第5話

 それから、鈴木翼は学校を休んだ。原因が私たちの行いにあることは明白だった。彼は好きな人から殴られて、彼から敵意をむけられたのだ。好きな人からそんな風に見られて、どんなに辛かったろう。


 王子は私と笑香を廊下で見つけると、冷酷な顔をするようになった。そして、並んで歩く山本和美を守るように背中を向けて通り過ぎる。彼は笑香と私の証言より、信頼している恋人の証言を信じたのだ。山本和美は私たちを睨むような怒っている様なまねはしなかったが、関わりたくないといいたげに真顔で通り過ぎた。二人が別れなかったことに私はほっとした。鈴木翼と片方がくっついてほしいと思っても、他人の恋をぶちこわす凶悪を働くのは酷すぎる。私は最低だ。いろんな人を傷つけて。私は私の身勝手な独善的な考えで行動したばかりに、それは盲目的であり、私は転倒したのだ。


 私は憂鬱だった。他人の刺すような敵意を前に胸が押しつぶされそうだった。

 みんなに申し訳なくて、私の心は閉じていた。お昼ご飯のおにぎりも喉に通らないくらい。部活にも身が入らない。夢うつつで、ぼうとしていた。彼らが傷ついて怒っていることばかり考えた。私は辛かった。とげにじっと触れているように胸がちくちくした。

 私に何ができるだろう。何もできない。起こってしまったことを無かったことにはできない。それは起こり、私は失敗し、現実という尊いものによって、裁かれたのだ。


 家に帰り、私は妹の美佐子に食欲がないことを告げた。

「めずらしい。風邪?」

「違う」

「ダイエット?」

 私はため息を吐いた。美佐子の答えがことごとく私の気持ちと違ったからだ。

「食欲がないんだよ」

 私はそう言って、子供部屋に入り、制服も脱がずに、二段ベッドの上に横になった。夕日が落ちて薄暗い部屋で私は深い疲労と悲しみに捕らわれ、涙が頬を伝った。苦痛に体が締め付けられるようだった。

 こんこんと部屋の壁をノックする音がして、私ははっとして、涙を布団で拭い、下を覗いた。美佐子が部屋の入り口に立っていた。

「お姉ちゃん、今日は一緒にごはん食べようよ。今日はお父さんも定時上がりで、そしたら、お母さんも一緒に食べるって言ってるんだ。もったいないよ。せっかくお母さんが起きてくれるのに。お願い、少しで良いから。残しても良いから……」

 自分のせいで家族で一緒になって食べる機会を見逃すのは何か嫌で、私は

「じゃあ、食べる」

と言った。

 母の世話や家のことを頑張っている美佐子を不幸にしたくなかった。せっかくの機会なのに、と一人残念がって哀しみを懲らえる美佐子を想像すると、私は彼女が可哀想で、何とかしたい気になった。


 父が帰ってくると、家族は食卓に並んだ。母はパジャマのままだった。背中を丸めて、テーブルに覆い被さるように座っている。私は大丈夫なのか母が心配だった。

「今日はオムライスだよ」

 美佐子は今日のために腕によりをかけて作ったごちそうをみんなのテーブルの前に置く。

「やった」隆矢が頭の上で拍手して、嬉しさを表現した。美佐子はえっへへと笑った。

「すごいな」と父が顔を輝かせる。モヤシのおかずとご飯と味噌汁の食事ばかりだったのに今日に限っては豪勢だったから、嬉しいのだ。

「おいしそうね」母も優しい声で言った。母がそう言うと、私まで嬉しくなった。母が暗いことを考えず明るいことを話しているのが面白いのだ。


 私は食べたくなかったが、場の雰囲気を壊すのが嫌で無理に食べた。

 食事が終わると、父は風呂に入りにいった。

「あ、お母さん、薬飲んでね。今日は新しく貧血の薬もでてるから」

 美佐子が薬の袋を出して、母に水と一緒に飲ませる。私と母と美佐子と隆矢はしばらくテレビを見ていた。私は何だか気恥ずかしかった。いつも寝てて関わりにならない母。急に哀しみに泣く母。苦しいことばかり言う母。それが、今はテレビを見て、面白そうとは言えないけど、集中して家族と一緒に並んでいる。母がいる。私は緊張した。母の柔らかな肩の贅肉を見ていると、懐かしくて温かい気持ちがした。普通のままでいてくれたらいいのに、今みたいに。私はそう願っていた。

 すると、突然何の前触れもなく母は吐いた。テーブルの上に胃液と赤と黒の米粒が散らばった。つんと酸っぱいにおいがした。

「うえ! 汚ねえ!」隆矢は自分の服にも飛び散ったそれを見て叫んだ。

「大丈夫だよ。お母さん。具合悪くなっちゃったのね。すぐ拭くから待って」

 美佐子がタオルを持ってきてテーブルの汚物をかき集める。母も申し訳なさそうに吐いたものを手でかき集めようとするが、それは逆に汚す結果となった。床にも汚物がぼたぼたと落ちた。

