕のこと好きなの?」

 私は急に自分のしていることが不可思議なことに気づいて恥ずかしくなった。私は真っ赤になりながら

「違うよ」

 と言った。

「僕、貴方と関わっているとイライラするんだ。もう僕を苦しめないで」

 私は酷く傷ついた。彼を怒らせてる自分が許せない。そして、彼と関わって、なんとか許してもらおうとする自分のエゴが許せない。

「そうだね、もうあんたを苦しめないよ」

 そう言ったとき、明らかさまに鈴木翼はほっとしたように肩の力を抜いた。

 私はやめた。鈴木翼につきまとうことを。私の世界から鈴木翼を消すことにした。それが償いだ。




 家に帰って、私はぼうとしながら、母の寝室に入り、寝ている母のそばで、母のタンスの引き出しを漁り、薬を取り出すと、それを口に入れた。

「何やっているの」

 母は異変に気づいて、目を覚まし、私が母の薬の袋を持っていることを目にして、飛び起きた。

「吐き出しなさい!」

 母は私を抱いて背中を叩いた。

 私はわっと泣いた。

 悔しくて、辛くて、ふがいない自分が情けなくて。

 私は治らない病気になったんだ。だから薬を飲むんだ。この痛みが消えるならなんだってできる。だが、私の心はずっと痛みを感じたまま。

「もう嫌だ。もう嫌だ。みんな嫌い」

 嫌われているから嫌い。どうせ汚い心の私を好きになる人なんていない。世界中のすべての人を突き放すと安心する。傷つけられる前に傷つけるんだ。だからみんなが嫌い。

「大丈夫だから。お母さんはあんたの味方だから」

 母に背中を撫でられながら、優しくささやかれると、太い綱を握って明るい世界に引っ張られたような柔らかな安心感があった。

 何年かぶりに母に甘えた。母の柔らかい肩に顔を埋め泣いた。

「私最低だよ。人を傷つけてばかり。私嫌われてもしょうがないよね。いなくなってくれってみんな思っているんだもん」

「どうしてそんなこというの? 誰かに嫌われたの?」

 私は鈴木翼を思い出して、辛くなり、唇をかみしめた。

「嫌われるようなことをしたら謝るのよ。相手の方が正しいと思ったら素直に謝って従うの。もし許して貰えなくても、謝ることで悪かった自分にけじめができるわ。もう同じ間違いはしない。人生は勉強なのよ。正義が一つあったら、悪はその何十倍もあるの。ずっと良い状態の人なんていないの。綱渡りのようにどこに転ぶかわかない。もっとも悪い方に転ぶことが多いの」

 母の慰めなんて一つも聞いていない自分がいる。

「私もういい。やめる。人を信じるのをやめる。期待するのやめる」

 私は、ただいじけて、暗い自分の心に潜り込んで、悲鳴を上げていた。そうすると楽なのだ。なにもかもやめて、おしまいになったら、その先は真っ白いページで、痛みがなくなっているんだ。だから、突き放す言葉をはく。何も受け入れなければ終わるものだとも思っている。

 その日は夜まで母の腕の中に抱かれていた。子供に戻ったようで心地よかった。夜になるにつれ、気分が落ち着いてくると、妙な恥ずかしさがこみ上げてきた。

「もう大丈夫」

 私は母を布団に入れると、自分の部屋に入った。私は二段ベッドにのぼり、鞄の中から筆箱を取り出し、なかからカッターを抜き取ると、自分の日焼けした黒い腕にあてがった。おそるおそる切ると、分厚い皮膚は抵抗しながら、白い線を残した。間をおいて、赤い玉がぷつぷつと浮いてきた。

『なにやってんだろ』

『ばっかじゃねーの?』

 頭の中で自分に自分が声をかける。

 私は傷つきたかった。自分を痛めつけたかった。そうして、誰かから、近くで見ているかもしれない神様からでも哀みの目で見られたかった。優しい慈悲が自分にかかるのを感じたかった。そこには何もなかった。私が痛い思いをしても、制止している部屋があるだけ。布団があって二段ベットの木の枠があって、天井があるだけ。ただ何となく傷ついている自分がいる。自分に傷つけられた自分がいる。私も被害者だ。そう思えば、鈴木翼の気持ちとうまく交わる感じがした。そうして、綺麗なきらきらした何かが自分を満たすのだ。

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