「いいよお母さんやるから」

「あー、もうこれ着られないじゃん。捨てるわ」隆矢は服を脱いでゴミ箱に捨てた。それを母は情けなさそうに見ていた。

「捨てるなんてもったいない。洗えば着られるでしょう」

 隆矢の態度に苛ついて、美佐子は言った。

「臭くて着られねーよ」

 隆矢は臭い場所から早く離れようとするように子供部屋に行った。

 私が何かする前に美佐子が一人で片づけた。美佐子は母の汚れた口周りを新しいタオルで拭いてやった。母は泣いていた。

「あの馬鹿隆矢ムカつくこと言ったけど、あとで叱っとくから」美佐子は言った。

 母は首を振りふり、

「お母さんなんて、お母さんなんて、いない方がいいでしょう。みんなに迷惑かけて、美佐子、あんただって、本当は嫌でしょう。せっかくあんた作ってくれたのに、こんなんしちゃって。みんな嫌なのよ。私のこと嫌いなのよ。お母さん死にたい。死にたい」

 母は嗚咽をあげて泣いた。

「そんなことないよ。仕方ないよ。具合悪くなったんでしょ。ごはんなんてまたいつでも作れるし、お母さんいない方がいいなんて言わないで。私お母さん大好きなのに。私お母さん死んだら、私も自殺するからね。ね、お母さん服ぬいで、手洗おう」

 子供のように泣く母を宥めながら、美佐子は母のパジャマを脱がす。

「汚れちゃったから新しいのに着替えよう」

「いい、いいの……」母は嫌がって、汚物のついた手で美佐子をのけた。美佐子は体が汚れるのもかまいやしなかった。


「また泣いているのか」

 父が風呂から上がって戻ってきた。母を見て呆れたように言った。母がこうなるのは彼にとって日常なのだ。何の変化もない日常なので、さして、興奮もしないのだ。

「またってなに、お母さんがまるで何でもないことでもしょっちゅう泣くみたいに。お母さんは傷ついたから泣いているのよ。隆矢が言ったのよ」

「何て」

「お母さんが吐いちゃって、それで、汚いって、あの子」

 美佐子は繊細な手つきで母の涙を拭った。それは赤ん坊の世話をするように優しく愛情に満ちていた。

 母はそれを良いことにだだをこねた。

「ああ、美佐子、辛い辛い、胸が苦しい、痛い痛い、疲れた……ああ、死にたい、もう死にたい……死なせて。美佐子お願い、お母さんの首締めて……お母さんの顔をお風呂の水に沈めて……殺して……」

 私は母を見て、イライラした。そんな些細なことで死にたいだなんて言うのが許せなかった。甘えてる。どうして汚いと言われただけで命が絶てるの? 馬鹿じゃないの。

「本当に死にたいの? なんでそこまで死にたいわけ?」私はあざ笑うように聞いた。どうせ死ぬって言って死なないくせに。

 母は私に言い聞かせるみたいに訴えかける。

「辛いの苦しいの胸の中が空っぽなのが、物足りないの。生きるのがもう嫌なの。何も楽しくない。辛いばっかり。お母さんは死ぬことが必要なの。それさえあれば、お母さんは不幸じゃないの」

「馬鹿言わないで」

 美佐子は母を叱って、私を睨みつけた。

「お姉ちゃん余計なこと言わないで」

「だって、なんでそこまで死にたいのかいまいち分からなくて」

「死にたくなるほど傷ついたからにきまっているじゃないの。傷ついているから死にたいとか言うのよ」

「あんなことで?」

「お母さんの心は病気で傷つきやすくなっているのよ。どうしてわからないの。些細なことでもだめな人はだめなの。何でもないことでもかまいたちみたいに人を傷つけることがあるの。お姉ちゃんって弱い人に冷たいからわからないんだ」

 美佐子は私に物が伝わらないのを悔しそうに歯を食いしばった。

「自分ではどうしようもない苦痛が、抵抗しても抵抗しても追いつかない苦痛という暴力が人を死に追いつめるんだよ。小さな事でも傷ついたら、それが痛かったら嫌だもの。小さな事でも痛みが永遠に続くことならもっと嫌だもの。お母さんの苦しみ分かる? 苦しみに終わりがないから辛いの。絶望という行き止まりにいるんだよ。見えるのは光じゃなくて暗闇ばかり。暗闇しか見えないのが絶望なの。辛いことがいっぱいありすぎて真っ暗なの。お母さんが死んだら、私みんなを怨むわ。理解のない家族を怨むわ」

 美佐子は怒りながら、静かに涙を流した。彼女は自分が泣いている事に気づいていないようだった。

 私は美佐子の涙を見ながら、鈴木翼のことを思い出していた。彼は学校を休んだ。辛いことがあったからだ。彼が被ったのは余りにも酷い仕打ちだったからだ。好きな人に怨まれて。彼は元気をなくし、死にたくなったかもしれない。彼と死を結びつけると私は胃のあたりが重くなった。彼が希望としていた恋が消えた。死ぬ。彼がもし自殺したらどうしよう。そうしたら、私のせいだ。私が見ているだけで幸せだった恋を、傷を付けて、彼を何もない外に放り投げてしまったからだ。

 朝になって、私は頭痛がした。布団をめくると、丸くこぶし大の血がシーツについていた。生理が来たのだ。私は面倒くさい洗わなきゃとか考えて、予定よりも早いそれに苛立ちながら、棚の引き出しからナプキンと下着を取ってトイレに向かった。トイレのドアを開けようとノブを回すと違和感があった。回り方が鈍い。ドアを引くと重くて、どうしたのかと思いっきり引っ張ってみた。すると、反対側のノブにひもを引っかけて首をつっている母がくっついてきた。私は声も出せず驚いた。急いで、ひもを母の首から引きちぎるように解いた。母は床にどさりと尻餅を付いた。母は何度も咳をした。生きている。ほっとしたのと同時にこんな子供っぽいことをする母に怒りがめらめらと沸いた。

「あんた母親のくせに何してんだよ!」

 非難を込めて、母の肩を力強くバシバシと叩き、私は叫んだ。

「ふざけんな!」

 涙がぼろぼろとこぼれて、母の服の上に落ちた。

 ふざけんな。

 鈴木翼に言われた言葉を自然に使っていた。

 私は、鈴木翼と死を重ねた。とたんに涙が止まらなくなった。

 目の前で死のうとした母の心配をしないといけないのに、私は鈴木翼の心配をしていた。なぜなら、彼が苦しむのは病気ではなく、私のせいだから。彼が大切にしていた物を壊してしまった。彼から幸せを奪ってしまった。幸せのないつまらない世界にしてしまった。私は自分の力が無になるのを感じた。なんてチンケ。

 でも、もしかして。私はふと気づいた。私の罪はそれだけじゃない。

「お母さんが死にたいのって私のせい?」

 私はお腹の中でガスがたまってしゅわしゅわするのを感じた。ストレスがたまるといつもこうなる。

「私がお母さんを美佐子みたいに大事にしないから、あまり話しかけないから、ほうっておいているから。冷たくされてると思って、傷ついていたの? お母さんこういうことしたのって私にも責任あったりする?」

 母は咳をするばかりで何も言わない。それでも、私はそれを肯定と取った。申し訳なくなった。何で今まで私は……。私は目の前が真っ暗になった。私のせいで全部壊れた。

「ごめんなさい」

 ほら、みんなを傷つけている。私こそ死んだ方がいい。氷のように冷たい水がひゅるひゅると私の喉を下っていく。

 下品で乱暴で冷酷で、私ほどの悪人はいない。

 太陽の光が窓を突き抜けて廊下を白い光で包んでいた。眩しい。私はこの眩しさはいらない。どこか暗いところへ行きたい。汚い私の姿が隠れるところ。私は誰よりも愚かだ。人の幸福を奪う疫病神。私は、自分が役立たずの能なしなばかりに腹が立ってどうしようもなかった。どうして、自分は間違いばかりしでかすんだろう。どうして自分の頭は正解を導き出せないの。自分の頭の悪さに辟易した。私が悪いんだ。私がなすことは全て人を苦痛にする。私は恐くなった。生きていくことが、存在することが。

「今日学校休みたい」

 そして、部屋でうずくまって何もしたくない。

 でも、それは逃げだ。自分の罪から目をそらし、自分の正体を隠しているだけだ。世間の目から。私は怪物だ。こんな人が存在していいの?

「なに、どうしたの」

 美佐子が私の叫び声を聞きつけてやってきた。

「お母さんが首つってたんだ」

 私は震える声で言った。

「お母さん病院に連れて行こう」美佐子は言った。

「病気なんだから」

「うん」

 母は病気なのだから、病院に行って薬をもらえば苦しみが癒えるかもしれない。

 でも鈴木翼はどうだろう。彼は病気じゃない。私が傷つけて、痛みを与えた。病気の痛みじゃなくて、人から傷つけられた痛み。

 彼ほどの痛みを、私は誰かから受けたことがあるだろうか。思い当たらなかった。私は、自分がされていないことを人にしてしまったのだ。普通の人は他人の尊厳を踏みにじったりしない。私は、下品な私は、教育のない私は、踏みにじってしまった。苦しめたかったわけじゃない。わからなかったのだ。どうして誰も教えてくれないの。世の中にはだめなことがあるのだ。誰か私のことをきつく教育してくれていたらよかったのに。私は誰にも教育されないから下品に育ったのだ。いや、生まれつき、悪い人間として生まれてきたのかもしれない。世の中の良い子はどうして良い子なのだろう。どうして、わたしはだめなのだろう。こんな自分は嫌いだった。

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